オレは弱い人間が大嫌いだ。
一年前、親父が蒸発した。親父は脱サラして事業を始めたがうまくいかず、荒れてオフクロやオレにいつも暴力をふるっていた。
そのせいで離婚になって、妹の美弥はオフクロが引き取り、オレは親父に引き取られた。
まだオレが小学生のころの話。
親父は酒が入ると暴れ、オレを殴る。酔いが醒めれば反省して「二度としない」と誓うんだが数日するとまた酔って殴る。
心の弱い人間だったんだ。
オフクロが再婚した相手がいい人で、何度かオレを引き取ろうとしてくれたんだけど、結局オレは親父と暮らすことを選んだ。
淡い期待もあったんだ。ちゃんと立ち直ってくれるに違いないだろうって。
周りの援助もあって高校までは卒業し、松本にある鉄工所で働いていた。ところが稼いでも生活費のほとんどが親父に使い込まれてしまう。酒代になって消えていく。オレが働くようになってから親父は自分の仕事もしなくなった。
そんなある日、親父はオレの貯めておいた貯金通帳と印鑑を持ち出して蒸発してしまった。
ああ、これで親父から開放された。本音はこうだったけど、心ってのは裏腹で喪失感に襲われた。
だから憎んだ。
弱い人間である親父を。
こうなったら松本にいてもどうしようもないと思ったオレは、親友の成田譲がいる東京へ出てきた。
何日間か居候して就職先を見つけ、その会社の用意したアパートに入った。
ところがこの会社は少ない人数ですべてを回しているものだから、余計な仕事が多くて毎日サービス残業を強いられる。
中国から輸入した食品を日本全国に卸すという仕事だったのだが、とにかく事務仕事が多くて毎日アパートに帰るのは深夜1時過ぎだった。
何度か疲労で体を壊したが、それでも必死で働いた。
もう誰にも頼らないで自分だけの力で生きていけるようになるために。学歴も経験もない自分が社会で生きていくためには必死になるしかなかった。
だから、オレは努力をしない人間や、甘えてだらしない生き方をしてるヤツが大嫌いだ。
蒸し暑い7月の上旬に、一年間働いた会社からボーナスが出た。ほんの少しの金だったけど、オレにとっては労働の代価であり社会から弾かれないで生きてこれた証だ。
だけど心は空っ風が吹いている。こんな金があったって、オレは全然幸せだと思えない。
たかが金だ。
いつものように深夜、終電が終わる前に駅に向かう。駅からすぐの高架下には、オレの大嫌いな人種がたくさん住んでいる。
浮浪者。
こいつらは働く気力もなく、努力もせず、社会から爪弾きにされたと思い込んでいる卑屈な奴らだ。
やってみなきゃわからないのにやろうとしない。
酒に溺れて、怠惰な毎日を過ごして、それを甘受している。そうとしか見えない。
やろうと思えば可能性は無限だってオレですら知っているのに、自分で可能性を潰して、誰もが耐えているものに耐えず、そのくせ被害者ぶってる。
大嫌いだ。こんな奴ら。
いなくなった親父を見てるみたいだ。オレだって一歩間違えばこうなるってのは知ってる。だけどそうならないように努力するから人間なんじゃないのか。
ボーナスを銀行で降ろしたその日のポケットには自分への小遣いとして2万円入っていた。
壁に無気力にうずくまる浮浪者を数人、横目に見ながら急いで歩いていた。
毎日思っていたのだが、この中に親父がいるかもしれない。いないとわかっていながら探したりしてた。
その日は、新参者の浮浪者がいた。
服装もまだまだマシで、髪もよく見かけるような浮浪者とは違って短く、垢にまみれていなかった。ただダンボールを敷いた地面に座り込んで、横に大きなバッグを置いているだけだ。
昼間に見たら少し汚いサラリーマン程度だろう。
オレはいつも頭に思い描いていた構想を、そいつにぶつけてみようと思った。
その浮浪者が見ているであろう地面まで足を踏み入れ、目の前に立った。ポケットの中の一万円札を出して。
ふたつに折った一万円札を放り出すようにしてそいつの目の前に落とした。
「拾えよ、乞食」
目の前の浮浪者はその一万円札をじっと見つめてる。
「この一万で工夫して生活をやり直すか、酒を買ってこのまま浮浪者を続けるか、首をくくるロープを買うか、好きにしろ」
