最初のうちは風邪を引いたから行かれないとか、急に日曜も作業をしなくちゃいけなくなったとか、ちゃんと理由があって謝りながら電話もかけてきてくれたのに。
そのうち電話はあっても理由を聞かせてくれなくなって、電話もなくなって、オレは捨てられたんだなって思った。
そういえば直江んとこの電話番号は最後まで教えてもらえなかったし、下の名前も教えてくれなかった。
直江、なんていうんだろう?
オレは平日は会社へ行っていつも通りに働いて、深夜に帰る。輸入がうまく行ってからは前みたく毎日深夜まで残業ってことはなくなったんだけど、それでも遅いことは確かだ。
家に帰ると留守番電話ランプを見て、携帯も何度も見て、直江からの連絡を待ちながら悲しい気分になる。
直江が置いていった服はキチンと畳んで押入れに入ってる。たまに引っ張り出してきて、匂いを嗅ぐと懐かしい思いが押し寄せてきてまた悲しくなる。
直江との連絡が途絶えて、何度目の土曜になったんだろうか?もう年を越してしまった。
まだ暑い公園で一緒にコロッケを食ったのが嘘みたいだ。
毎日直江を思い続けて、そんな雪のある日。土曜日の夕方。
ドアをノックする音がした。
ほとんど諦めていたオレは、かったるいなーって思いながらドアを開けた。
そこに、オレの恋焦がれた直江が立っていた。笑顔で。
「なおえ…」
「こんばんは。高耶さん」
「なおえ?本当に直江?なんで、今まで…。あ、あの、入って」
「いえ、ここでかまいません」
直江は今まで見たこともないスーツ姿で、髪型もちゃんとしてて立派なビジネスマンみたいだった。
忙しくてオレのこと忘れてた?それとも事情があって?病気とかしてて?今までどうして来なかった?
聞きたいことはたくさんあるのに、言葉が出なかった。
「今日はあなたに返すものがあってここに来ました。これです」
そう言って一万円出した。
「そんなの、貸してないぞ」
「貸したんじゃありません。恵んだんです」
「え?」
もうその時の直江の顔は、前の優しい笑顔じゃなくなっていた。凶暴な、獣の顔だ。
「どんなつもりでこれを恵んだのかわかりませんが、あなたは私にひどい事を言った。死ね、と」
「そんなの…」
「言ったつもりはありませんか?よく思い出してください。暑い夏の夜、高架下で」
そこまで言われて思い出した。暑い夏の夜。高架下で。オレは。
「もしかして、あの時の」
「ようやく思い出しましたか。あなたは人間の命や尊厳を何だと思ってるんですか。確かにあの日の私はあなたが軽蔑するような人種だったかもしれない。だけど、あんな言い方は人間として最低だ。悔しかったけれど私はあなたの一万を使って電車に乗り、作業員の職を得られる場所まで行きました。生きるための当座の食べ物も得ました。だけど救ってなんかいない。私があなたから受け取ったものは怒りです。どこの誰だかわからない人間にあんなことを言われて、悔しくて、怒りに狂って、それで今まで生きてきました。あなたに会えたのは運命だと思いますよ。やっとあなたの尊厳を奪う機会を神が与えたんでしょうね」
「なんでそんな!」
じゃあ、今まであったことは?オレを好きだって言ったのは?全部、全部、嘘だったのか?
「私がいなくて寂しかった?弱い人間をいたぶるのはあなたのお得意でしょう?あなたを陥落させて、私の虜にして、その私がいなくなったらどれだけ寂しがるか、とても楽しみにしていました。ほら、その顔。泣き出しそうな顔ですね。弱い人間は私も嫌いなんです
よ。でも、人に対して優しさの欠片も持たない人間はもっと嫌いだ。あなたのようなね」
今まで、直江は、オレに復讐するために優しくしてた?
「傷付きましたか?死にたいぐらい?だったらその一万円で首をくくるロープを買ったらいいでしょう?」
笑って言うセリフなのかよ、そんなの。
「土下座して謝ったって許しませんよ。私はあなたなんか嫌いですからね。許すも許さないもない。嫌いな人間を許すなんて心の広い男ではありませんから。でも、あなたのセックスは好きでした。強がる人の弱い表情はたまらなく官能的で、好きでしたよ。あなたさえ良ければ、私とまたしますか?何度だってしてあげますよ」
「てめえ…」
「憎んでください。私と同じぐらい、憎んでください」
「消えろ」
「ええ。消えます。あなたと一緒にいるのなんかセックス以外御免です」
冷たく言い放って、直江はアパートから去って行った。
オレは本気で泣いた。生まれて初めて、本当に泣いた。愛されてるって勘違いして、直江をすごく好きになった自分が腹立たしくて、あんな復讐されて、それでもまだ直江を信じたいって、好きだって思ってる自分が、とても嫌いになった。
翌週土曜、オレは直江が働いてたマンション工事の現場へ行ってみた。もう完成間近で直江の建築会社の人がいるかどうか不安だったけど、行ってみたらいたから聞いてみた。
直江に謝りたい一心だった。やり直せなくていいから謝って、許してもらえなくてもいいから、話したかった。
直江がいたから、オレは人間として少し成長したんだって言いたかった。
一週間、ずっと考えた結果だ。
「あの、直江って人がここで働いてたはずなんですけど」
「直江か?なんでそんなこと聞くんだ?」
「えっと、その、お金を借りてて、返さなきゃいけないから…」
「それがなー、あいつ次の現場で1ヶ月ぐらい働いたら辞めちまったんだよ。給料も貰わずにさ。それであいつの実家に電話したら、直江じゃなくて橘って家で、そんな名前の息子はいないってんだよな。まあ、こういう週雇いの現場じゃたまにあることなんだ。偽名ってのか?そーゆーの」
偽名…。そういえばあいつ、傷つけた人たちがいるって、逃げ出したんだって言ってた。それと関係あるのかな?
