昭和48年、浅草。
学生時代の友人に誘われ、私は浅草の木馬亭に寄席を見に来ていた。目的の出し物は僧侶の格好でぼやく『戦国ぼやき漫談』の上杉けんしん氏の漫談だ。
ハナ(寄席で一番最初にやる演目のこと)は上杉景虎という弱冠15歳の少年の漫談だった。 友人に聞いたところによると、この少年はけんしん氏の一番弟子で、漫談の天才という呼び名も高い人物だった。
『高慢ネタ』という彼の考案した誰よりも偉そうな態度の漫談は、このところテレビにも出演し話題をさらっている。
そのためか今日もハナから客席は満員御礼の状態になっている。
初めて景虎の漫談を見た私は衝撃を受けた。この世にこんなに面白い漫談があったか、と。11歳も年下の少年の漫談がここまで胸を打つものであったか、と。
それは師匠である上杉けんしん氏をも凌駕する勢いだった。
その後、三遊亭エロハチ師匠の『お色気落語』、砂糖蜜子・飴子姉妹の『お笑い手品』永井遠師匠の『アコーディオン漫談』と続き、トリの上杉けんしん氏の漫談を見た私はさらにこの『上杉一門』に魅かれ、自分の力量を試したくなった。
かくいう私は大学入学後すぐに「橘くんて面白いのね。私、ユーモアのある人好きよ」という校内のマドンナと呼ばれる美しい女性の言葉を鵜呑みにして落語研究会に入ってしまい、大学の4年間をお笑い一筋に生きてきた男、橘義明だ。
大学祭では講堂を女性で埋めつくすほど落語で人気を博し、大学対抗漫談選抜会での優勝をさらい、やはり親を安心させるためにとサラリーマンになると決める前は本気で漫談師を目指した時期もあった。
その私が力量を試したくなるのも仕方がないだろう。
寄席が終わってから私は上杉けんしん氏の楽屋を訪問し、土下座をして入門をお願いした。もうサラリーマンは辞めるつもりで。
それほど私には上杉けんしん、景虎の漫談が衝撃的だったのだ。
上杉けんしん氏はスーツ姿の私を見て「おまえさんじゃ無理じゃねえか?」と一度は断ったのだが、傍らにいた景虎氏が「いいんじゃないですか?」と言ってくれたおかげで入門を許された。
景虎氏はけんしん氏にとって目の中に入れても痛くないほどの愛弟子らしい。
けんしん氏は乗り気ではない様子だったが景虎氏のおかげで私を入門させてくれた。
会社を辞めてけんしん師匠の家に住み込みで修行を始めた私は、一番弟子である景虎兄さんから漫談についての指導を受けた。
舞台での面白おかしい景虎兄さんの姿とは違ってとても厳しい兄弟子だったが、容姿端麗、指導も的確、笑いのツボをしっかりと抑える、微塵の隙もない素晴らしい人だった。
いつのまにか魅かれ、愛するようになっていたほどに。
しかし忙しいけんしん氏には週に2回ほど稽古をつけてもらえる程度で、景虎兄さんもテレビや高座出演がある日は稽古をつけてはくれない。
そこで二番弟子、三番弟子の晴家姉さんと、長秀兄さんからも稽古をつけてもらった。
この二人は漫談ではなく、コンビで漫才をしている。『双方向どつき漫才』を特徴としていて、どちらもハリセンを持っている。
景虎兄さんとは違って指導は適当、三度の飯より酒が好きというやつらで、私が敬語を使わなくてもまったく平気な二人だった。
景虎兄さんと私は相性は良くなかったが、兄さんの漫談はやはり天才的で、しかもそれは芸術の域まで達している。
私は兄さんを目標とし、尊敬しながら、敬愛しながら、愛し、そして憎んでもいた。
落語と漫談で自信を持っていたのに兄さんの足元にも及ばないのがわかり、プライドが崩れ去ったからだ。
そんなある日、けんしん師匠がテレビ収録が終わったとたんに倒れ、入院先で急逝した。
危篤状態のけんしん氏が私たちの前で最後に言い残したことは、上杉一門を景虎兄さんに預けることと、一足先に病室に到着していた景虎兄さんにだけ打ち明けたらしき「あのこと」だった。
「あのこと」は結局、2年後までわからないままだったが。
師匠の死にショックを受けて景虎兄さんは高座に上がらなくなってしまった。どうにか晴家姉さんと長秀兄さんのやっているコンビ『はぐれ夜叉』が漫才で大ヒットを飛ばし、一門を支えていてくれた。
私はストリップ劇場やキャバレーなどを回っていくらかのギャラをもらえるようになってはいた。
そして2年後、17歳になった景虎兄さんは2年の喪から明け、一門を兄さんの居室に集めてこう言った。
