昼休みから帰ってきた直江はいつもの直江で、スーツを少しタバコ臭くして、スターバックスのコーヒーを片手に戻ってきた。
オレが買い付けに関しての質問をしに行った時も、千秋が提案書を渡しに行った時も、とくに変わった様子はなく仕事をしてた。
だからきっと浅岡さんの勘違いだろう。
直江が怒ってたなんてのは。
いつものように残業の直江をチラ見してから帰った。
夕飯を親父とお母さんとで食べてる間に直江が戻ってくる。まだ料理が冷めてないからすぐに着替えて戻って来いってお母さんが言ったけど、直江は今から少し仕事をしなきゃいけないから後で食べる、と返した。
今までそんなこと一度もしたことがないのに。親父もお母さんも心配してる。
「義明ったら……みんなで食べないなんて」
「仕事だったら仕方ないよ」
「でも……」
お母さんは親父とオレに気遣ってる。自分の息子が新しい家族に馴染めないんじゃないかって。
「お母さん、大丈夫だよ。お兄さんてマジで会社で忙しいから、今日も仕方なく仕事を持って帰ってきただけだと思うよ?」
「ほんとう?」
「ホント!」
親父は晩酌の相手がいないから寂しそうで、お母さんが付き合うことになった。
それでも直江は部屋から出てこない。
仕方ないから食ってからやったらどうだって言いに部屋に行った。
「夕飯先に食えば?」
「いえ、もうすぐ終わるんです。出来上がったらすぐにメールで送らなくてはいけないので……」
「ふ〜ん、課長ってのは大変なんだな。入っていい?」
「ええ、どうぞ」
パソコンでやってた仕事はオレに見られても大丈夫なもののようだ。ベッドに座って直江の後姿を見てた。
「それ何の仕事?」
「買い付けのフローです。来年から私たちの部署がふたつに分かれる話はこの間しましたよね?」
「うん。一課と二課にだろ?」
「それで一課と二課で作業も分担になるんですよ。だから今までのフローでは使えないので……新しく作り直してるんですけど……どこからどこまでを分担にするのかのドラフトを作れと会議で言われて……ええと、何を話してたんでしたっけ?」
直江は仕事をしながら世間話をできないらしい。普通はそうか。
「ドラフトを作るんだろ?」
「そうそう。それを明日の朝一番の会議で検討するんです。そのための資料作成データを印刷部に送っておかないと」
残業すりゃいいのに、って言ったら会社だとちょっと色々と集中できないことがあって、って言われた。
なんでか聞いたら最近残業する社員が増えたらしくて、そのせいで勧告が出て直江まで残業しにくくなったらしい。
オレとしては直江が早く帰ってきてくれると楽しいからいいんだけど。
え?今、オレ、何を考えた?
「やっと終わりました。メールで送ってから夕飯食べに行きますよ」
「あ、うん」
「どうかしましたか?」
「いや別に……あ、あのさあ、今日の会議で何か嫌なこと言われた?」
「いえ、ありませんけど?」
「浅岡さんが直江が怒ってるみたいに見えたって言うもんだからさ」
メールを送り終わった直江が椅子ごとこっちを向いた。
「浅岡さんが?」
「うん。怖い顔してたってさ」
直江は心当たりを思い出すような仕草で考えこんだ。眉間にシワを寄せてる顔が年齢のわりに渋い。
「気のせいじゃないですかね?」
「だよな〜。直江がそんなのを顔に出すわけないのに」
「そうですね」
スッと立ち上がってドアに向かった。オレもその後をついていく。
「私がそんなことを顔に出すわけがないじゃないですか」
ドアを開けながら言ったそれが、オレにはなんとなく怖く聞こえた。
直江は隠している気持ちを顔には出さない自信があるんだって、そう思えた。
一緒にダイニングまで行って直江が食べてるのをじっと見てた。
お母さんの代わりにお茶をいれたり、ご飯をよそったりしながら。そのうち親父が風呂に入りに行って、お母さんは寝る準備をしに寝室へ。
ふたりっきりのダイニング。
「なあ」
「はい」
「浅岡さんて、直江から見てどう思う?」
「浅岡さんですか?……可愛らしくて、女性らしくて、仕事は少し遅いですけど真面目でいい方だと思いますよ」
「だよな〜。けっこうモテてるみたいだしな〜」
「それがどうかしたんですか?」
直江には告白されたってことを話すつもりはなかった。
関係ないし、社内恋愛なんて不真面目だって怒られるかもしれないし、それになんとなく言いづらかった。
「ん〜、別に」
「……前に高耶さんが言ってた好きな女性って、浅岡さんですか?」
