1年前、兄が経営している不動産会社で働いていた私に辞令が出た。内容は大阪に事業部を作るため、転勤を申し付ける、というものだった。
大学受験に成功した高耶さんとは一緒に東京で暮らす約束をしていたが、結局それは叶わず、私は初夏に一人で大阪へ。
高耶さんは東京で一人暮らしを始めた。
ようやく事業部が軌道に乗って来たのは半年後。しかし私の後任がなかなか見つからずにいたため、転勤は1年間以上に及んだ。
最初のうちは高耶さんと毎日電話をしていたが、そのうち電話という無機質なもの越しに言われた。
「毎日声を聞けるのは嬉しいけど、オレと話してる暇があったら仕事に精を出して、早く戻れるにようにしてくれ」
と。
そう言われてしまったらこちらも電話をかけるのを遠慮してしまうようになり、メールだけで会話をするようになり、それも今では週に数回になる程度まで減ってしまった。
最後にメールをしたのは先週だ。大事なことは書かなかった。会いたい、とだけ付け加えただけだ。
返事はそっけなく「オレも」だけだったが、高耶さんがそう思ってくれているだけでも救われる。
だけど明日は東京に帰れる。先週にはもう決まっていたのだが、高耶さんを驚かせるために内緒にしていた。
大阪まで乗って来ていたウィンダムを売り、東京のトヨタで新車を予約しておいた。
それを出して高耶さんをドライブに誘おう。きっとあの人は驚いた顔をしながら、次には笑ってくれるだろう。
東京に戻り、兄が用意してくれた新しい住まいを整理し、新車の納車を待っていた。
新しい車はシルバーのレクサス。高耶さんは気に入ってくれるだろうか。
逸る気持ちを抑えながら、高耶さんの携帯に電話を入れた。
「こんにちは」
『あ、直江?どうしたんだ?電話なんか珍しい』
「ちょっと急用で……明日はお暇でしょうか?」
『え?明日?うん、ヒマだけど。何?こっちに戻って来てんの?』
顔は見えないが、どことなく嬉しそうな声を出してくれているのがわかる。
「ええ、詳しい話は明日しますけど、ドライブなんかどうですか?」
『うん!いいな!会うのどのぐらいぶり?正月に戻ってきてからだから……』
「そうですね。だいぶ会ってませんね」
『そっか〜。楽しみだな!』
「はい」
数分で電話を切り、明日に備えてプランを練った。
待ち合わせは高耶さんのアパート前。それから二人でどこかで昼食を取って海が見える町までドライブをしよう。小田原なんかどうだろう?
まだ整理が終わっていない我が家で、一人夕飯を済ませ、風呂に入り、明日の服をダンボールから出している時だった。
携帯から最近では聞こえてこない着信音がした。高耶さんだった。
「どうしたんです?」
『今から来い』
「え?」
『いいから、今から来いって言ってんの』
「もう深夜ですけど……」
『……じゃあいい……』
とても寂しそうな声だった。そして少し不機嫌でもある。
「わかりました。行きますよ。でも少しだけ待っててくれますか?さっき風呂から出たばかりで、髪を乾かさないと。アルコールもまだ抜けてないんです。そうですね、2時間ほどしてからでしたら……それじゃダメですか?」
『……それでもいい。だけど早く来い』
「わかりました。待っててくださいね」
高耶さんのアパートに着いたら深夜2時を回るだろう。さっき飲んだビールを恨めしく思う。飲んでさえいなければすぐにでも行けたものを。
しかし大事な人のためだ。醒めたらすぐにでも向かおう。
窓を開けて車を走らせていた。初夏が過ぎ、もう夏になろうとしている温かい風が入る。
高耶さんが待つアパートへと法定速度を守りながら急ぐ。
見えてきたアパートは1年前と変わらないまま(当たり前だが)そこに建っていた。
アパート近くの国道にあったパーキングに車を停まらせ、少しだけ急ぎ足で向かう。階段を駆け上がり、高耶さんの部屋の前で立ち止まり、久しぶりに会う恋人の顔を見る緊張と期待で高鳴っていた胸を少しだけ落ち着ける。
ドアをノックしようと右手を上げた瞬間、目の前のドアが開いた。
「よう」
「……お久しぶりです……」
だいぶ緊張していたんだろうか。心臓がバクンという音を立てた。
「入って。待ってたんだ」
そう言った彼の姿は相変わらず美しく、気高く、愛おしかった。
