空しく広がった真っ黒の頭上から、冷たい雨が降り注ぐ。
男は空を見上げ全身でそれを受け止める。
まるで自分に制裁を与えるかのように。
服はすっかり濡れそぼり、髪は額に張り付いていた。 『さよなら……、直江』 耳に残る声。
彼はそう自分に告げて、霧の中跡形もなく消えていってしまった。
あの日のことをどんなに悔いたことだろう。
今も思い出して拳を強く握り締める。
硬く結んだ左の掌には、失意の深さを物語るような青黒い傷跡が刻まれていた。
彼を止めることが出来なかった。
哀しい微笑が脳裏をよぎる。
それがどんなに自分を想っての別離だったとしても、納得する事が出来ない。
自分はまだ、彼に何一つ肝心な事を伝えていない。
魂核の存在に限界がきていること。
そして何より、自分が謙信公より調伏を命じられてる事も。
思い出す度、言い知れない重圧が直江の胸に重く伸しかかる。
こうしている間にも、彼の魂は刻一刻と大爆発へ向けてカウントしているというの
に。
自分は一体こんなところで何をしているのだろう。
一刻も早く彼を見つけなければならないというのに──
気持ちばかりが先走る。
唯一救いなのは、大阪で彼らしき人物の有力な目撃情報を得たことだ。
居所追求にまで至らなかったとはいえ、それまで生死さえ不明だったのだから、
その事実は大きい。
あの人が生きている。
今もこの世界のどこかにいる。
それだけがただ一筋の希望だった。 雨足が強くなってきた。
視界がかすむ。
愛しい人の名を想いの限り呼んで見る。
だけどそれは、すぐに降りしきる雨にかき消されてしまう。
ブラックホールのような暗黒の空には、自分の想いが届かない。
あの人にまで届かない。
あんなに何度も深く交わったのに、残されたのはもうこの躯が覚えている、
あの人の肌の熱さだけ。
この雨は、オレの中のあの人まで奪おうとでもいうのか。
これ以上誰にも、たとえ神であったとしても、
オレからあの人を奪う事は許さない!
直江は頭上を睨みつけた。 「直江の旦那ー、そんな所で何しちょるがよ」
背後から若い青年の声がした。
青年は暗闇から直江の姿を見るなり、慌てて駆け寄った。
「あーあびしょ濡れやないですか。いくら旦那が雨も滴るいい男じゃきゆうても」
「………」
反応はない。
「もう、それをゆうなら“水も滴る”じゃろとか、つっ込んでくれても」
「………」
ふうっ。
何を言っても無駄だと察して、一蔵は一旦車に戻って傘とタオルを取りに行った。
ひょんなことから直江と行動を共にするようになった一蔵だが、これがただの主人探しではない事は、うすうすながら感じていた。
いくら主人の魂魄が死にかけて予断を許さない状況とはいえ、直江のあの様子は尋常じゃない。
家臣の忠誠…というのとは少し違う。
もっと別の何かがあるようだ。
何がそこまで彼ほどの男を駆り立てるのだろう。 「旦那、いつまでもそこにおったら風邪引きますきに、建物の中に入りやしょう」
一蔵に促されながら、ようやく直江も歩き出した。
今日は山間のとあるひなびた温泉旅館へ来ていた。温泉…とはいえ、辺りには何軒かポツポツ民家があるだけで、ひどく閑散としていた。 誰もいない静かなロビーの椅子に座ると、向かい側に座った一蔵が切り出した。
「旦那、さっきこの温泉に泊まってる客に、たまたま四国へ行ってきたばかりっていう人がおって、試しにご主人様の写真見せて
みたら、そういう人を見かけたっていうちょったがです」
「なんだと、それは本当かっ」
いきなりぐいっと胸倉を掴まれて、
「ぐ、ぐるしいがですって、旦那」
一蔵がもがいた。
「…すまない。で、その話は有力なのか?」
「ご主人様の特徴とか、風貌とかかなり本人に近いと思いますけんど」
「四国だな」
星の岩屋の件もある。あの人がいるとならば、なおさら早急に向かわなければ。
急に立ち上がった直江に、
「ちょちょ、まさか今から行くとかって言わんといて下さいよ」
ぎょっとして一蔵も立った。
やべー。旦那のこの顔は、すでに向かう気でおる顔や。なんとか止めんと!
「旦那、はやる気持ちはよーく分かっちょるつもりですけんど」
「嫌ならおまえはついて来なくていい」
「今日はもう遅いですきに、明日朝一番に出発したほうがええですって」
今日も相当な距離を運転してきた直江だ。さすがの直江でも、疲労が続いた上での夜間の運転は厳しいはずだ。
黙り込んだ彼に、思い留まってくれるよう哀願の眼差しで一蔵が見守る。
暫くの沈黙を破って、
「…分かった。明日出発しよう」
静かに直江が告げた。
ほうっ。
一蔵が肩を撫で下ろす。
「旦那あー、分かってくれてよかったですき。そうこなくっちゃ!今日はゆっくり温泉にでも入って、久しぶりに布団で休みましょ
うって」
ここ暫く車での寝泊りが続いたので、一蔵の喜びも一入だ。
しかし安堵したのも束の間、
「明日は3時に出発する。いいな、一蔵」
えええー!?
「そ、そんなー。3時って、今からいくらもないじゃないですかー」
「文句があるなら」
「わわわ、分かりましたって。3時出発で了解ですき。こうしちゃおれん、風呂入ってはよう寝とかんと」
そう言うなり慌しく一蔵が自分の部屋に戻っていった。 (高耶さん…)
私は絶対諦めない。
魂があなたを求め叫び続ける。
左手の掌の傷を食い入るように見つめた。
あなたという存在を失ってできた、醜い傷跡。
この傷が消えないように、あなたへの想いも決して消える事はない。
もう一度この手であなたを掴まえてみせる。
そして、もうニ度と離さない。
あなたを救う方法を必ず見つけ出す。 だから自分が見つけるその時まで、どうか生きていて下さい。
私が在るべき場所は、たった一つ。
あなたの傍らだけなのですから── END |