先週、突然の休日出勤で日曜日に会社へ行った。
その代休を取れと上司に命令されて、明日は突然の休日になった。
休日出勤したのが10名。その全員を平日にばらけさせて休ませなくてはいけないから、仕事の優先順位を考慮して明日に代休を取れとのことだ。
「んじゃ明日は家にいるんだ?」
「そういうことになります」
「ふーん……そうかぁ……じゃあさ、明日のスーパーの特売、直江が行ってくんねえ?」
近所のスーパーで特売があるそうだ。
高耶さんは明日学校だ。講義が昼までで、その後はバイトに入っていて8時まで帰らない。
せっかくの特売日なのにバイトが入っているなんて、と今朝の新聞のチラシをみて言っていた。
「いいですよ」
「じゃあリストを書いておくから。5時までに行かないと売り切れるかもしれないから急げよ?」
「はい」
せっかく代休をもらったのに明日は高耶さんがいない。社会人ともなるとこういうことを仕方がないと思わなくてはいけないのか、と長年勝手にやってきた自分を少しだけ諌める。
「洗濯もやってよ。あと掃除……は風呂掃除だけでいいから」
「わかりました」
「さぼったらデコピンな」
私がきっとどれかを忘れるのだと決め付けている。こうなったらしっかりと主夫業をしようじゃないか。
翌日、朝食を食べ終わってすぐに高耶さんは学校へ行った。
冷蔵庫にメモが貼り付けてあるから、それを持って特売に行けと命じられている。
スーパーへは洗濯が終わったらいけばいい。
今日は秋晴れのいい天気だから、乾燥機ではなくベランダに干せと言いつけられていたので洗濯カゴを持ってベランダへ行く。
片方が学生、もう片方は社会人ということで、洗濯物は自然とたまる。今日は昨日までの長雨も手伝っていつもの倍近く洗濯物があった。
乾燥機は電気代がもったいないし、殺菌作用も太陽光には敵わないと高耶さんが言うので逼迫しない限りは乾燥機は使わない。
そんなところが高耶さんらしいと思う。
洗濯カゴからシャツを出した。教わった通りに広げてはたいて、ハンガーにかけてから物干し竿に。
Tシャツやタオルは洗濯バサミがたくさんついた四角いやつに。これの名称は知らないな。
そうやって丁寧にやっていたら面倒になってきた。量が多すぎる。
「手抜き……したらバレるな、絶対」
手抜きしようものなら後で叱られる。シワが寄っていただの、おかしなところに洗濯バサミの跡がついた、だの。
これをしょっちゅうやっている高耶さんは外見に似合わずマメなのかもしれない。
どうにかこうにか全部を干して、ふと景色を見た。
マンションの高層階を選んだ理由はこの景色だ。冬の晴れた日には東側に富士山が見える、そう不動産屋に言われて高耶さんが決めた。
今日は空気が澄んでいるのか小さく富士山が見える。洗濯をするたびに高耶さんが見る景色。
あんなに遠くにある山なのに、東京からでも見えるのが不思議だ。
江戸からも見えていたっけと大昔のことを思い出す。あの頃は坂の上にでも行けば見えたのに、今は高いビルのせいで坂の上からはほとんど見えない。
これが時代と言うものか。
感傷的になるのは秋のせいなのだろうか。あまり浸っていると辛かった頃を思い出してしまうから思考を止めて部屋に入った。
布団も干したいところだが、今日のベランダは洗濯物に占領されているから無理だ。
洗濯が終わってからは風呂掃除。腰が痛くなるほど中腰で掃除をした。
これは案外重労働だ。
終わってコーヒーを淹れて少し休息を取ることにした。慣れない洗濯や掃除は案外疲れる。
いつもは見られないテレビ番組をザッピングしながら見て、それにも飽きて文庫本を出した。
静かなリビングでソファに座ったり、床に寝転がったりしながら20ページほど読み進む。
