翌日は一日中泣きっぱなしだった。涙も声も枯れるほど泣いて、世界中で自分だけが不幸なんだって確信が持てるほど悲しくて、朝から晩まで、泣いていた。
直江って人間が自分の心のほとんどを占めているってことに今更気が付いた。
神様ってのがいるんだとしたら、なんて残酷なヤツだろう。
こうして誰かが悲しがるのを笑って見てるんだろうか。オレですらそんな真似はしないのに。
もう直江には会えない。会うどころかあいつの心の中から抹殺されてしまったんだ。憎まれていた時期の方がまだマシだ。
もうすでに直江の中にオレは存在しない。オレの中にはあいつがいつもいるのに、もうすべての感情を捨てられてしまった。
だけどいつまでもそんなに泣いてたって仕方がない。
だったらオレも直江に対しての感情を捨てるしかないんだ。オレは今まで強かったんだからこれからも強くなればいい。
また浮浪者に一万円を渡せるぐらい、冷たい強さを持てばいい。親父を許さない自分でいれば。直江を忘れる自分でいれば。
そしてまた会社で黙々と働くオレがいた。
毎日残業をして、疲れたって言ってる同僚を横目に見て、どこかでサボって、昔みたいなオレになった。
だけど土曜日が来るのが怖い。直江を思い出しそうでつらい。土日なんかなくなればいい。
土曜日、オレは死んだように眠っていた。昨日の晩にたくさん泣いたから。布団に顔を押し付けて大声で泣いていた。
いくら忘れるって決めたって、すぐに忘れられるほど簡単な恋をしたんじゃなかったんだから。人間て面倒だな。
ようやく起き出して腹が減ったと感じる。だけど食欲はない。
だらしなく布団の上でゴロゴロしてたらまた涙が出てくる。強いオレは幻想だったんだろうか?こんなに泣いたりして。
その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
ドアをノックする音。聞きなれた音だった。この叩き方は直江しかいない。
出るのが怖かった。
何をしに来た?謝ったのに許さないから、また何か言われる?それともただやりに来ただけ?
怖い。出たくない。
何度もノックをする。帰る気はまったくないようだ。オレが部屋にいるのをわかっててノックしてるんだ。
怖いのを追い越すほど、直江に会いたかった。
だからゆっくりドアを開けた。
「何しに来たんだよ。もう会わないって言ったのに」
「すいません…私も、謝りに来たんです」
「直江は何も謝ることなんかしてないだろ。オレが復讐されたのだって当然なんだし」
「…泣いてたんですか?」
「悪いかよ。泣いてたんだよ。おまえになんかわかってたまるか」
服の袖で涙を何度も拭いた。直江は玄関に入ってきてドアを閉めた。
「勝手に入るなよッ」
「ごめんなさい、高耶さん」
オレが涙を拭いていた腕を取って、引っ張る。そしたら体が直江に向かって傾いだ。
抱きとめられて、あの腕で、体を抱きしめられる。このままだと流されてしまいそうだ。
「何すんだ!」
「ごめんなさい。本当に。私もあなたが好きです」
「嘘つけ!」
「本当に好きです。話を聞いて」
「聞く話なんかあるもんか!何が好きです、だ!オレを振ったのはおまえのくせに!勝手にいなくなって、復讐なんかして!最後までオレを傷付けて、最後までせせら笑うつもりなんだろう!」
「聞いてください!」
怒鳴った直江が真剣な顔をしてたから、気圧されて黙った。でもまだ涙はどんどん出てくる。
涙をそのままにして、直江は今までにないほど真剣な顔でオレに向かって話し始めた。
「私がなぜあんな浮浪者になったかお話します。アナリストという仕事は先を見越せる能力がなくては務まりません。なのに私は浅はかな考えからたくさんの顧客に大損させてしまいました。自信過剰になってたんです。しっぺ返しが来ましたよ。示談にならなかったら刑務所へ行くような仕事をしたんです。もし起訴されたら終わりでした。示談になったからいいようなものの、金融業界にいられないほどの悪名が付いてしまって、何年もかかって貯めた貯金も、全部賠償金としてなくしてしまい、死んでしまおうと思って彷徨っていたんです。そこにあなたが現れました」
あの暑い夏の夜、オレはそんな男に金を渡した。死にたいと思ってるヤツに渡してしまったんだ。
「だけど恵んでもらった金を見て、私の過剰なプライドは傷付いた。こんな所で死んでたまるかと。良くも悪くもまだ自分に自信を持ってたんです」
もしも直江があの金で本当にロープを買っていたら、と想像して怖くなった。オレはあの優しい直江に出会えなかった。
そして何より、オレが誰かを殺してしまうところだったんだ。
「最初にあなたを見かけたのは、私が作業員になってすぐです。あなたが商店街で買い物をしていた。私を愚弄した相手とこんな所で再会できるなんて、と神に感謝したほどです。そして私は計画を練りました。あなたに近づいて、どんな手段でもいいから抱いてしまおうと。プライドをメチャクチャにしてしまおうと」
「計画どーりにいったわけだ…良かったじゃねーかよ…」
「だけど計画通りに行くものではない。あなたと時間をかけて会ううちに、知らずにあなたを愛した。だから最初、あなたを抱けなかったんです。あの賭けはイカサマだった。そこまでしてあなたを抱いて、傷つけてやろうとしたのに、抱けなくて、自分に疑念を持ちました。このままじゃ復讐なんて出来なくなる。そう思って引越しを機に連絡を絶ったんです」
「そんなの信じるわけ…!」
腕を目一杯振り回して直江から解放されようともがいた。だけどそんなのじゃ解放されるわけがない。
腕力で敵うわけない。
「本当はあれで終わりのつもりでした。だけどどうしてもあなたに会いたくて!会いに来てあなたの顔を見て愛してると言いたくて!
