「高耶さん、大丈夫ですか?こちらへ」
「ああ」 2人が駆け込んだのは、とある小さな小学校だった。
鍵を念でこじ開けて中に入った。人気のない廊下の空気は外と殆ど変わらずひんやりしていた。静かな校舎に2人の足音が響く。
カラカラ…教室の戸を開けると、月明かりでぼうっと見える木造の教室には、小さな机が並んでいた。
壁には子供たちが描いた絵が貼ってある。 ──まだ調伏力を自分のものにできていない高耶には、今回の任務は少しきつかったようだ。
それに加え、相手の怨将の力が思った以上に強力で、直江のサポートで辛くも調伏こそすれ、すっかり夜も更けてしまい、急遽この校舎に転がり込んだ2人である。 「高耶さん、どこも怪我はないですか?」
心配そうに直江が高耶の手足をみる。
「平気」
高耶が窓際の壁にもたれて体育座りすると、直江も隣に座り込んだ。
「悪いな直江、足手まといになっちまって」
「そんな…気にしないで下さい。あなたが無事で何よりです」
「今夜はここで夜明かし、か」
「そうですね、こんなに遅くなるとは思っていませんでした」
おそらくもう、どこのホテルも予約は無理だろう。
「まさか、こんな時まで学校にいなきゃなんねーとはな」
高耶が苦笑した。
それに引き換え、
「私は嬉しいですよ。あなたとこうして学校にいられるなんて機会、滅多にありませんからね」
直江はなんだか嬉しそうだ。
「加助事件依頼だな」
「あの時は、こんなにのんびりとはしていられなかったですからね」
「そうだ! せっかくだからおまえさ、なんか怖い話でもしろよ。学校の怪談話とか、なんかしんねーの?」
「高耶さん…私たちがそんな話をしたって仕方ないでしょう」
呆れ顔で直江が答えた。
「う……、じゃ、じゃあさ、恋バナはどうだ?」
「恋バナ?」
「あれ知らないのか?昼の番組。サイコロ転がしてトークするやつ」
「知りませんよ」
「恋バナって、恋の話の略。そういえばおまえ、彼女とかっていないよな。今までにそういうのないの?」
無邪気に聞いてくる高耶が少し恨めしかった。
「あなたに語れるような恋愛は、今までしたことはありません」
心なしか言葉にトゲを感じつつも、
「じゃあさ、初恋はいつだったわけ?まさか初恋もない…なんて言わないだろ?」
高耶が目を輝かせて聞いてくる。
(あなたっていう人は…)
直江が眉間に皺を寄せる。
「さあて、いつだったでしょうね。あんまり遠い出来事で覚えていません」
「おまえってつまんないやつだな」
初恋、なんて………。
苦い記憶が蘇る。
この肉体に換生して7年目。勝長から景虎の存否を不明だと告げられ、絶望を受けた。
それからの日々は家に引きこもり、発作的に何度か手首を切った。深く刻まれた、消えることのない左手首の傷。
今は時計で隠れている。
ふいにその傷が疼きだした。思わず時計越しに手首を押さえる。
そんな自分を立ち直らせてくれたのは家族だ。 “おまえがここにいるのは、かならず何かの意味がある” 父親の言葉を支えにして、どうにか生きてきた。
砂漠の中でただひたすら一滴の水を求めるかのように、何度も襲いかかってくる絶望と闘いながら。
そしてようやく見つけた──
あんなにもがいても得られなかった安息が、今はすぐ隣にある。 ふと我にかえって、傍らの彼に聞いた。
「あなたこそ、初恋はいつだったんです?」
返答がない。
「高耶さん?高耶さ………」
顔を高耶に向けた時、不意に高耶の髪が直江の首筋に当たった。そのまま高耶の重みが肩越しに伝わってきた。
すー…。
静寂の中で聞こえてくる、安らかな寝息。直江が目を見開いた。
いつの間にか眠ってしまったらしい。慣れないことをして、すっかり疲れてしまっていたのだろう。
目を閉じると急に幼くなって見える。こうして間近で見ると、まつ毛が長いことに気付く。サラサラの黒髪から、ほのかにシャンプーの匂いがした。
高耶を起こさないように充分気を配りながら、寝やすいように身体をずらしてやると、そのまま素直にもたれ掛ってきた。
そして着ていたコートを器用に脱いで、高耶を包むように掛けた。
安心しきったように身を預ける高耶が愛しく思えた。自分に向けられた好意が、たとえ父親に寄せるようなものだったとしても。
あなたの重み。
あなたのぬくもり。
叶うものならいつまでもずっとこうしていたい。
このまま寄り添っていたい。 もう一度高耶の顔を覗き込む。
少し肉厚の柔らかそうな唇。
無意識に高耶の顎を取っていた。
吸い寄せられるように顔を近づける。もう少しで唇が触れる距離まできた瞬間、目の前の彼が眉をぴくっと動かした。
「ん…」
小さく呻くと、重そうな瞼をゆっくり上げた。
「あ…れ…?直江?」
あんまり近くに直江の顔があったので驚いた様子だ。
何事もなかったように直江も離れる。
まだぼんやりする頭で高耶が聞いた。
「オレ、寝てた?」
「ええ。今日は一日中駆け回っていたので、疲れていたんでしょう」
「そ…っか、ワリーな。おまえだって疲れてるのにさ」
「いえ、そんなことは気にしないで下さい。それより残念です。もう少し眠ってて下さってたなら…」
「え?」
「いえ、なんでもありません。まだ夜明けまで時間があります。もう少しおやすみになって下さい」
「それはおまえのほうだ。ったく、おまえはオレのことばっか気を使いやがって」
「あなたを守るのが私の役目ですから」
「それでもこれは命令だ。おまえもちゃんと寝ること!…いいな?」
「はい」
「それと…」
さっき自分が掛けたコートを半分直江に掛け直して、
「半分こな」
高耶が照れたように微笑した。
「…はい」
冬の寒さは厳しいけれど、寒ければ寒いだけ恋人同士の距離が縮まる。
それはそう、神様が与えてくれたさりげない心遣い。
凍える夜も肩を寄せ合えば温かいから。
この想いが冷めないように、傍らの彼の肩に手をまわした。
END
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