そいつはオレを見上げた。顔は暗くてよく見えなかったけど、街灯の明かりが少しだけ届いてそいつの目を照らした。
茶色い光が見えたような気がした。
「オレは弱い人間が大嫌いなんだ。おまえみたいなヤツを見てると虫酸が走る。やり直す気がないなら死ねよ」
そう言ってシワだらけになった紙幣をそいつの前に落としたまま、一度も振り返らずに駅へ向かった。
そうしたことでオレは親父に対しての反抗をしたんだと思う。
だけど、あの暗がりの中で見た瞳は親父のものとはまったく違った。活きている目だ。
あんな目をしてるヤツがどうして浮浪者なんかやってるのかわからないけど、何かに挫折したのは確かなんだろう。
だけどそいつは二度とあの高架下には現れなかった。
やりなおしたのか、どこかへ行って浮浪者を続けているのか、それとも死んだか。
生きてようが死んでようが関係ない。あの一万円があいつの運命にどう影響するのか、知りたいとも思わない。
オレが嫌いな人種を見下げただけのことだ。
そんなことがあったのも忘れた1ヵ月後、同僚が過労死をした。
三日間の無断欠勤をしたのを訝しんだ上司が、オレを連れてそいつのアパートまで行った。そいつはオレと同期で入社して、オレと同じように毎日残業をして、アパートに一人暮らしをしている、オレとほとんど同じ生活をしていた。
ただ一個だけ違ったのは、そいつはオレみたいに体が丈夫には出来てなかったってことだけ。
大家に鍵を開けてもらってアパートに入ったら、そいつがベッドにスーツ姿で寝転がっている姿が見えた。すでに死体から死臭が
漂っていて、まともに息が吸えるような部屋ではなくなっていた。
いったいなぜ死んでいるのかわからなかったオレたちは警察を呼び、その場で簡単な検死が行なわれたのだが、検視官が出した
答えは『過労死』だった。
外傷もなく、病気だったという話も聞かない。そうなるとやっぱり会社での労働時間などを聞かれるもので、上司は正直に答えた。
それを聞いた人間は誰でも納得した。オレすらそうだ。
そいつはオレみたく自炊もできないから健康管理が疎かになっていたし、生真面目なやつだったから周りの目を盗んでサボるなんて思いもつかなったんじゃないだろうか。
言うなれば、生存するのが下手だったということか。
その後の話は詳しくは知らないが、そいつの両親がアパートを引き渡しに来た際に、大家から連絡を受けた上司が行って挨拶を
しようとしたら断られたとか、葬式にも参列できなかったとか、そんな感じのことだけはわかった。
あとは忙しくしてたから知らない。
で、オレはこんなんでいいんだろうか、って考えた。
譲は大学生だからオレと比べるのは間違ってるけど、同年代のヤツらが青春を謳歌してるってのにオレだけ毎日寝るのとメシだけ
のために家に帰って、土日は疲れ果てて眠るなんて不公平じゃないかって。
この道を選んだのはオレ自身だけど、もっと違う道を選んでもいいんじゃないかって思ったんだ。
だから今は他に就職できそうなところを探している。
とにかく、貧乏でもいいからまともな生活ができて、死ぬようなことにならない仕事をして、少しだけ心に余裕が持てる人生をしたく
なった。
あいつが過労死で死んだって時だって、オレは少しだけ悲しいと思った程度だったんだから。
土曜日に本屋で求人雑誌を買った。それから商店街で生活用品の買い物をした。毎日残業とはいえ、シャンプーもなくなれば
トイレットペーパーだってなくなる。
ついでにコロッケでも買って昼飯のおかずにしよう。そう思って肉屋に向かった。
ショーケースにはオレの好きなカニクリームコロッケが一個だけ残ってた。オバちゃんにそれと普通のコロッケとハムカツを頼もうとしたら、先にいた男がカニクリームコロッケ、とオバちゃんに言ってしまった。
最悪。最後の一個だったのに。
「チ」
「?」
舌打ちしたらそいつが振り返った。
どこかで見たことがあるような気がするが、たぶんこの商店街でなんだろう。
「どうかしたんですか?」
「いや、別に」
そいつは顔や体型に不似合いな作業着を着ていた。ヨレヨレの紺色の作業着には、たまに見かけるマークがワッペンになってくっついていた。