「そろそろオレも高座に上がる。しかしオレの『高慢ネタ』はもう古い。それが原因ではないんだが、師匠の遺言もあってオレは漫才に転身しようと思うんだ」
「漫才ですか?」
「ああ。師匠がいまわの際に言った『あのこと』だが……」
そう言って少し黙ってから、兄さんは畳に寝転んで危篤状態のけんしん師匠の真似をしながら言った。
さすが景虎兄さん、とても面白可笑しく真似をした。
「よう、景虎ぁ……おめえ、漫談向いてねえなぁ……」
「師匠?!」
景虎兄さんの役も、自分で演じながら。
「おめえはよぅ、漫才やれぇ……漫才はいいぞぉ……一人じゃ出せねえスピード感がある……おめえは漫談よりも漫才で光る男だぁ……」
「ま、漫才って……」
「そうだなぁ……おめえのお笑いセンスは天才だからなぁ……ツッコミよりもボケだなぁ……ボケやれ、ボケぇ……」
「ボケやれって、でも、オレ、相方なんか……」
「アレだなぁ……相方ァ、橘がいいなぁ……あいつはいいぞぉ……自虐ネタなら天才だぁ……」
「師匠!しっかりしてください!師匠〜!!」
と、起き上がった景虎兄さんは真面目な顔をして私を指差した。
「わ……私、ですか?」
「は?!橘が?!」
「どうして?!」
一同驚きの様子を隠せなかった。兄さんがボケをやることに関してもそうだが、相方が私だなんて。
「橘のツッコミとしてのポジションはオレが指導して発見しろと言われている。そんなわけで、この一門を守るためにもオレと橘も漫才をやる。いいな?」
「ま〜、オレはいいけどさ」
「あたしも『双方向どつき漫才』じゃないんだったら景虎兄さんの漫才には賛成よ。だって絶対に景虎兄さんは漫談向きじゃないもの」
確かに『高慢ネタ』は面白かった。しかしそれはブームというものもあって、いつまでもずっと続けられるものでもない。
漫才になるのだったら『高慢ネタ』を進化させ、しかもいくらでも変化できるネタが作れるに違いない。
「橘はいいのか?」
「はい。兄さんとコンビが組めるなんて光栄です」
そんなわけで私は愛する……いや、敬愛する景虎兄さんと漫才コンビ『ジョイフル』を結成した。
「こんにちは〜!ジョイ直江です!」
「フル高耶です!ふたり合わせてジョイッフルッ!」
結成して1年、私と景虎兄さんはストリップ小屋で漫才をやっていた。
この売れないコンビ『ジョイフル』は一世を風靡した景虎兄さんの面影もなく売れなかった。
それは兄さんと私の息がまったく合わなかったからだと思われる。女の裸を楽しみにして来ている男たちの緊張を解きほぐすための漫才であるはずが、いつの間にか仲の悪さを露呈するちぐはぐな漫才になっているからだ。
今日もウケなかった私たちは楽屋に引っ込み、険悪な態度でお互いを無視していた。
コンビを組んでから景虎兄さんは本名の『仰木高耶』を使って『フル高耶』、私はそれに語呂が会うようにと『橘』から『直江信綱』という芸名に変更し、『ジョイ直江』になった。
舞台で「兄さん」と呼ばないために、兄さんは「オレを高耶さんと呼べ」と言ってきた。
楽屋で金色スパンコールの大きな蝶ネクタイを畳に叩きつけて景虎兄さん、もとい高耶さんが私を罵った。
「てめえのブリッジにはやる気を感じねえんだよ!」
ブリッジとはネタとネタの間に入れる合いの手のようなものだ。
(作者註:アン○ールズでいう「ジャンガジャンガ」、一昔前のふかわ○ょうのピアニカ)
「ちゃんとやってるじゃないですか。ジョにイントネーションを置いて、肘を曲げて拳を肩につけ、脇を2回開けてジョイフルジョイフル!こうでしょう?」
挿絵イラスト『VOLL MOND』八月昴様
「だからそれがやる気ねえんだって言ってんだ。もっと楽しそうにやるんだよ!」
「楽しそうに?あなたに押さえつけられたツッコミでどうやって楽しそうにブリッジが出来るんですか。あの場合はつまらなさを出した方が絶対に面白いですよ」
「ハンッ!おまえみたいな才能のかけらもないやつがそんな偉そうにブリッジを語れるのか?ちゃんちゃら可笑しいぜ」 赤いスパンコールのジャケットを脱ぎ、私に向かって投げつけた。
高耶さんとは逆で私の蝶ネクタイは赤スパンコール、ジャケットは金スパンコールだ。赤と金の光が私の顔に反射した。
「何もできないやつは、黙ってオレに従ってればいいんだ」
そう言いながら高耶さんは舞台衣装の白シャツに白スラックス、白エナメル靴のまま外へ行ってしまった。
その後姿を私は憎しみを込めて見送った。なんて高慢で鼻持ちのならない!