靴を脱いで狭い部屋に入り、高耶さんが用意をしていたのだろうスペースに腰を下ろす。
正面に座った高耶さんがスッと透明なグラスを出した。
「わり。ミネラルウォーターしかねえんだ」
氷が入った水がふたつテーブルに乗った。
向かい側に座った彼は、1年前と違った。
とても大人びて、幼さが抜け、さらに美しくなっている。会わなかった時間が長かったのだと改めて思わせられる。我が身を振り返り気が引ける、そんな感じだ。
「何かありましたか?」
「何かって?」
「急用だったのではないんですか?」
「いや、そーじゃないんだけど……」
この口ごもり方はいつもの高耶さんだ。本当は何かあったのに、そう言わないで強がって。
「けど、なんです?」
「早く、会いたくて……明日までなんか待ってられなくて」
転勤が決まったときも、東京に帰省するのがダメになったときも、強がっていたのを知っている。
口ごもりながら、オレは大丈夫だから、といつも私に気を使っていた。
そんな彼を問い詰めるといつも怒ってしまったのに、今日は違うようだ。
「少し、話しましょうか」
「あ、その前に……あの、触っていいか?」
「はい?」
「本物だよな?本物の直江だよな?」
「……ええ」
高耶さんは安心したように笑顔を作って、膝立ちでこちらへ寄ってくる。
手を伸ばしたから、その手を取って自分の顔に触れさせた。
驚いたように顔を赤らめたが、素直にされるがままになり、私の顔をしばらく触っていた。
「どうですか?偽者だった?」
「ううん。本物だった。直江だ、直江」
「そうでしょう?」
ゆっくりとお伺いを立てるようにして腕を伸ばし、こちらの腕の中に入るように促すと、目を伏せてすっぽり入ってきた。
「心臓、バクバクしてるぞ」
「そりゃそうですよ。あなたに会うのも、こうして抱いているのも久しぶりなんですから。緊張してるんです」
「変なの。オレもだけど」
高耶さんの背に回した手から、高耶さんの鼓動が伝わってくる。早鐘のように打つ鼓動が。
「愛してますよ。会いたかった、ずっと」
「オレだって会いたかったんだよ。なかなか帰ってこねーし、電話も減るし、メールもあんまりくれないし。捨てられるのかってビクビクしながら、毎日、連絡待ってたんだぞ」
帰れなかったのは仕事のせいですが、電話はあなたが減らせって言ったはず。メールはあなたが返事をくれないから。
そう言ってやりたいのは山々だったが、言ってしまえば拗ねるのだろう。
だけどそうやって寂しさを私のせいにしていれば、あなたの気持ちが軽くなるなら、そういうことにしておきましょうか。
「それはすいませんでした。忙しかったんですよ」
「うん、知ってる」
「捨てられるのは私だと思ってましたけどね」
「んなわけねーだろ!バカか、おまえは!」
なじられて、頬をつねられて、そのままキスされた。
「だっておまえはオレのこと一生大事にするって言ったじゃんか。だから捨てないよ」
「そうでした」
高耶さんを抱えたまま、しばらく話し込んだ。大阪であった出来事、大学であった出来事、高耶さんのバイト先の話。
離れていた間の想い。色々と話した。
「んで、今度はいつ大阪に戻るんだ?」
「戻りませんよ。もうずっとこちらにいられます。あなたと一緒に」
「……マジ、で?」
「ええ」
「なんでそれを早く言わないんだ!」
「聞かれませんでしたから」
「バカか!」
大人っぽくなったといってもまだまだあなたは子供っぽくて、表情をクルクル変えて私を驚かせ、そして虜にする。
「ドライブしませんか?今から」
「明日にして、今日はもうゆっくりすればいいのに」
「あなたに見せたい景色があるんです。このぐらいの予定変更はしたっていいでしょう?」
「……んー、うん」
手を取ってアパートを出る。そのまま手をつないで車まで案内した。
「新車……」
「ええ。この機会に新しくしたんですが、気に入りました?」
「さあなー。走ってみないことには。オレは性能にはうるさいぞ」
「知ってますよ」
すぐに憎まれ口を叩くのは、あなたが照れている証拠。
助手席の彼に、少し大人っぽくなりましたね、と言ってみた。そうしたら顔を少しだけ赤らめて「そりゃ1年も経てば年も取る」と言い返され、その後はすまし顔になって黙ってしまった。
