同じ世界で一緒に歩こう

完結一周年企画
あなたが幸せであるように

桜を見上げて



 
   

今からお花見をしたい、と高耶さんが言い出した。
高耶さんがそう言い出したのは、私が仕事から帰って数時間後。
昨日まで私が何度も誘ってみたのに、一緒に花見なんて出来ないと一蹴されていた。いったいどういう心境の変化だろうか。
男同士で花見なんて、いかにも疑ってください、って言ってるようなもんだろうが!
と、そこまで言っていたのに。



その日は帰ったら高耶さんが来ていて、食事の支度もしてくれていた。まだ新学期が始まらないから泊まる、と言って。
しかし彼はなんとなく沈んだ感じで、一人でアパートにいたくないのだろうというのがわかった。

新学期になる不安なのか、アルバイトがなかなかみつからない金銭的な不安なのか、とにかく私の目にはいつもの高耶さんには見えないほど沈んでいた。

夕飯を頂いて、風呂に入り、特に何かを話すわけでもなく二人一緒にのんびりと過ごし、そろそろ寝るかという時間になってから高耶さんは思い立ったというか、やっと言えたというか、そんな感じで花見に誘ってきた。

「今からですか?…そろそろ日付が変わりますけど…」
「明日って仕事?」
「ええ、午後からですからかまいませんが…どうしたんですか?」
「んー、まあ、なんとなく」

それで高耶さんの気分が癒されるならと、パジャマに着替えていたのを再度着替え、風が少し吹いているから上着も忘れずに羽織った。

「このへんでいいとこってある?賑やかなとこはイヤだな」
「でしたら…播磨坂に行きましょうか」
「播磨坂って?」
「小石川です。ここから車で10分とかからないはずですよ」
「…歩こう」
「歩くと30分以上かかると思いますが…いいんですか?」
「いい。歩きたいから」

暖かい夜の中を並んでゆっくり歩き、交通量が多い通りから、少なめの通りへと変わる。
たまに誰かの家の庭や公園に桜が咲いているのを見上げる様子がいくつかあった。その間、高耶さんはあまり喋らず、星と月が光る明るい夜空を見上げ、桜を見つめ、たまに沈みがちな目を私に向ける。

ノロノロ歩いていたら50分近くかかったようで、播磨坂に着いたのは深夜1時を過ぎていた。
播磨坂は震災後だか戦後だかに、環状道路を作る予定で開発された道だ。そのため道幅がだいぶ広く、道路の両側には桜が植えられている。
車線の分離帯は遊歩道になっている。
高級マンションが立ち並び、最近では洒落たレストランが軒を並べている。
たった数百メートルだけ作って、計画が中断された環状道路は桜の時期には宴会で賑わう。しかし深夜ともなれば近隣から
騒音で迷惑するという苦情が出ているそうで静かなものだった。

「ここ?本当だ、桜並木になってるんだな」

桜はすでに散り始めている。満開は昨日だったが、春一番が吹いてだいぶ散っていた。それでもこの桜並木は少しもその景観を崩すことなく咲き誇っているように見えた。

坂の下、遊歩道に入ろうとした私を制して片側の歩道を歩こうと高耶さんが言った。その方が桜を近くで見られるからと。

「では坂を上って、また帰りには反対側を下りましょう」
「うん」

この辺の治安は悪くはない。しかしやはり深夜1時になれば人通りはない。車も少ない。上りの間に見かけたのはレストランを閉めて帰る若者が一人という閑散とした道だった。
街灯の白い光が桜を浮き上がらせて、それは見事なもので、まるで二人で独占しているような雰囲気だ。

高耶さんはまだ沈んだ様子で私の半歩前を歩いている。どうしたのかと聞くのはたやすいが、彼が言い出してくれるのを待った方が良さそうだった。複雑な心境を持っている場合の彼は心の整理がつくまで待ってやる余裕が必要だ。

坂の上まで上り、少し休もうかと高耶さんが言った。近くに自販機があったのでそこでコーヒーを買って、遊歩道のベンチに
座った。

「なんか、東京の桜って白いよな。ピンクじゃないのな」
「そうですね。薄墨とも違う。白くて、儚い感じがしますね」
「儚い、か」

小さな缶のコーヒーはもうなくなっていた。最後の一口を飲むと少し離れた大きな桜の木を寂しそうに見つめた。
私ははそれを手から奪い、販売機の横のゴミ箱に捨てに行こうとした。高耶さんも立ち上がってついてくる。