「あ〜あ、また景虎とやりあったのか」
「長秀……」
「様子はどうかと見に来たら、相変わらずなんだな、おまえら」
「景虎兄さんはワンマンすぎる。あんなじゃ私だって的確なツッコミもできん」
「だけど景虎は本物だぜ。ありゃお笑いの申し子だ」
それは認める。あの人のネタはいつも斬新で、周りを引き込む魅力を持っている。その兄さんの相方として私は必死に努力をしている。毎朝5時に起きて隅田川に向かって発声練習、河川脇に生えている木を兄さんの代わりに「よしなさい」「コラコラ」「ちがうでしょ」と右手でツッコミを入れる訓練、面白いネタが落ちてはいないかと街を歩き回ってネタ探し、街の面白い人を見れば心の中でどう切り返すかやセリフを考える。
これ以上の努力は出来ないほどに。
「おまえが努力してんのは誰だって知ってるさ。景虎だってな。だけどおまえ、あいつ以上に努力してるか?」
「兄さん以上?兄さんは天才じゃないか……どう努力するんだ?」
「あいつはな〜、オレが入門してきた時はまだ13歳の小童だったんだ。だけど凄かったぜ。師匠の家から学校に通いながら、朝は陽が上る前に起きて、夜はみんなが寝静まった後までずっとひとりで稽古してんだもん。もちろん学校の成績は最悪だったけど、それもこれも通学途中だろうが授業中だろうが頭の中がお笑いでいっぱいだったからだ。学校の掃除当番の時に考え出した雑巾ネタなんか、言葉通り血の滲む思いをしながら作ったんだぜ」
「雑巾ネタ……?」
そうして長秀は景虎兄さんの真似をしながらその『高慢雑巾ネタ』をやってくれた。
ここでその面白さを言葉で表現するのは難しい。売れっ子の長秀がやっても面白かったのに、これを持ちネタとして使っていた景虎兄さんが、景虎兄さんの持ち味を生かして、あの高慢な口調でやったらどれほど可笑しいのか予想がつかないほどだ。
しかもそのネタは兄さんが牛乳で臭くなった雑巾を口に入れてどのぐらい臭いかを試し、吐いてまで作り出したネタだと言うのだ。
最後には胃を悪くして血を吐いたらしい。
「それほどとは……」
「だからな、あいつは天才なんて呼ばれてるけど、それ以上に努力も人の何百倍もしてるんだよ」
「そうか……」
「俺らがあいつに追いつくには、あいつ以上の努力をするしかねーんだ」
そう言い残して長秀は次の番組収録のために急いで帰ってしまった。
だが、それを聞いたとしても私はあの人が天才であることには変わりはないんだと思った。確かに血の滲む努力をしているのだろう。しかし景虎兄さんが人を笑わせる天才なのは微塵も疑いがない。
私があの人に追いつけるわけがない。
だが……追いつきたい。追い越したい。あの高慢な女王然とした兄さんの鼻をあかしてやりたい。
私に屈服させたい……!!どうしても!
完敗など認めたくない!!