近所に出来る大型マンションを作り始めた建設会社のマークだ。どうやらそこの作業員らしい。
「あなたとはどこかでお会いしましたか?」
「さあ?この商店街じゃねーか?」
「そうですか…もしかしてカニクリームコロッケを…」
「ああ、いいんだ。オレが後から並んでたんだから」
「では遠慮なく」
そしてカニクリームコロッケはそいつの買った袋の中に。オレはコーンクリームコロッケにした。
「あの」
「まだいたのか?なんだよ」
「このへんに本屋さんはありますか?」
「ん、そこの電信柱から少しのとこにあるけど」
「ありがとうございます」
そんでそいつはそっちへ行った。オレは買ったばかりのコロッケを持って児童公園までやってきた。ペットボトルの蓋を開けてコーラを飲む。ついでだ。コロッケもここで食っちゃえ。
「おや、またお会いしましたね」
「あ、さっきの」
本当にそいつは本屋に行ったようで、本屋の袋を持っていた。それからオレと同じようにコロッケを出して、パンの袋も開けた。
隣りのベンチで。
「あんた、あそこのマンション作ってる人?」
公園から見える作りかけのマンションを指差して聞いてみた。
「ええ、そうです。まだまだ新人ですが」
「ふーん。なあ、作業員て面白い?」
「まあまあですね。悪くはないです。毎日体を動かして、健康的に生きてますから。けっこう自由もきくし楽しいですね」
「そっか」
オレも作業員やってみようかなあ。いくらデスクワークだからって毎日深夜まで残業よりは楽しそうだ。
未経験でもできるみたいだし。
しばらく黙ってたらその男は本屋で買った本を出して読み出した。経済の本だ。
「なんでそんな本買ったんだ?作業に関係あんの?」
「ありませんよ。ただ気になってしまって」
「気になるって…」
「少し前まで証券アナリストをしてました。毎日毎日寝る時間もなくて、仕事場に泊まりこんで、平均睡眠時間は2時間から3時間。
それと食事以外は仕事をしてました。そんな毎日に疲れて辞めたんです」
「でもまだ経済は好きってわけか」
「気になっただけです。好きではないと思います」
そうだ。そうやって人間は好きでもない仕事をして、我慢して生活をする。オレだって今は好きでもない仕事をして、やりたくないことをやって、下げたくもない頭を下げて生きてる。だけどそれって人間が生きていく上では絶対なんじゃないだろうか。
「じゃあさ、作業員の仕事は好き?」
「どちらかというと好きです」
「経済よりも?」
「ええ。あんなの、仕事ではありません。あれは…そう、歯車です。私と言う人間が経済という大きな機械の歯車になって擦り切れるまで動く、そんな感じでした」
で、貯金も寂しく、こうやって肉体労働ってわけか。
「生きるって、大変だよな」
「そうですね」
「ま、オレには守る人間なんかいないだけ楽なんだろうけど。奥さんや子供、いるんだろ?」
「いませんよ。独身です。バツイチでもありませんよ」
こんなに男前なのにか?そうか、睡眠時間3時間じゃ誰かと恋愛も無理だったんだろうな。
オレよりキツイじゃんか。
その男の方を見てみると、買った本を真剣に読んでる。そんなに夢中になって読むなら実は経済が好きなんじゃないのか?
帰るか。
「じゃ、頑張って。バイバイ」
「あ!待ってください。お名前は?」
「は?」
「お名前です」
「なんで見ず知らずの人間に教えないといけないんだよ」
「そうですよね…ではアダナでもかまいませんから」
アダナなんか今まで一度も付いたことがない。だから教えた。
「高耶だ」
「高耶さん…覚えました。高耶さんですね」
「おまえは?」
「直江です。直江…下の名前は高耶さんと同じく伏せておきましょうか」
変なやつ。笑ってやがる。
「また来週にでもカニクリームコロッケ買ってくださいね。次回は私より先に来ないとないですよ」
「そうらしいな」
「はい」
別に直江が気になったわけじゃない。作業員のくせに経済の本を見てるのが気になっただけだ。
つづく
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