高耶さんと大きいケンカをしてしまった。
原因はとてもささいなことで、どうしてあんなに怒ったのかもわからない。
その原因というのは同居を始める日にちについてだ。
同居をするということは前々から決めてあったことだから、高耶さんとしては先月俺が転勤先の大阪から戻ったのだからすぐにでも、と思っていたようだ。
しかし俺のマンションは残念ながら一人用の部屋で、しかも兄から与えられた部屋だからそう簡単に引越しをするわけにもいかない。
不動産屋である俺が契約を無視して二人住まいをするわけにはいかず、だからと言って引越しをしてまた兄に迷惑をかけるわけにもいかない。
そうでなくとも俺は家族全員に迷惑をかけて生きてきたのだから。
俺の家に遊びに来た高耶さんが同居の話を楽しそうに始めた。
だからあと少なくとも1年はこのままでいいかと聞いたら、笑顔が凍りついてしまった。
たかが1年だ。高耶さんと過ごしてきた年月を考えるとそう遠くない未来だと思っていたのだが。
「直江はそれでいいのか?」
「え?ええ、はい。そんなに長い間ではありませんし、それに同じ東京ですから」
「……そうか」
「毎日は無理ですけど、時間が空いたらいつでも高耶さんのアパートに行きますよ」
「なんか、ムカつく」
「どうして?」
急にむっつりした高耶さんの気持ちがわからなかった。長く離れていたせいか、俺たちの間にはどことなく距離がある。
言いたいことも言えないような、そんな感覚が。
「もういい。この話はまた今度だな」
「高耶さん。何が気に入らないのか言ってくださいよ」
「いいって言ってる」
「それじゃ何も理解できませんよ」
「もういいんだ!」
「高耶さん!」
「うるさい!」
ここまで激怒されたのは久しぶりで、あの頃を思い出した。彼を超えてやろうと頑なに考えていた頃を。
まだ私はあの頃の気持ちに囚われたままなのだろうか。
「わかりました。いいでしょう。もう聞きませんよ」
「……直江……」
「もう帰ってください。このままあなたと居たらひどいことを言いそうだから」
「……帰るよ。なんなんだ、ったく」
足音も荒く、高耶さんはマンションを出て行ってしまった。本来ならここで一晩過ごし、明日は昼から近所の神社の祭りを見に行く予定だったのに。
帰らせたのは自分なのだが、彼を傷つけないためにもそうするのが一番だと思った。
金曜の夜をひとりで迎えるにはあまりにも寂しすぎる。だがまた数年前のように高耶さんを怯えさせ、泣かせるぐらいならこれでいい。
シャワーを浴びてほとんどカラッポの冷蔵庫からビールを出した。何かつまみがないかと探して、ふと気が付いた。
『体に悪いから酒を飲むなら何か食え』
転勤する私にそう言った彼の声を思い出した。一人暮らしができるような男ではないから、高耶さんはとても心配していた。
体を壊すのではないか、火事を起こすのではないか、大きな怪我をするのではないか、と。
自分自身で気付かないうちに、俺は高耶さんを生活の基準としていたのだ。どこにいても。
それと同時に、彼も俺を生活の基準にしていてくれたとしたらどうなのだろう?
お互いが同じように相手を生活の中に溶け込ませていたら。
気丈な彼がたまに見せる脆い部分。その部分を俺との同居に関して持っていたとしたら。
1年間離れ離れで、そしてさらに1年間もガマンをさせることになるのに気が付かずにあんな事を言ってしまった。
つまみを探す手を止めて、俺は高耶さんの携帯に電話を入れた。
『なんだよ』
いつもの彼の不機嫌な声。いつにも増して、とても不機嫌そうで。
「さきほどはすいませんでした。ひどかったと反省してます」
『ふん。今更謝ったって遅せえんだよ』
「明日、また話し合いましょう。ちゃんと謝りますから」
『……明日なんて無理だ』
「では、いつなら?」
『今から』
今から?