「もう下りますか?」
「うん」

ゴミ箱に缶を捨てて、今度は反対側の歩道に渡った。とても静かな都会の道路、信号機は音もなく赤から青に変わった。

「今日さ、陽気に誘われてっていうか、天気がいいからチャリで柄にもなく近所の史跡めぐりをしようって思い立ったんだ」

下り坂を並んで歩いているとようやくポツポツと、たどたどしく、心の中を言葉にして表し出した。彼の精一杯の表現で。

「ええ、さっき言ってましたね。文豪の史跡を回ったって」
「そう。で、区役所で史跡マップ貰って、本郷まで行って昼飯食って、菊坂ってとこあたりに色々あるってマップで見たから、
そこを下ってったんだ」
「一葉の井戸、とかですか?」
「うん。それそれ。あと炭団坂で宮沢賢治のなんかがあるってゆーからさ」

あまり真剣には見てなかったのだろう。なんとなく気持ちのいい春の日に散歩したという感覚だろうか。

「んでな、金魚屋とか見て、菊坂を下りてって、狭い道をチャリ押しながら行ったらお寺があってさ」
「はあ」
「そこで葬式やってたんだ」
「……はい」

知り合いの葬式だったのだろうか。どうしようもないほど眉が下がる。

「全然知らない人の葬式だったんだけど、女の人が喪服で骨壷が入った木箱を持っててな」
「ええ」
「桜を見てたんだ。寺の中の大きな桜の木。立派で、満開のやつを。こうして、骨壷を抱えながら」

私と目を合わせずに何かを胸の前で抱える仕草をする。

「両手が塞がってるだろ?だから涙がポロポロ落ちるんだ。それでも晴れた青空に映える桜を見上げてるんだよ」
「…そうですか…」
「切り取った絵みたいだった。現実感なんてなくて、ただボーっと見てたんだけど」

返事ができず、話に耳を傾けているだけしかできない。

「誰が亡くなったのかはわからないけど、家族なんだろうな。どんな気持ちで見てたかもわかんないけど、オレ、葬式でそう
やって泣く人を見たの、初めてでさ」
「………」

まだ彼が何を言いたいのかわからない。その人に同情したのだろうか?それだけでここまで沈むものだろうか?
実家が寺をやっているから葬式など何度も見ている。私の神経は麻痺しているのだろうか。

「あの女の人は、桜を見るたびに死んだ人を思い出すのかな、って思って」
「たぶん、そうでしょうね」
「この先、一生、満開の桜を見ては死んだ人を思い出して泣くのかなって。それってどうなんだろう、って」

ようやくわかった。たぶん高耶さんは同情しているわけではなく、思い出を大事にする方法を探っているのだろう。

「普通の春の日とかに死んだんだったら、桜を見ても泣かないような気がしたんだ。でも、満開の桜の下で、ああして葬式したのは忘れないよな。オレの中では可哀想ってゆー感じじゃないんだけど、切ないってゆーか…なんてゆーか」

その女の人にシンクロしてしまったのだろう。感受性の高い彼は一瞬の場面で他人の気持ちに同調できるから。

「きっと」

私が思ったままを言おう。飾らない言葉で。

「きっと、彼女はそれでいいと思ってますよ。善かれ悪しかれ、満開の桜を見ながら悲しんだことは忘れないでしょう。その人が満開の日に天に行った。咲き誇る桜の中を大事な人が笑いながら上って行く。寂しいと思いながらも、そう考えることは出来たと思います。だから下を向かず、桜を見て涙をこぼしていたんでしょうね」

高耶さんは夜桜を見上げながら、少しだけ笑顔になった。

「そっか。そーゆーことか」
「ええ、きっとね」

そっと私の手を取って、目を見て笑ってくれた。

「不幸だなって思ってたらイヤだったんだ。桜を見ながら『どうして?』って恨み言を言ってたら悲しいなって」
「大丈夫ですよ。毎年桜を見るだけで大事な人を思い出せるんですから」
「幸せってさ、自分で作ってくもんだよな?だったらあの人も大丈夫だよな。悲しみの中でも幸せを作ってたんだもんな」
「そうですね」

手を繋いで坂道を下った。誰もいない深夜2時。誰かがいたとしても、この手は離さない。

「直江の幸せはオレが作ってやるって思ってたけど、直江が作るものなんだ。オレはその手助けをするだけでさ。でもこれって一緒に作ってくってことだよな?」
「ええ。私も高耶さんの幸せを作る手助けをします。いつも、いつも」

満開の桜に負けないほど、笑顔を綻ばせて彼は笑う。
この一瞬を切り取って、永久に残しておきたいと思う。
それは私の心の中で叶うもの。
この瞬間を忘れないよう、彼にも忘れてもらわないよう、私が作る私の幸せの中で一緒に佇んでいて欲しいと願う。

 

彼が桜を見るたびに。
私はあなたの花のかんばせを見るたびに。
はなびらが彼の肩に一枚、乗った。

 

 

 

END

   
   



 

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