翌朝、高耶さんが私の腕の中から抜けようとしているゴソゴソという感覚で目覚めた。
「……高耶さん?」
「あ、おはよう。やっと起きたか。今から朝飯作るから、ここから出して」
なかなか抜けられないんだ、と言って私の腕を解こうとする。抜けられるわけがないのだ。意識してこうしているのだから。
それが例え寝ていても、だ。
「早くしろよ」
「わかりましたよ」
腕を解くと彼はベッドから降りて立ち、大きく伸びをした。水色のパジャマが気だるく朝日に透けた。
それから私を振り返り、ベッドの脇にしゃがんで顔を覗き込んできた。
「ヒゲが伸びてる。直江っていつもキチンとしてるからヒゲが伸びると変な感じ」
「高耶さんのシェーバーを貸してくださいよ?」
「うん。じゃあ直江も起きろ。ほら、ベッドから出る!」
「はいはい」
毛布を剥がして出ようとしたら、高耶さんがキスをしてきた。
「え?」
昨日のキスは酔っていたのだし、昔よく遊んでもらった『直江』とダブらせていたからだと思ったのに。
「うーん、やっぱ直江とキスするのは平気だな。これって何だと思う?」
「……私の場合は恋ですが……高耶さんの気持ちは高耶さんにしかわかりませんからね…何とも…」
「じゃあ恋かな?」
「今まで恋は?」
「あるよ。振られたけどな」
誰だ、そんな光栄な事態を蹴ったのは。
「うん、たぶん恋だ。直江はオレを好きで、オレも直江を好きで、だったら両思い?」
「高耶さんが言うなら、そうですけど」
「そっか。だったら付き合う?」
「はい?」
耳を疑った。つきあう?
「だから、オレと付き合う?って聞いてんの」
「………はい!」
「よろしくな、店長」
「二人でいる時の『店長』はナシだって昨日約束したでしょう?」
「あはは」
笑い顔が色っぽい彼と何度もキスをした。
それから順調に付き合い続け、私と高耶さんはお互いの家を行ったり来たりで仲睦まじくプライベートを謳歌していた。
ただ私にはまだ彼の本心というものがつかめずにいたが。
あの日の彼の告白は「たぶん」という言葉がついていたからだ。それにどこか不安定なところもある。
何がどう不安定なのか私にも明確にわからない。どうしてかそう思ってしまうのだ。
だが「やっぱり勘違いだった」と言われたところでもう後戻りできないほど愛してしまった。もし別れたいと言われても私には
絶対に無理だろう。
「店長」
「あ。高耶さん」
「あの、んっと、お客さん、です」
戸惑うようにして受付にいる女性客と取り次いだ。どうしたんだ?最近どうも高耶さんの態度がおかしい。
こうした態度は付き合い始めてからすぐに起きた。
とにかく今は仕事に専念しなければならない。女性客は以前にもここへやってきて、何度か部屋を紹介しているがなかなか気に入った物件が見つからずにこうして通っている客だった。
いくつか新しい物件を図面で見せて、見込みのありそうな部屋を選び、その部屋を見せるために一緒に車で出かける。
「じゃあ行ってきますから。高耶さん、留守番頼みますね」
「はい」
社員が誰もいなくなった間に留守番をするのが彼は好きではない。こんな時に客が来たら図面を見せることはできても、実際の部屋を見せに行けないので客を逃してしまうからだと言っていた。
しかしそれは仕方がない。待ってもらうしかないのだ。
女性客に4件ほど部屋を案内して約2時間後、店舗に戻った。
今回も気に入った部屋はなかったそうで、また来月に来るからと言って帰っていった。どうしてもこの近所で探したいそうだ。
「お疲れ様。……コーヒーいる?」
「ええ。お願いします」
そしてその日も私は帰りに高耶さんの部屋へ寄った。泊まってもいいようにスーツも置いてあるので泊まるつもりで。
しかし。
「あのさ、もう、やめない?」
「何がですか?」
「付き合うの」
「……別れるってことですか?」
「うん」
「理由を聞かせてください」
自分のこめかみに血管が浮いているのがわかる。心臓がドキドキしている。胃がせり上がってきそうだ。
「理由……理由か……。苦しいから」
「何が苦しいんです?」
「おまえと付き合ってることじたいが」
いつのまにそんな風に考えるようになっていたのだろうか。まったくわからなかった。まさか、好きな女でも出来たんじゃあるまいな。
そうだとしても別れるなんて出来ない。
「嫌です」
「じゃあもうバイト辞める」
「仕事場が一緒だから苦しくなるなら辞めてもいいですよ。でも、別れません」