『明日はもう予定が入ってるんだ』
ケンカしてしまったから神社の祭りに行く約束はナシにして、もう誰かと別の約束をしてしまったのだろう。
自分のしたことながら腹が立つ。
「そう……ですか。わかりました。すぐに行きます」
『来なくていい』
「え?」
『まだ、おまえんちの近所にいるから』
高耶さんが家を出てもう2時間ほど経っている。なのにまだ近所にいるのか?もう終電もないだろうに。
「どこにいるんですか?迎えに行きますよ」
『コンビニ』
「どこの?」
『探せ』
そのまま電話は切れた。探して欲しいのだろう。俺がいつでもあなたをすぐに見つけることを望んでいるのだろう。
この近くにはコンビニがいくつかある。その中で高耶さんがいそうな所は、と考えて服を着て家を飛び出した。
きっとあのコンビニだ。飲食スペースがあって、以前ソフトクリームを買ってそこで食べていた記憶がある。
深夜に怪しまれずに居座れるあの店だろう。
数分間走ってたどり着いた店に、彼はいた。退屈そうにソフトクリームを食べている。
「お待たせしました」
息を切らして現れた俺に、高耶さんは一瞥をくれてまたソフトクリームに集中した。
「おせえ」
「すいません」
「なに、その格好。シャツのボタンが掛け違えてる」
「あ……」
急いで出てきたからボタンを掛け違えたようだ。彼の正面の椅子に座ってボタンを直した。
「焦ると掛け違えってよくあるよな」
「ええ。そうですね」
「たぶん、オレが焦ってたから、掛け違えたんだと思う」
「は?」
「直江にだって都合があるんだもんな。なのに、オレは焦って同居の話なんか出して。話が噛み合わなかったの、オレが焦ってボタンを掛け違えただけだから、おまえは気にしなくていい」
「そんなことは」
「謝ろうと思って駅から引き返してきたんだけど……あんなおまえを見るのは久しぶりで、怖くなって、電話も出来なかった」
やはりそうだったのか。俺はまた高耶さんを怯えさせてしまっていたのか。
あんなこと、二度と繰り返すまいと思っていたのに、自分の愚かさに吐き気がしてくる。
「すいませんでした……」
「いいよ。同居はいつでも出来るんだ。さっきオレが怒ったのは、直江に比べて自分が子供っぽくて嫌になっただけだし。社会人をちゃんとやってる直江に、自由がきく学生のオレが付いていけないのが悔しくて。追い越そうとしたって経験値が違うんだって思ってさ。大人になれてない自分が恥ずかしくなったんだ」
「……高耶さん……」
「同居は1年後でいい。それにちゃんとここまで来れたおまえを責めるなんて、出来ないだろ?場所言わなかったのにさ」
そう言って彼は自嘲的に笑った。こんな顔もさせたくないのに。
「帰りましょうか」
「うん」
「でも明日の約束はキャンセルしてくだいよ?私と出かける方が先約でしたからね」
「ああ、それな。明日の約束って、おまえと夏祭りのつもりで言ったんだけど?」
ニヤリと小悪魔のように笑んで、俺を測って困らせる。
そして言外に、俺とでなければ出かけないと伝えてくる。どこまでも魅力的な人だ。
「意地が悪いですね。そんなに嫉妬させて楽しいんですか?」
「楽しいよ。だっておまえが困るのって、オレとのこと以外ないじゃん」
「本当に意地悪ですよ」
「わかってて好きになったくせに」
「まあ、そうですけど」
可愛らしい意地悪を受けて、彼の想いを知るはめになる。天邪鬼な彼の素直な想いが俺にはかけがえの無いものだ。
「行くぞ。ほら、立てよ」
「はい」
誰もいない夜道を並んで歩く。甘いバニラの香りが、彼の唇からした。
翌日の夏祭りは盛況だった。地元の神社の神輿が、威勢のいい掛け声と共に神酒所近くから出発するのを並んで見ていた。
それからしばらくその神輿を見ながら付いて歩き、高耶さんは担いでもいないのに休憩所でビールを貰っていた。
少し酔ったのか、彼の足が重くなりはじめ、一旦マンションに戻って夜店が出るころに再度出かけることにした。