う、いい勘してるじゃねーか。のんびり兄貴のくせに。
「いいんじゃないですか?お付き合いするには素晴らしい女性だと思います。告白してみたら?」
恥ずかしさもあった。
だけどそんなふうにサラッと言う直江に腹も立ってオレは乱暴に持っていた湯呑みを置いた。
「そんなのオレの勝手だろ」
勝手も何ももう断ってるんだから話にもならないんだけど、直江が兄貴面して告白しろだの、浅岡さんを過剰に評価したのが気に入らなかった。
鼻息も荒く立ち上がって自分の部屋に行った。直江がどうしたんですか、って驚いてるのも無視して。
ベッドに倒れこんでやり場のない怒りをもてあましてた。
これがオレの悪い癖で、こういった怒りを抱えてると解決を後回しにして他で発散させちまうのが常だった。
親が離婚したときは不良と悪いことして遊んだりしてた。
好きな女に振られたときは毎日友達をつき合わせて歩けなくなるほど飲んでた。
だけど今はもう大人で、親父もそうだけど、お母さんのことを考えるとそうやって発散させちゃいけないと思う。
だから怒りの根源を探すことにした。こうゆうのを内省っていうんだろうな。
「あ〜、くそ〜」
考えよう。まずどうしてこんなに直江に腹を立てたのか。
その一。直江に浅岡さんに告白してみろって言われたこと。
その二。直江が浅岡さんを過大評価したこと。
その三。直江が平気でオレの恋愛についてアドバイスしたこと。
考えれば考えるだけわからなくなってくる。だからもうちょっと視点をずらして、オレの気持ちから探ってみた。
その時に思い浮かんだのが、直江が早く帰ってきてくれると嬉しいって考えたこと。
確かにいい兄貴だ。話してると楽しい。アイスも買ってきてくれる。見てて飽きない。
だけどそんなことじゃないんだ。そんなんでオレの気持ちがここまでガサガサになるわけがない。
「マジわかんねえ」
うーんと唸った時にノックの音がした。
「高耶さん、お父さんがお風呂から出たから入ってくださいって」
直江……。
「先にどーぞ」
「あの、部屋に入れてもらっていいですか?」
「なんだよ」
直江はドアを開けて入ってきた。
「何か、怒らせましたか?」
「ああ、怒ってるよ。勝手にオレの恋愛相談したつもりになって、兄貴面して、なんでオレがおまえに言われて告白なんかしなきゃなんねーんだよ」
「……すいません……。あの、そんなつもりではなかったんですが」
今まで見たこともないほど情けない顔しやがった。オレが悪者みたいじゃんか。
「もういいよ。風呂だろ。入るよ」
「高耶さん……」
直江から視線を外してドアを閉めようとした。
その時に直江の手が伸びて、オレの頬を触った、というか包んだ。
「ごめんなさい」
ビックリした。直江ってやつはスキンシップが多いのは知ってたけど、いきなりされたから。
そのせいだと思う。オレは自分がどうして怒ってるのか、気が付いた。
「いいってば」
その手を払ってドアを閉めた。わかった。わからなくても良かったのに、気が付いた。
浅岡さんを過大評価したのにも、直江が告白しろって言ったのにも、サラッと恋愛相談しようとしたのにも、怒った理由が。
直江が早く帰って来てくれるのが嬉しいのも、わかった。
オレは直江が好きなんだ。
バスタブの中で溺れそうになった。湯当たりしてのぼせた。全部直江のせいだ。
この屋根の下に、オレの好きな男がいる。そいつは課長で、兄で、お母さんの息子で……。
そんな相手にいくら惚れたって無駄なのはわかってる。
同性だとかはこの際関係ない。どうせ結ばれるわけがないんだから。
今なら引き返せるだとか、今のうちなら忘れられるとか、そんな生易しいもんじゃない。
いつの間にか直江はオレにとって必要な家族になってる。
じゃあ家族として仲良く、なんてのも無理だ。
もしこのまま何事もなく家族として過ごして、いつか直江が嫁さんを連れてきたりしたらどうしていいかわからない。
そんなことを考えながら風呂に入ってたもんだから、ガッツリのぼせてしまった。
バスタブから出たところで桶やらシャンプーやらを倒して派手な音を立ててのびた。
いち早く駆けつけたのはお母さんで、悲鳴を上げてオレを揺さぶった。
その後に来たのが直江だった。
親父は肉親のくせに一番最後で、しかも「のぼせただけだろ」なんて言ってる。
「お母さん、冷たいタオルを持ってきてください。私が部屋まで運びますから」