冷房も暖房もいらない季節は過ごしやすくて眠くなる。しかも窓からは燦々と太陽光が振り注ぐ。
眠るのももったいないが、眠らないのももったいない。
ほんの少しだけ眠ろうと決めて、床に寝転がったままソファの上にあった膝掛けを手を伸ばして取り、それを毛布代わりにして目を閉じた。
覚醒したのは玄関のインターフォンが鳴った時。
一瞬、なぜ自分がリビングで眠っているのか不思議に思ったが、そうか今日は代休だったと思い出して立ち上がり、室内モニターをオンにした。
「はい」
『わたくしデジタル地上波の会社の者です。こちらのマンション全体で地上波にするために……』
もう我が家はデジタル地上波になっている。マンション全体でそんな変更をするなどとも聞いていない。
そういえば先日、夜中のニュース番組でそんな詐欺商法の事件を見たっけ。高耶さんと二人で気をつけようと話し合ったじゃないか。
「うちはすでに地上波なので必要ありません」
冷たくモニターを切った。そうか、平日の昼間にはこんな人間がやってくるのか。
高耶さんも学校がない平日にはこんな対応をしているのかもしれない。あの人のことだから、口がうまいセールスに引っかかってしまうのではないか。
帰って来たら報告がてら釘を刺そう。
時計を見ると午後2時過ぎ。思ったよりも眠ってしまったらしい。
秋の昼間にたった一人で静かなリビングで眠るいい年をした男。そんな自分の姿を客観的に想像してみたらなんだか物悲しくなった。
もしもこれでテレビやラジオがついていたら……もっと寂しくなるか。
それよりも特売に行かないといけない。5時までとは言っていたが、早めに行けばそれなりに残っているいいものが買えるかもしれない。
高耶さんに持っていけと言われているエコバッグに財布を入れてマンションを出た。
徒歩で行けば15分ぐらいだ。たまには自転車に乗って行くのも悪くない。
自転車置き場に我が家の自転車が置いてある。
高耶さんはしょっちゅう乗っているが、私は時々しか乗らない。
暗証番号形式の鍵を開錠しようとして気が付いた。番号を覚えていない。
確か買った際に番号が印刷された紙があった。それを高耶さんがリビングの電話のところに張っていたような気がする。
メモした電話番号や用件の紙と一緒に4桁の数字が貼ってあったはずだ。
「……2489……だったか?」
試しに番号を押してみたら開いた。自分の記憶中枢も捨てたもんじゃないな。
それに乗ってスーパーへ。ちょっとした坂道を下ってスーパーの自転車置き場に置いてから、特売目掛けて足を運ぶ。
まずはサンマ。鮮魚売り場の大きな冷蔵棚にサンマが並び、そこに主婦が群がっている。
奥さんたちの隙間に入って、どのサンマが美味しそうかを見て手を伸ばす。
ところが「これだ」と思ったものに主婦の手が伸びて、次々と奪われていく。主婦のパワーと眼力には敵わない。
気合を入れてどうにか美味しそうなサンマに手を伸ばし掴んで、それをカゴに入れた。
次は大根。サンマの塩焼きのために使うものだ。
こちらも特売になっている。サンマよりも人気があって手を伸ばすことも出来ない。
なぜこんなに混雑しているのだろうと不思議に思っていたら、店員が出てきてメガホンで叫んだ。タイムセールというものらしい。
ちょうど3時から大根のタイムセールだったようだ。
申し訳ないと思いながらも主婦を掻き分け、大根ならなんでもいいとばかりに手を伸ばして掴んだ。
これで高耶さんに高いものを買わなくて済んだと自慢できる。
さらに酢橘としめじと納豆とこんにゃくをカゴに入れて、またもや特売の牛乳と野菜ジュースを。
これでリストに載っているものは全部だ。
せっかくだから秋味の栗でも、と思ったが、食品の相場などわからない私が高い物を買ってしまったとなったら大目玉を食らう。