プライドなんか捨てて、あの日、あなたに縋り付けば良かった!愛してると、ひとりにしてごめんなさいと、そう言ってあのままあなたのかいなに抱かれておけば良かった!それが出来なかったのは私がただの弱い人間だからです…だから、返すつもりもない一万円をあなたに返した…そしてあなたを傷付けた…謝ります。ごめんなさい…」
そんなの、今更言われたって。どうにもならないくせに。
「怖かったんです…あなたに溺れる自分が。復讐をやめたとしても、偽名を使い続けるのかと考えたり、いつか綻びが出るかも知れないと思ったり…汚い男、弱い男だとバレるのが怖かったんです…」
「そんなの…」
たぶんそれを知ったとしても、オレは。
「ごめんなさい。もう私なんかを好きでいるのはやめてください。あなたはひどい人間ではありません。あなたが私に金を渡したのは、強くあれというメッセージだったに違いないのに、私はまるっきり間違えてました。ありがとう、高耶さん」
「直江…」
「これで本当に直江は消えます。あなたは許さなくてもいい。もう私に希望を見せないでいいように、私を憎んでください」
「そんなん無理だ…」
「無理じゃありません。憎む権利があなたにはあるでしょう?」
「そんなのない!オレは直江を憎まない!だって好きなんだから!今も、ずっとこれからだって好きでなきゃ壊れる!」
「こわれる?」
「自分が壊れるから、好きでいさせてよ」
「ですが…」
どうしても納得してくれない直江にキスをした。
「おまえは直江だ。橘義明じゃなくて、オレには直江だ。もう二度と、この腕から出ないからな!」
「高耶さん…」
「オレも愛してるから、だからずっとそばにいてよ」
ずっと止まらなかった涙は、やっぱりいつまでも止まらない。
「…いいんですか…?」
「うん」
「愛してます…。もう、あなたをここから出さない」
オレは安住の地を見つけた。そこはいつも暖かくて、力強くて、完全無比な場所だった。
オレも直江も弱いんだ。みんな弱い。だからこうして誰かを愛して、強くなろうと決めるんだろう。
直江がそばにいるだけでいいんだ。それだけでオレは強くなれる。
「高耶さん、名前を呼んでください」
「直江…」
「もっと、ずっと呼んでください。あなたは私を直江という名前に生まれ変わらせてくれたんです。だから、もっと」
「直江…!直江!直江!!」
「ありがとう、高耶さん…高耶、さん」
このまま直江に抱かれて泣こう。きっと直江は笑って言うんだ。
「愛してます」
って。
それからオレは直江が借りてるマンションに引っ越した。少しでも一緒にいられるようにしようって話し合って。
マンションは佃島ってとこにある高層マンションで、オレの会社にも直江の会社にも近い。買い物は物価が高くてイマイチだけど便利だし、景色はいいし、何よりも直江と一緒にいられるのが嬉しかった。
日本の経済界から総スカンを食らったのに、どうしてまた証券会社なんかに戻れたのかを聞いたら、昔の同僚が今の会社に直江を推薦したらしい。外資系だからそこらへんは融通も利いたって。
直江は職業柄、家に帰って来ない日もあるけど、そんな時は絶対に連絡がくる。ちゃんと。
帰ってきても数時間寝て、そのまままた会社に行くって感じの平日だ。オレも直江とあんまり変わらない生活だから、そんなに苦痛
じゃない。
そして土日は一緒にいてくれる。それだけでもいい。直江もそう思うって。
だけどあと数年働いたら転職か配置換えをしてもらうんだなんて言ってる。
アナリストってのは10年も働いたら億って金を貯金できちゃうんだって。まあ、本人の能力次第らしいけど。
だから生活を立て直すだけ働いたら、あとはのんびり働きながら暮らしましょうとさ。オレと一緒にいる時間がもっと欲しいからって理由だから許す。
そんで直江と約束したことがある。
人には出来るだけ優しくしましょうねって。
優しくってのは施しをするとか、励ますとか、親切にするとかだけじゃなく、時には厳しくしなきゃいけないって意味もある。
ただ絶対に思いやりを持ってするように、って。
それはオレたちの間でも同じだ。
それと親父を探すこと。
どんな親でもオレにとっては親なんだから、探して、立ち直らせなきゃって。
親父が弱かったら、強くなってもらえるようにオレがしなきゃいけない。直江も手助けしてくれる。
今のオレは、弱い人間が嫌いだって考えはない。
誰だって弱いんだから。
でも強くあろうとしなきゃいけないとは思う。誰か好きな人を思いやるために。
直江と恋をして良かったって、本当にそう思う。
オレがそこまで誰かを愛せるってわかったのは、けっこうな出来事だ。だって誰も信用してなくて、何の感情もなく付き合ってたのに。
直江と暮らすようになってわかったのは、直江も案外ああ見えて嫉妬深いってことだった。
二度と風俗なんかに行くなとか、愛してるなら毎日そう言えだとか、自分でするな、とか。オレの手にまで嫉妬してた。
本当はピンサロに行った話を聞かされて、狂いだしそうなほど怒ってたそうだ。
直江に求められる。オレも直江を求める。
そうやって小さな天秤に愛情って名前の錘を二人で乗せて、均衡を保って、すべてを育んでいくんだろう。
もう二度と間違えない。
直江がいるから。
END
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