意識はあるんだけどクラクラして目の前が真っ暗で、だらしなく直江に寄りかかってしまった。
一番会いたくない男にだ。
手早くオレの体を拭くと、バスタオルで包んで抱き上げられた。
オレの体重を平気で持ち上げるこの兄貴はいったいどれだけ力持ちなんだかな。
裸のままベッドに寝かされて直江が団扇で扇いでくれてる。素っ裸を見られてる。オレの好きな男に。
お母さんが洗面器に氷水とタオルを入れて持ってきてくれた。
「もういいですよ、お母さん。高耶さんは男性なんですから、いくらお母さんでも恥ずかしいでしょうしね」
「あ、そうね。良くなったら教えてね」
「はい」
お母さんに見られるよりも直江に見られるほうがずっと恥ずかしいんだけど。
でも今のオレはそんなこと思ってても何もできない。
冷たいタオルが額に乗った。
それから涼しい風が体に当たる。
たまに首筋にタオルを当ててくれるのが気持ちよかった。
「どうですか?まだちょっと熱が引かないみたいですけど」
「ん〜……まだ」
直江の手が額を触る。こめかみにも、頬にも、首にも。
「脈が速いですね……どうしてこんなになるまで」
おまえのせいだ。言いたいけど言えない。
「あ、水飲んでおかないと」
「ん……」
ドアが開く音がして、直江がいなくなった。
しんとした部屋に直江の香水の匂いが残ってる。
女子社員に受けがいい品のいい香水。オレもこの匂いが好きだ。
「ペットボトルだったらコップよりもいいですよね?」
直江はすぐに戻ってきてそう言った。
そんなのわかるわけないだろう。寝ながら飲んだことないのに。
「ああ、だいぶ熱が引いてきた。まだ頭はボーッとしてますか?起き上がれる?」
「うん……たぶん」
まだ目の前が暗いままだったけど、ものすごく水が飲みたくて支えてもらって起き上がった。
オレの背中と肩に直江の腕が回されてる。そこだけまた熱が上がりそうだ。
「飲んで。少しずつですよ」
口にペットボトルが当たる。冷たい水がそっと唇を伝って、口の中に、喉の奥に、体に。
「体の中からも冷やさないと。ゆっくりでいいから全部飲んでください」
「うん……」
頭を直江の肩に預けて、水を飲ませてもらって、抱いてもらって。
こんなこと、のぼせたりしなきゃしてもらえない。だからきっとこれが最初で最後だ。
オレはゆっくり水を飲んだ。
これが後から後から水が湧いてくる魔法のペットボトルだったらいいのに、って思いながら。
一滴ずつ、ゆっくり。
「大丈夫?」
「……まだ」
だけどオレの体は水を早く飲めって言ってる。
ゆっくり飲みたいのに、体が勝手に早く早くとせかすから、ペットボトルはすぐに空になった。
「じゃあもう寝て。タオル、替えましょうね」
頭に乗ってたタオルを氷水で冷やして絞ると、直江はそれでゆっくりと首から上を拭いた。
そしてまた額に乗せる。それから薄い肌がけ布団をかけてくれた。
「あとでちゃんとパジャマに着替えてくださいね。いつまでもその格好で寝てたら今度は風邪引きますからね」
「わかった……」
「……もう少し、ここにいた方がいいですか?」
「……うん」
氷水のせいで冷たくなった直江の手が頬を触る。気持ちいい。
「どうしたんですか?のぼせるまで風呂に入っているような年齢でもないでしょう?」
「考え事」
「もう風呂場で考え事はやめてください。心配かけないで」
なんで。なんでこいつはこんなに優しいんだ。
それさえなかったら好きになんかならなかったかもしれないのに。
「……本当に、あなたは」
ようやく視界がハッキリしてきた。
直江が目の前で情けない顔をしてる。これが直江の心配顔なのか。やっぱ男前だ。
あ、何か言ってる。キレイな形の唇が動いてる。その唇にキスしたい。
「高耶さん、聞いてます?」
「ううん」
「まったく……弟ってこんなに手のかかるものなんですか?」
「……うるせーな」
「でも、可愛いものですね」
そうだよな。結局直江には弟なんだ。駄目な弟。それだけ。
「もう平気。お母さんにゴメンて伝えておいてくれ。着替える」
「手伝いましょうか?」
「大丈夫だ」
手を振って直江を追い出して、タンスの中からパジャマと下着を出して着た。
歩くと少しフラついたけどもう大丈夫。もう、大丈夫。
直江が優しくしてくれたから。
弟でもいいから優しかったから。
諦めるにはじゅうぶんな優しさだったから。
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