とりあえずリストに載っていたものだけでいいかとレジに並んだ。
自転車のカゴにエコバッグを入れて坂道を息を切らしながら漕いで帰った。
部屋で荷物をあけて冷蔵庫に移し、思ったよりも疲れた体を少しだけ休ませる。途中で買ってきた缶コーヒーを開けてリビングでテレビを見ながら。
平日昼間のテレビ番組はやはり主婦向けのものだったが、ミステリードラマに惹き付けられてしまい、途中からだったにも関わらず最後まで見てしまった。
ドラマが終わると外が暗くなって来たのに気が付いて、ベランダを見たら洗濯物を干しっぱなしにしているのが見えた。
これは失敗した。
早めに取り込まないとシケるから、と言われていたのに。
急いでベランダに出て触ってみたらすでにほんの少し湿り気があった。これを畳んだらとんでもないことになりそうだ。
反省しながら取り込んだものを再度室内で干した。
もし怒られたら責任を持って乾燥機で乾かそう。
外を見ればきれいな茜空。
秋特有の空の色。
これは私でなくとも物悲しくなるのではないだろうか。もうすぐ明るい昼間が終わって夜になる。
何かが終わるということを連想させる茜空。
例えばそれは死であったり。
私も高耶さんも人間で、魂はまだ続くのだろうがいつかは果てる。
真っ赤に燃える夕焼けが、命の炎を思わせる。
「ただいま。なに黄昏てんだ?」
「高耶さん……」
夜8時までのバイトが入っているはずの彼がそこにいた。
「どうしたんですか?」
「バイト、急に休みになった。漏電してるとかで工事の人が来て、今日はもう深夜まで直らないからってさ」
「そうだったんですか」
「で、この洗濯物はなんだ?」
「つい……取り込むのを忘れていて……」
彼は呆れて洗濯物を見て、乾いたらおまえが畳めと命令した。
それからもうひとつ、特売はちゃんと行けたのか、と。
「それなら安心してください。バッチリ買ってきましたから」
「全部買えたのか?」
「はい。主婦を掻き分けて大根もサンマも。タイムセールで安く買えましたよ」
「すげえな、おい。あの主婦を掻き分けて?オレでも出来ないのに」
どうやらやり過ぎたらしい。高耶さんでも躊躇するタイムセールだったとは。
「直江がタイムセールで頑張ってるとこ見たかったな〜」
「惚れ直すかも知れませんよ?」
「バーカ」
そうだ。今はこの人と過ごす時間を大切にしなければ。
黄昏れて物悲しくなっている場合ではない。
有限の時間なのだから、大切に、噛み締めるように、抱きしめて過ごさなければいけない。
だから今日の茜空を分かち合いたい。
「高耶さん、一緒に夕焼けを見ませんか?」
「夕焼け?」
「今日のは特にきれいですよ」
「そう?」
手を引いてベランダに出て、西側の雲を見た。ここからは太陽は見えないが、太陽が染める空なら見られる。
そして東側は夕闇に消えそうな富士が。すでに影のようになっている富士は小さく見えても立派に聳えている。
「へえ、きれいなもんだな」
いつかあなたとあの夕焼け空を飛んでみたい。
魂が消えるその時に。
「一番星ってアレかな?」
「ええ、そうでしょうね」
富士山の方に一際強く輝く星をみつけて高耶さんが嬉しそうに笑った。
「星が生まれたみたいだな」
「…………はい」
夕焼けを終焉と例える私を覆す。
私にはこの人が必要なのだと改めて思う。
「どうかしたか?」
「いえ……ああ、ええ、どうかしましたよ」
「なに?」
「内緒です」
ずるいとか、ムカつくだとか、そんな言葉を投げかける彼に笑いかけて、もう一度空を見た。
星が生まれる茜色の空は、刷毛でぼかした水彩画のように徐々に夜の様相を見せる。
生き返るために眠る宇宙のようだと、私は思った。
END |