「もう直江といるのが嫌なんだよ」
俯いて口を尖らせてボソリと言った。
嫌われてしまったのか?いや、そうは思えない。勘違いだったから別れてくれと言っているならそれもあるだろう。
でもそうではない。自信がある。
「とにかく別れるから。ここに置いてあるスーツも持って帰ってくれ。バイトも今週で辞める」
最近の違和感はこれだったのかもしれない。不安定、というあれだ。
「バイトは辞めてもかまいませんけど、別れませんからね」
いつまでもここで討論してたって解決にはならなさそうだ。スーツも持って帰るつもりはない。
絶対に別れないと釘を刺してから、イライラした気持ちを抱えて家路についた。
翌日高耶さんはバイトを休んだ。無断欠勤だったが社員には風邪を引いたらしいと嘘をついてフォローした。
私と別れたいから休んだのだと理解はしていた。しかしこちらは理解などできない。
仕事を終わらせてから高耶さんのアパートに向かった。
高耶さんは家にいる時に鍵をかけない。それを知っていて勝手に入った。
「どうしても別れたいんですか?」
「そうだよ」
「ちゃんとした理由を聞かせてくれるなら、別れてあげますよ。洗いざらい言ってください」
諦めたように大きな溜息をついて、彼は話し出した。
「まさかこんなにうまくいくなんて思ってなかったんだ」
「え?」
「最初から話す。『直江』ってのは、オレの初恋の人。小学生の頃に好きだった団地のお兄ちゃんだったんだ。前に話した時はよく遊んでもらったなんて嘘ついたけど、本当は初恋。義明さんが直江に似てたってのも本当。だから好きになったんだ。
でも、バイトを始めた時からじゃないんだ」
「……?」
「この部屋を探しに来た時に、義明さんを見て『直江に似てる』って思って、すぐに一目惚れしたんだ。いつか近付いて、仲良くなって、付き合うんだって決めてた。そんで義明さんとこでバイトの募集してるの見て飛びついた。面接で橘さんが弟が結婚してるって言った時にはショックだったけど、それでもかまわないって思ってバイトで入った。そしたら本当は結婚してなくて、思った以上に優しくて、かっこよくて、だから絶対にオレのものにしてやるって決めて……好かれるようにしたんだ。義明さんが食事に誘ってくれなかったらオレから誘ってるはずで、酔ってないのに酔ったふりして送ってもらって、泊まらせて…。パジャマだって元々自分のじゃない。何度か着たけど本当は義明さんがウチに来た時のために、って思って用意してたやつ。何もかも、オレが計画してやってきたことだったんだ。ほとんどストーカーだよ。まだバイトしてない頃に義明さんの後をつけて家だって行ったことある。女と会ってたのも知ってる。だけど……」
「高耶さん……」
信じられないことだった。私が彼を好きになるように仕向けていた、だと?
「だけどな、昨日、あの女の客を見てて、ああ、こいつも義明さんに惚れてんだな、だから毎月来るんだな、ってわかって、
そしたら自分がすっごく醜く思えて、嫌になったんだ。苦しいんだよ。こんなオレを好きだって言われるたんびに苦しくなるんだよ」
「そんなことを……」
「だからいつかバレるんじゃないかって怖くなって、汚いって思われるのが怖くて、でももう苦しくてたまらなくて。オレなんか
義明さんと付き合えるような人間じゃないから、もう別れてもらおうって、そう思ったんだ」
それは……。
「な?怖くなっただろ?オレなんかと一緒にいたら縛られてなんにも出来なくなるだろ?仕事場でも家でも監視されて、女の客が来るたんびに嫉妬されてんだぜ?それに毎日毎日義明さん目当ての女が何人も来る。知ってた?あの店が忙しいのって、全部義明さん目当ての女が来るからだって。そんなのオレだって嫌だもん。毎日そんなの見てると、もう誰にも義明さんを見せたくなくってどっかに閉じ込めそうだし、そう思う自分が嫌いになる」
まったく気付かなかった。女性客のことも、高耶さんがそんなふうに思っていたことも、嫉妬されていたのも。
だが。
「それはあなただけの気持ちで、私の気持ちを無視していませんか?」
「…まあ、そうなるけど」
「私の気持ちを聞く余裕はないんですか?」
たぶん今の私の声は緊張で堅くなっているはずだ。もしここでそんな余裕はないと言われてしまったらお終いだからだ。
「聞いたって、オレの気持ちは変わらないよ」