舞台衣装のままラーメン屋にでも行ったのか、兄さんは爪楊枝を歯に差し込みながら戻ってきた。
白いシャツにはラーメンのツユの飛び散りもない。この人がお笑いを愛し、大事にしている証拠だ。それすらも憎らしい。
「次の舞台ではオレが言ったようにやれ。やれなかったら解散だ。そしておまえを破門する」
「高耶さん……」
「いくら師匠の遺言だって、いつまでも才能のないやつと組んでるのはオレにとっても上杉一門にとってもマイナスだ」
「くっ……」
私はもうガマンができなかった。この年端も行かない兄弟子に罵られ、破門を匂わせられて、大学対抗漫談選抜会で優勝した私のプライドはズタズタに引き裂かれた。
二人きりになった楽屋で私は高耶さんの腕を掴み、体を壁に押し付けた。
「なっ、直江!」
「もう耐えられない。あなたとなんかコンビは組めない。どうやったら私が楽しそうにジョイフルジョイフルのブリッジができるか、わかりますか?あなたが私に屈服しない限りは無理だ」
「なにを突然……」
「あなたが憎いんですよ。毎日毎日あなたの天才振りを舞台で見せつけられて、私のツッコミはキレが悪くなる。何度もあなたは天才で、私は凡人だと認めようとした。しかしそう思えば思うほど、私の自尊心はあなたを屈辱にまみれさせなければ気が済まないと叫び出す。今からあなたを辱めてあげます。解散?破門?ありがたく解散でも破門でも受け入れますよ」
「や、やめろ!オレは……!」
「オレは、なんです?」
顔を近づけて唇を奪おうとした。
いつもの高慢な景虎兄さんの目元に涙が浮かんだ。
「そんな直江は……直江じゃない……」
「え?」
「オレが好きな直江じゃない……」
好き、だって?
「なにを言い出すやら。あなたは私を憎んでいるでしょう?お笑い芸人のコンビなんか憎み合ってる者はたくさんいる。いいんですよ、憎んでもらったって」
「違う!憎んでなんかいない!オレは……最初からおまえが好きだったんだ……だから師匠に入門をさせろって……」
そういえば……。あのとき、景虎兄さんが口ぞえをしてくれなければ入門できなかった。
「だけどおまえは……自虐ネタの……自虐ネタの天才で、オレが2年もかかってやっと上がれたストリップ小屋の舞台にも1年で上がって、それが悔しくてたまらなくて……でも兄弟子だからおまえにちゃんと稽古をつけなきゃいけないし、それに……」
「それに?」
「いくら遺言だからって、おまえを好きじゃなきゃ漫才コンビなんか組めない……!」
「景虎兄さん……」
「高耶って、呼んでくれ……」
「高耶さん……」
「おまえは……オレが憎いか……?」
憎いですとも。しかし憎さを越えて愛している。最初の高座を見てからずっと、愛している。
あなたの才能も、あなたの努力も、あなたのその高慢な態度も、本当はすべて愛している。
そしてあなたが考え出したブリッジも、アホらしさはどこのコンビよりも上で、根っからのお笑い芸人の私はそのアホらしさをこの上なく愛している。
「……愛しています……高耶さん……」
「直江……」
床に投げ捨てられたスパンコールのジャケットの光を浴びながら、私と高耶さんは愛を確かめ合った。
「こんにちは〜!ジョイ直江です!」
「フル高耶です!二人合わせてジョイッフルッ!よろしくお願いしまーす!」
「いや〜、フルくん、今日も寒いねえ」
「誰がフルくんだ!フルさん、いや、フル様とでも呼んでもらおうか」
「フル様って、あなた、私たち漫才コンビですよ?そんな呼び方してたら漫才もできませんよ」
「しょうがないだろう、オレは天才、おまえは凡才。おまえは毎日毎日庭先でこうやってパッチンパッチンと鋏を入れてるんだろう?」
「それは盆栽!」
「じゃあこうだ。両手を上げて〜」
「それはバンザイ!」
「んじゃこうだな。ジョイくん、よしなさい!」
「それは漫才!って、もうよしなさい!私のツッコミを取ってどうするんですか。あなたボケでしょう!」
「ヨッ」
「「ジョイフルジョイフル!!」」
その日、私は生まれて初めてブリッジというものの本質を理解したような気がした。
それは私とあなたの架け橋。漫才コンビの粋だ。
「フルくん!もうあなたとはやってられません!」
「ありがとうございました〜!」
お囃子に乗せて私と高耶さんは退場した。
「……良かったぞ、直江、今日のジョイフルジョイフルは……。もうおまえに教えることはないな」
「高耶さん……!!」
「これからはオレの自慢の相方だ。そして自慢の……」
「高耶さ〜〜〜ん!愛してます〜〜!!」
その後、私と高耶さんの漫才コンビ、ジョイフルは一世を風靡した。
主なネタは「フルくん、愛してます〜〜〜!!」のホモ漫才だ。最後にボケの高耶さんとツッコミの私が逆転してボケ役の高耶さんが逃げ回りながらツッコむ、という新しいスタイルの漫才は日本中から支持され、上杉一門は安泰、私と高耶さんも安泰どころか幸せすぎて怖いぐらいになった。
END |