階段に座り込んで少しだけ泣いた。涙が出ない泣き方もあるんだと知った。ただ胸の奥が凍ったような感じ。
「どいてください」
頭の上から声がした。二階から下りてきて、階段に座ってるオレが邪魔になった直江の声だった。
「もう私とは話したくないんでしょう?だったらそうならないように自分でも考えなさい。こんなところに座り込んでたら私に話しかけられるに決まってるでしょう?」
冷たい声だった。今までこんな声を直江から聞いたことがない。
いや、一度だけあった。直江が自分の負の感情を表に出すわけがない、って言った時だ。
「それがおまえの正体か」
「なんですって?」
「誰にでも優しくて、親切で、穏やかなおまえは結局偽りだったってわけか」
突然、後ろからオレの両脇に手を突っ込まれた。
そして立たされて、正面から壁に押し付けられた。壁の冷たさが顔にまともに当たる。
「そうですよ。私は勝手で、あなたのことなんかちっとも考えてない。どんなにあなたが迷惑だろうが、そんなものはおかまいなしに突っ走る男ですよ」
「な、お」
息苦しかった。壁にべったりと押し付けられて肺が押しつぶされそうになってる。
「わかってたんでしょう?わかったから出ていくなんて言ったんでしょう?」
「なに、を」
「気持ち悪いから避けたんでしょう?」
いったい何を言ってるんだ?何がわかったって?何が気持ち悪いって?
「小細工しても無駄でしたね。女の香水?そんなものどこでだって付きますよ。その辺の店で彼女に買うプレゼントだって顔をすればいい。そこまでしてあなたを傷つけまいとしたのに、何もかもお見通しってことですか」
「離せ……!苦しい!」
「苦しいのは私のほうだ!」
息が止まりそうだ。めまいがする。酸素が足りない。
「離してくれ!」
それだけ叫んでようやく解放された。
足りなくなった酸素を思い切り吸い込んでやっと自分がどんな状況に立たされていたのか自覚した。
床に膝をついて震える足をどうにかバレないようにした。
さっきは出なかった涙が溢れてくる。好きな男に苦しめられて、つらかった。
涙が床にパタパタ落ちて、オレは動けなくなった。勝手に背中が上下する。しゃくり上げる。
こんな姿を直江に見られるわけにはいかないのに。
直江がもっとオレを責めるつもりなのか、オレの前にしゃがんだ。もうどうにでもすればいい。
殴って引きずって蹴って、傷つければいい。
だけど直江はそうしなかった。泣いてるオレの頭を映画館の前でしたように撫でて、それからそっと、壊れ物を扱うみたいに抱いた。
「あなたが好きなんです。ごめんなさい」
その声はひどく震えていた。
「私に好かれて気持ち悪かったんでしょう?いつ私があなたを好きだって気付いたんですか?」
「……え?」
「隠していたつもりなのに、ダメでしたね。浅岡さんとあなたが一緒にいただけで嫉妬して、それで気が付いたんですか?誤魔化そうとしてお兄さんぶってもわかってしまったんですか?」
「なおえ……?」
頭が混乱してる。
いくら考えても、直江の言葉を反芻してもいったいどういうことなのかわからない。だけど心で気が付いた。
直江はオレと同じように、オレを好きになってたんだって。
「私が出ていきます。元々私には肉親はいませんから。母だって血の繋がらない親ですから……きっとあなたよりは大丈夫ですよ」
違う。そんなこと言うな。血が繋がらないとか関係ない。
お母さんは直江を大事にしてる。親父だって照れながらだけど直江を息子として認めてる。
オレにとっても直江はかけがいのない家族だ。だけど頭で考えられないから言葉が出ない。
それに家族ってだけじゃない。オレはおまえが好きなんだ。
だから本能的に腕が動いた。直江の背中を抱いた。
「高耶さん……?」
いなくなるな。そばにいろ。好きだからそばにいろ。
力を込めて抱いた。二度と離さなくても済むように。
「どうしたんですか?」
この兄貴はオレの気持ちをまったくわかってない。
まだ言葉にならない。涙のせいかもしれない。
こんな時にオレの不器用な頭は使えなくて困る。
だけど直江、知ってるか?オレは自分に正直なとこだけがとりえなんだよ。
抱かれた格好のまま頬にキスをした。
少し産毛が立ってる頬に、ヒゲが頭だけ出し始めた顎に、いつも優しい言葉をかけてくれる唇に。
「た……かや、さん?」
「すきだ」
頭で考えた言葉じゃない。心の底のほうから湧いて出た言葉だった。
「オレも直江が好きだ」
今度は直江が言葉を失った。鼻も目も赤くなってるオレをじっと見てる。
返事の代わりにキスが来た。
「嫌われたんだと絶望していました……」
「好きだよ」
ほんとうですか?
その言葉はキスしながらだったから、正確には聞き取れなかった。だけどオレの口の中で響いたのは確かだ。
「ずっとそばにいてください」
「うん」
「兄でも上司でもなく、あなたの恋人として、そばにいさせてください」
「そばにいろ……」
階段の下、固い床の上でオレたちは何度も何度もキスをして、気持ちを確かめあった。
どのぐらいの時間キスしてたかわからない。
やっと満足して唇が離れてから、直江に背中を撫でてもらってた。
ゆっくり、柔らかく。あったかくていい気持ちだなって思ってたら、突然手がスッと下に伸びてジーンズの上からオレの尻を撫でた。
「んな!」
何するんだ!って言いたかったんだけど、ビックリしすぎてちゃんと言えない。
「ダメですか?」
「なっ、なんでそんなとこ触るんだよ!」
離れたかったけど直江が離してくれない。オレを抱き上げられるような男なんだから力はあるんだよな。
「ずっとこうしたかったんですけど。あなたは違う?」
「ち」
違うって言ったら直江はどんな顔になっちゃうんだろう?悲しい顔か?後悔した顔?
オレの前じゃ感情がそのまま表情になっちまうヤツだから。
「ええと……聞いて欲しいんだけど」
「はい、いくらでも」
「あのな、オレが自分の気持ちに気が付いたのって、つい最近、てゆーか、何日か前で、その……そうゆうことするとか考えたこともなくて、だから……」
少しだけ体が離れた。顔を見合わせてお互いの真意を量る。
「高耶さんが正直に言ってくれたんですから、私も正直に言いますね。もうずっと前から、あなたにキスしたい、体を触りたいって思ってました」
ずっと前から?マジでか?
「いつから?」
「あなたがピンクのシャツを選んでくれた時から」
そんなに前だったんだ……。けっこう長い。
たった数週間前のことなのに長く感じるのは、きっとオレも直江が好きだったからなんだと思う。
「キスだけじゃダメ?」
「……ダメというわけではありませんが……同じ屋根の下にあなたがいるのにガマンするのは大変なんですけど」
だ……大胆なヤツだ……。ただののんびり兄貴で、優秀な課長だと思ってたのに。
「しかも今夜は二人きりですし」
げげ。そうだった。そりゃ健全な三十三歳としては気持ちも昂ぶってくるだろうけどさ。
だけどオレ、さっきのが初めてのキスなわけで、それ以上ってのは心の準備もできてないわけで。
「大丈夫ですよ。優しくしますから」
「!」
「嫌ならすぐにやめます」
も、もしかして直江ってこうゆうの慣れてるのか?男とやるんだぞ?
「高耶さん」
またキスされて、たくさん好きだって言われて、最後に愛してるって言われたらなんだか直江がオレの心の奥にあるランプに大きな火をつけたような気がした。
もっとキスして欲しくて顎を上げた。
8と9は裏です
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