だけどそんな彼と一緒にドライブなんて、あの頃を思えば奇跡のようだと思う。
離れてしまったらもう終わるんじゃないかと何度も考えた。そんな時期が嘘のようで。
「どこ行くんだ?見せたい景色って?」
「ありきたりなんですが、海です」
小田原ではなく、向かった先は幕張だった。夜も明けようとしている時間帯は、首都高で幕張に向かう道はすいていて、舞浜を過ぎると空が大きくなる。
高耶さんが空を見上げながら窓から手を出す。危ないからやめろと注意してみたが、やったことのないヤツにはわからないと小憎らしい笑顔で続ける。
まるでその消えゆく星を彼のその手で引き連れて走っているような錯覚を覚える。
「気持ちいいんだぞ、こうやると。風を触ってる感じがする」
「そうなんですか?」
あなたのそんなところが好きです。輝かせる瞳も変わらない。
「あと少しで着きますよ。そろそろ空が白んできたから急ぎましょうか」
高速を飛ばして、幕張に着く。臨海都市のような街並みを抜けて走る。
そして目の前に大きな建物が聳え立つ円形の広場のような場所へ出る。建物の名称は千葉マリンスタジアム。
「確かこの辺です」
球場の脇から海へと続く遊歩道がある。以前、ひとりで考え事をしたくて来た場所だった。高耶さんのことを考えに。
あの頃の私は彼にどう接していいか思い悩み、孤独を友としている男だった。
だがこの海から見える景色が私に勇気を与えた。
車を停めてドアのロックを外すと、高耶さんはひとりで先に出てしまった。でも、俺が出て来るのを待っていてくれる。
待ち遠しそうに、少しだけ口を尖らせて。早くしろよ、と。
もう濃紺から群青色に変わってきた空を背にして。彼のちょうど頭の上に、明けの明星があった。
「こちらです」
高耶さんの手を取って、誰もいない遊歩道に足を踏み入れる。
照れたような冷たい手は、しかし拒むこともなく私の手の中に収まっている。
両側を木で囲んである遊歩道はもう砂浜の砂が敷き詰められていた。
「暗いから気をつけて」
「わかってるよ。子供じゃねーんだ。危ないからって手ェ繋ぐこたねーのに…」
「じゃあ、離しましょうか?」
「いい。このまんまで」
カーブした遊歩道を進むとすぐに海が見える。東側に向かっている海岸は、その空を薄明るく染めている。
「日の出?」
「ええ」
誰もいない砂浜へ出ると彼は私の手を離し、波打ち際へと歩を進める。名残惜しくて自分の手を見つめてしまった。
そんなこともおかまいなしに、高耶さんはワクワクした子供のようにしゃがみこみ、足元に寄せる波を撫でるように触る。
何もかもを青く染める、真っ青な光が彼の横顔を浮かび上がらせる様は、この宇宙に彼が一人きりしかいないということを思い知らせた。
「直江」
「はい」
「おまえが元気で良かった。いつも心配してたから」
「……高耶さん……」
「オレ、おまえに言われるほど変わったかな?あの頃のまんまの方が良かったか?」
「……そんなことはありませんよ。確かに大人っぽくなって変わりましたけどね」
「なんでそこでためらうんだよ」
また拗ねてしまった。どう言っていいのか躊躇したのが気に障ったのだろうか。
「高耶さん」
「んだよ」
「愛してます。いつも、愛してました。だけど」
「……だけど……って?」
何か私が聞きたくないことを言うのではないかと不安げな顔をする。
「いつの日よりも、今のあなたを愛しています。大人になったあなたを今の瞬間一番、愛しています」
絶句というのはこんなのだろうか。高耶さんは目を丸くして私を見て、石膏像のように固まった。
「永く、いつの日も、ずっと、今のあなたをこのまま愛します」
「バッカじゃねーの……」
だけど高耶さんは言葉とは裏腹に、立ち上がって私の腕の中に入ってきた。
「オレも」
「あ……」
「今の直江が本当に、愛おしいって思ってる」
「たか、や、さん……」
「キスしてよ、直江」
夏の空が明ける。
朝日のあたる道を、ふたり同じ想いで歩いた。
END
あとがき
いつだったか忘れましたがトワコさんの
サイト創設祝いで差し上げたものです。
サイト閉鎖に伴いこちらへお引越ししました。