「聞くだけ聞きなさい」
「やだ。もう帰れ。別れるって決めたんだから。義明さんだってまた元に戻ればいい」
高耶さんがこんなに頑固だとは思わなかった。意思のハッキリした人だとは思っていたが。しかしその頑固さがあったから
ストーカーまがいのこともしたのだろう。
「良かったな、男なんかを抱く前でさ。仕向けられてオレなんかを抱いてたら義明さんの人生の汚点になってたよな」
汚点。その言葉は私のプライドを大きく傷つけた。
「汚点て何ですか!さっきからあなたは私の気持ちを無視し続けだ!聞かなければわからないことだってあるでしょう?!」
「聞かない!」
「聞きなさい!」
手を伸ばせばすぐに届く高耶さんの体を床に押し付けた。聞かないと言い張って耳を塞いだから、その耳元で叫んだ。
絶対に聞こえるように。
「どんなあなただってかまわない!あなたが仕向けていたって、そんなものは関係ない!私だってあなたに一目惚れしてたんですから!」
聞こえたはずだ。塞いでいた耳から手をどけた。
「なんて…?」
「一目惚れしたって言ったんです。私とあなたの立場が逆転してたっておかしくはなかったんですよ。もしあなたが私の誘いに乗らなかったらこちらがストーカーになってました。あなたを落とすために必死だったんですからね」
「嘘だ…」
「嘘なんかじゃない。本気だって証拠を見せましょうか?何をしたら信じますか?抱いたら信じるんですか?」
「そんなの…っ!しなくていい!」
「しなきゃわからないんでしょう?!」
「しなくていい!」
強引に詰め寄ったせいなのか、彼は泣き出してしまった。
初めてだ。高耶さんが泣いているのを見るのは。
どうしようもなく愛しくて、わかってもらえなかった自分が悲しくて、ゆっくり体を起こして抱いた。
「愛してるんです。本当に、初めて会った時から愛してたんです。お願いですから別れるなんて言わないでください」
「……でも」
「でもはいりません。愛してます。あなたが私の汚点なんかになるはずがない。むしろ誇りに思いますよ」
「……ストーカーされてたのに?」
「あなたにだったらお願いしてストーカーになってもらいたいぐらいです」
「毎日嫉妬してるのに?」
「もっとしてください」
「『直江』って呼んでても?」
「それがあなたと二人だけの間での呼び名だったら、直江がいいんです」
「……ん」
「わかりましたか?私の気持ち」
「うん……」
高耶さんが手を背中に回して、体を密着させて鼓動を確かめる。
「好きでいてもいいか?」
「ええ。好きでいてください。そのぶん、私も答えますから」
「直江、好き」
良かった。好きでいてくれて。彼を好きになって。こんなに愛されるなんてもう一生ない。
何もかもを吐き出しあったその夜、私と高耶さんはすべてひとつになった。
翌日の出社は無理そうだったので休んでもらった。
しかし翌々日からはまたバイトにも復帰して、店内は忙しくとも明るく楽しい雰囲気に包まれた。女性客が来なければ、だが。
若い女性が客として来ると高耶さんの周りが黒いモヤモヤに包まれてるみたいだ、と中川が言った。
ちょっと困るがそれだけ愛されているということだな。
「直江ッ」
「はい?」
「今日の女と何かあった?」
「何にもないですよ。なんなら盗聴器でもつけましょうか?」
「う〜ん…それもいいかも」
本気ですか…?
「そんなに不安にならなくても大丈夫ですよ。私はあなたのものですから。ついでと言っては何ですが、一緒に住みますか?
そうしたら少しだけ不安もなくなると思いませんか?」
「……いいの?!」
最近は高耶さん目当ての客が目立ってきたのだ。しかも男女問わず、だ。
「ええ。大歓迎です。そうしたら最近の…高耶さん目当ての客に私が嫉妬しなくて済みます。おかしな誘いを受けてないかとか毎日心配してるんですからね」
「マジで?オレ目当て?嘘だ〜」
「あなたって他人の気持ちには鈍感ですよね。そんなところも可愛いんですけど。ね、高耶さん、一緒に住みましょう?」
「うん!!」
橘不動産東京支店。
そこで部屋を見つけるとステキな恋人が出来るというジンクスがある。
そこは私と高耶さんを結んでくれた場所だから。
END
あとがき
カナヤンさんからのリクエスト。
橘不動産にバイトに来た高耶さんに
一目惚れの直江、というリクを頂きました。
私の都合で2話になってしまいました。
こんな感じで良いのかと
いつも悩んでいます。