俺ので良ければ浴衣を出しますよ、と言うと、喜んで着てくれた。実はこの浴衣はこの夏祭りの約束のために実家から送ってもらったものだ。俺がまだ高耶さんぐらいの身長のころのものだから、高校生ぐらいか。
濃紺に染め上げた麻の葉柄の浴衣を、木綿の角帯で着付けてやると、凛々しい高耶さんの出来上がりになった。
そして紺の鼻緒の下駄を出した。
「直江は?」
「私もありますよ。母が最近作ったそうで、勝手に送りつけてきました」
いい年をしていい浴衣も持っていないのか、と白絣の浴衣を送られた。薄物なので肌襦袢と裾除けと一緒に。
黒の帯を合わせて白い浴衣を着た俺を、高耶さんは口をあんぐりあけて見ていた。
「なんですか?」
「おまえが白い浴衣着るなんてな。黒かと思ってた」
「もう白だっていいんですよ。そうでしょう?」
「まあな」
俺の雪駄も送られてきていた。こちらは鼻緒が蛇柄だ。白い浴衣にはニシキヘビの柄が似合うだろう、と。
いまだに高級品をポンと息子に送りつけてくるのだから、相当甘やかされているな。
扇子もあったな、と、高耶さんの帯に差してやると「落語家みたいだ」と言いながらも嬉しそうにしている。
「そろそろ出ますか?」
「うん。屋台でたくさん食べるのが楽しみでさ〜」
「そっちですか……」
だが高耶さんらしい発言だ。
マンションを出てゆっくり歩きながら神社に向かう。夕焼けを背にしながら高耶さんは歩きにくそうに下駄を鳴らしている。
色とりどりの浴衣を着た女性が同じ方向に歩いていくのを見ながら、誰が、どんなに着飾っても高耶さんの崇高さにはかなわないと感じてしまうのは、俺がこの人にとことん惚れているからなのか、それとも本当に内側の美しさが滲み出ているせいなのか。
「直江!あれ食いたい!」
「まずはお参りですよ」
「あ、そっか」
社で賽銭を投げ、柏手を打って目を閉じる。このまま彼と何事もなく、無事にいられますように。
目を開けて隣りの高耶さんを見るとまだ手を合わせている。一体何をそんなに祈ることがあるのやら。
「ん、よし!」
「そんなに長く、何をお祈りしたんですか?」
「えーと、家族のみんなが安泰でありますよーに、と、無事に大学卒業できますよーに、と、あと……」
「あと?」
「直江がオレの言うことなんでも聞きますように、って」
「なんですか、それ」
「嘘だよ。直江みたく、早く大人になれますように、って思ってたんだ」
かなわないな。
イタズラをした子供のようにウキウキした目で見られた日には。こちらが翻弄されるのを知っていてやっているのだろうに。
「さー、食うぞ!」
「やっぱりそっちなんですね」
よくもまあ、そんなに胃袋に入るものだ。帯がきつくないのだろうか?たこ焼き、焼きそば、水あめ、じゃがバター。
「あ、リンゴ飴」
「食べますか?」
「うん、小さいリンゴのやつにする」
真っ赤な姫リンゴのリンゴ飴を買ってやり、渡すとすぐに食べ始めた。
「帯、大丈夫ですか?苦しくありません?」
「んー、そろそろ苦しいかな。でも平気」
串に刺した赤いリンゴ飴。それを舐める高耶さんの唇にドキリとした。
「高耶さん」
「ん?」
「どうも子供っぽいのは私も同じようです。今すぐ欲しいものがありますよ。どうしようもなく」
「何?買って食えば?」
「買えはしませんが……すぐに食べましょうかね」
彼の耳元で囁いた。
「あなたが食べたい」
頬を染めた彼は、一口でリンゴ飴を食べ切ってしまうとそれを飲み込み、
「しかたねーな」
そう言って俺の白絣の浴衣の袖を引いた。
「明日も縁日に食べに来るからな。でもリンゴ飴だけは絶対食べない!」
「スモモの水あめなんかどうですか?」
「それも食わない!」
お互いに子供のようにはしゃぎながら、家路についた。まだ日が落ちてそう経っていないのに。
ボタンは掛け違えがありますけど、浴衣にはありませんね。
それはゆっくり時間をかけて着るものだから。だから私たちも時間をかけましょう。
今までが速く経過しすぎていたのだから。
END
あとがき
トワコさんからのキリリクでした。
お祭りに行け!というリクで
「朝日のあたる道」の続きです。