*〜*喫茶直江*〜*
4
「やはりこちらでしたか」
昼間の賑やかさがウソのように、すっかり静まり返った店内。
暗い庭に面したテラスの柱にもたれるように立っていた高耶に、
背後から直江が声をかけた。
振り返ると、湯気のあがったマグカップを手渡された。
入れたての香ばしいコーヒーの匂い。
「高耶さんは、その場所がよほどお気に入りのようですね」
高耶の姿が見えなくなったと思って、探すとたいていこの場所にいるので、
そう感じた直江である。
「なんとなく…な」
そういって、また高耶は庭に目を向けた。
すっかり夜の風は冷たくなってしまったけれど、どこからか甘い香りがした。
風に乗って、きっと近くに咲いている金木犀が香っているのだろう。
「寒くありませんか?」
そう聞きながら傍らに立つ直江に、
(あ…)
まただ、この感じ。
前にもこんなこと、あったような──。
「高耶さん?」
我にかえると、直江が心配そうに見つめていた。
慌てて、
「なんでもない」
そう言いながらも、またすぐに黙り込んで何か思いをめぐらせているようだった。
仰木高耶と橘義明として出会ったのは、まだそんなに経っていないけど、
上杉景虎と直江信綱として過ごした時間は、どんなに膨大な時間だろう。
自分の傍らにはいつも彼がいて、優しい眼差しがいつも自分を見守ってくれていた。
思い出そうとすれば、きっと今すぐにでも昨日の事のように、
過去の記憶も取り戻すことが出来るはず。
なのに思い出せないでいるのは、自分がただそうしないだけ。
思い出したくないだけ。
自分に都合の悪い記憶をわざと見ようとしないで。
──もし全部記憶を取り戻してしまったら。
きっと今の2人じゃいられなくなる。
…彼を失ってしまう。
そんな危機感が、今も高耶の記憶を封印し続けていた。
思い出さなくても分かる。
自分がどれだけ彼を傷つけてきたか。
苦しめてきたかを──。
「高耶さん、そろそろ中に入りましょう」
高耶が風邪をひいては大変だと声をかける直江に、
「いや、もう少しこうしている…」
高耶はまるでそんな自分に罰を与えるかのように、冷たい風に身をさらし続ける。
その姿は傍からみていても痛々しくて、直江は訳もなく胸がしめつけられた。
どれだけそうしていたのだろう。
しんという音が聞こえてきそうなほど静かな静寂の中、
すっかり冷えてしまった肩が、ふいに暖かい何かに包まれた。
「直江?」
驚いて振り返ると、後ろから直江が自分を抱きしめていた。
「あなたはあなたのままでいいのですよ」
「え…」
高耶の肩越しに顔をうずめて言い聞かせるように、もう一度。
「あなたはこのまま、ずっと私の側にいて下さい」
気持ちを読み取られたかと思った。
実際直江には言葉にしなくても、自然に気持ちが伝わるのだ。
そんな2人を引き離そうとするかのように、冷たい風が吹き抜けた。
そうはさせまいと、直江は一層強く高耶を抱きしめて、
心の奥から搾り出すような声で、
「もうあなたのいない世界には耐えられない」
「直江…」
しばらく直江の腕の中でじっとしていた高耶が、
そっと直江の腕に手をのせて、
「おまえの側にいる」
静かに口を開いた。
「高耶さん…」
高耶が正面に向き直ると、直江の目をじっと見つめたまま、
「もう絶対おまえを1人にさせない」
高耶の意思の強さが、切れ長の瞳にはっきりと映し出された。
そんな眼差しを直江は真摯な瞳で受け止めた。
「はい」
──これからは、オレが彼を優しく包む翼になるんだ。
傷ついた心が静かに癒されるように。
もうこれ以上傷つく事がないように。
今度はオレが守るんだ。
END
続く