□□□ ガラス越しの恋 □□□

秋葉 志歩様からの頂き物

 

 

吐く息が白い。
冬の川沿いは冷え冷えとしていた。
それでもどこか優しい川音が、心を落ち着かせる。

前に直江と来た時は、確か若葉が青々としていた時期だった。
今日はいつもと空気の冷たさが違うと思ったら、案の定雪になった。

千曲川の河川敷きに1人バイクで降り立った高耶は、
しゃがみこんでただ舞い降りてくる雪が、
川の流れに消えていく様を、いつまでも飽きることなくぼんやり眺めていた。

私に会いたくなったら、いつでも呼んで下さいね

いつだったか直江がオレに言った。
バーカ、お前んち宇都宮だろ。気軽に来れるような距離じゃないじゃん
はなからまともに受け止めていなかったオレに、

それでもあなたが本当に私を必要としているのなら、どこにいたってすぐに駆けつけます

そう告げるあいつの目はひどく真剣だった。

本当だろうな?
ええ、本当です。だからどんな時でも私の事を思い出して下さいね──

嘘つき。
こんなにずっとお前を呼んでいるのに、ちっとも来ないじゃんか。
お前がいつまでたってもこないから、もう凍えて死にそうだ。
早くその暖かい腕で、冷たくなった躰を包んで欲しいのに。
高耶は灰色の空を見上げながら、自分の躰をぎゅっと抱きしめた。

その時、背後に人の気配を感じて高耶が鋭く振り返った。

「おまえ…」

そこには意外な人物が立っていた。
黒いロングコートを羽織った男だ。
眼鏡の奥の幾分つり上がった瞳が、食い入るようにじっと高耶を見ていた。

「開…崎……」

立ち上がった高耶の表情が途端にこわばった。
ゆっくり近づいてくる開崎に身構える。

「おまえが、なんでこんな所に」
「あなたの呼ぶ声が聞こえたから」
「な…」

突かれたように高耶が反応した。
そんな様子を楽しそうに伺いながら、

「なんて、冗談です。ここへは仕事で来たんです。
もちろん“裏の”ね。たまたま車からあなたの姿を見かけたので」
「おまえの事情なんか知らない」
「あなたこそ、どうしてこんな所へ?」
「おれのことなんてどうでもいいだろ」

ぷいっとそっぽを向いた高耶の腕を、開崎が荒々しく掴んだ。

「痛い、放せよ」

キッと強く高耶に睨まれても、少しも動じなかった。
それよりむしろ余裕の表情で、空いてる右手でおもむろに眼鏡を外した。
高耶が大きく目を見開く。
この男の素顔を見たのはこれで2度目だ。
クスッと口元を吊り上げると、

「キスの邪魔になるでしょう?」

そう言いながら顔を近づけたきた。

「!」

ぐいっと高耶を引き寄せて、強引に唇を重ねた。

「んん…」

必死に離れようともがいても、なぜか懐かしい感覚が高耶の抵抗力を奪った。
どこかで嗅いだことのある甘い匂い。
キスの仕方。
まるであの男のような錯覚さえしてくる。
拒めなかった。
お互い息が苦しくなるころに、ようやく開崎が唇を放した。

しばらくの沈黙の後、清流を眺めていた開崎が静かに切り出した。

「鞭声粛々 夜河を渡る……ここは確か川中島の合戦があった場所でしたね」
「……ああ」

高耶も重い口を開く。

「ここで亡くなっていった沢山の人の想いは、どこへ行くんでしょうね」

開崎の言葉に、ふいに違う場面がダブった。

この地に残した死者たちの想いは、どこに行くものだと思いますか?

あの時直江に問われ、そして彼が指差した千曲川の流れは、
みるみるうちに赤く染まりはじめ…まるで鮮血を流したような…

(──鮮血)

それはいつの間にか、川の流れではなくなっていた。
炎と鮮血で真っ赤に染まった世界。
ぼたぼたと床に落ちる大量の血。
それは留まることなくあふれ、赤い海をつくっていった。

「あ…」
(何?)

両腕が重い。
着ていた白い着物の胸が真っ赤に染まる。

「景虎殿?」
「ああ…」

頭の中がめいいっぱい危険信号を発している。
断片的に蘇るイメージ。
高耶の身体から一気に脂汗がにじみ出る。
これ以上見てはいけない。
頭が割れる。
痛い。

「あああああああー」
「景虎殿、景…高耶さん、高耶さん」

あたまを抱えてうずくまった高耶を、開崎が夢中で抱え込んだ。

「しっかりして下さい、高耶さんっ!」

何度も躰を揺さぶられる。
開崎の声がだんだん遠くなっていく。
開崎の暖かい身体に彼の面影を感じながら、高耶は意識を手放していった──

 

男はずっと高耶を抱きしめていた。
男の胸に顔をうずめる横顔はひどくやつれ青白かった。

どんなに偽装現実に、神経をすり減らしていることだろう。
いつも彼の悲痛な叫びが、男の胸に響いていた。
それは弾丸で撃ち抜かれたより深く彼を貫いた。

あなたと私の間には、世界を隔てる大きな壁ができてしまった。
それはガラスのように、あなたがどれだけ苦しんでいるか見て取れるのに、
この躰では、あなたの魂にまで触れることが出来ない。
こんなに今もあなたを強く抱きしめているのに…。

自分がその壁を壊せるのなら、どんなに傷ついたっていい。
だけど、その破片は彼の心に容赦なく降りかかるだろう。

彼が、自分の力で壁を打ち破るしかない。
闇に沈んだ彼と自分の本当の真実を。
彼が止めてしまった正常な時間を取り戻さない限り、
その壁は自分たちに大きく立ちはだかることだろう。

彼は優しく高耶の髪を梳いた。
そして額に口付けると、この躰のおかげで身に付いた鍼の知識で、
彼の記憶に繋がる神経に、鍼を打った。

これで今まで自分と過ごしていた時間が消える…。
最後に言い聞かせるように囁いた。

「待っていて下さい、高耶さん。必ずあなたの元に帰ってきますから。
あなたのすべてを抱きしめるために──」

高耶が目を開けた。
だが、彼の目にはもう開崎の姿は映っていなかった。
起き上がってバイクに跨ると、再び偽装現実の中に戻っていった。
彼の姿が見えなくなるまで開崎は見守り続けた。
そこへおもむろに携帯の着信音が鳴った。

「…私だ」
電話の相手はひどく慌てていた。
「直江様、一体どこにいらっしゃるのですか?」

応答は、ない。
相手が何か考え込んでから、遠慮がちに切り出した。

「………………景虎様のところ…ですか?」

応えない代わりに否定もしなかった。

「すぐに開崎を自宅に帰らせて、ご自身は日光にお戻り下さいませ」
「………ああ、分かった八海」

もう一度、千曲川に目をやった。
川の向こう岸からはもう長野市だ。
今の自分を取り巻く環境は、あまりにもあの人とかけ離れてしまっている。
こんなにも救ってあげたいと思っているのに。

何もしてやれないやりきれなさと痛みに、思わず目を細めた。
舞い落ちる雪が、辺りを白く染めていく。

男は上着のポケットにしまっておいた眼鏡を取り出すと、
かけなおして再び開崎誠の顔に戻っていった。

──レンズのガラスで想いを隠すように。
そしてコートを翻らせて、この地を後にした。

次にこのガラス越しに映るあなたが、少しでも健やかであることを祈って……。

 

 

END

 

 

 

お礼

すげえ!志歩ちゃんすげえよ!
カムイ、店じまいしたいぐらいすげえ!
これからもヨロシク〜 。