「あの、橘さんの電話番号ってわかりますか?」
「でも他人の家だったんだぞ?」
「たぶん、それが直江の本名なんだと思うんです。お願いします、教えてください」
袖の下、というやつを掴ませて教えてもらった。その人は現場監督で、直江の給料を渡す役目もあったから携帯に残ってた通話履歴を出して教えてくれた。
「すいません。ありがとうございます!」
謝りたい。どうしても。
橘さんの家に電話をしてみた。
30代ぐらいの男の人が出て、話し方や声が直江にソックリで確信した。
「あの、オレ、仰木高耶って言うんですけど…直江って人と知り合いで、どうも偽名だったらしいですけど、その…」
「前にもそんな電話があったんですけどね。失礼ですが、その直江って方とはどんなご関係だったんですか?」
「友達、です。あんまり自分のことを話してくれなかったけど、仲良くしてました」
「そうですか…何度もこんな電話があると疑いが出てくるな。実は、弟が一時失踪してたんです。今はもう連絡も取れてるんですが
その間は何をしてたのか全く話してくれない。たぶんその間、直江と名乗っていたんじゃないかと僕は疑ってました。母は義明がそんなことをするはずがないって取り合ってくれないんですけどね」
義明。橘義明。
「もし本当に義明で、そちらにご迷惑をかけたとしたら謝らなくてはいけませんね。えーと、直江、さんの特徴なんかを教えてもらえますか?」
「はい、えっと、背がだいたい185センチ前後で、髪の毛が茶色くて、目も茶色くて、話し方がいつも丁寧で」
「以前の職業がどうとかって言ってませんでしたか?」
「言ってました!証券アナリストだって!!」
その男の人は、ああ、と溜息をついた。
「それは義明ですね…写真をお送りして確認していただきたいんですけど携帯のアドレスを教えてもらえますか?」
「はい!」
電話を切って数分すると写真が添付されたメールが来た。直江の写真だった。
確認してすぐ、また橘さんに電話をした。
「今の写真が直江です!あの、今いる場所って教えてもらえませんか?」
「それが…わからないんだ。家も引き払っていて、新しいマンションをまだ教えてくれなくてね。携帯ならわかるが…」
携帯を教えてもらって、お礼を何度も言ってから電話を切った。
そして教えてもらった携帯にかけてみたけど、着信拒否になってた。オレからの電話を拒否してる?
てことは?もしかして、まだオレの番号を覚えていて、新しく持った直江の携帯に入ってるってこと?
でも、もう会える手段はほとんどない。これ以上、橘さんに迷惑もかけられない。
「なあ、高耶。もしかして、その直江って人のことわかるかもよ?」
ヒマになった土日に、譲のマンションで過ごしていた。
譲の家に置いてあるデスクトップのパソコンでゲームをして遊んでた時に、突然譲が言い出した。
「わかるって、なんで?」
「証券アナリストって、たまに講義みたいのを開くんだ。もしかしたらそのインフォメーションが出てるかもよ?」
「マジかよ!」
「検索してみるね。ちょっと待ってて」
譲が直江の本名、『橘義明』と『証券アナリスト』と入力した。
そしてなんかどっかをクリックしたら、出てきた。
「えーと、開催は日本橋の証券会社だね。たぶんここの社員なんじゃないかな?開催日は今月の11日。どうする?」
「どうするって…」
「金借りてるんだ、なんて、そんなの俺、信じてないから。高耶が必死で探す相手なんか、お父さんじゃないなら誰だって感じなんだけど?」
わかってたのか…隠しても仕方ないな。
「会社の中には入れないと思うけど、待ち伏せぐらいは出来るんじゃない?それにここのビルって待ち伏せしてても目立たないよ」
「なんで?」
「去年新しくオープンしたファッションビルでもあるからね」
「うん。行ってみる」
会社を二日間有給で休んで、日本橋まで出かけた。開催は午後2時から。何時間やるのか知らないけど2時から張ってればいつか
出てくるところを捕まえることが出来るかもしれない。ダメなら明日だっていい。
入り口を探してみたら裏口と表玄関があった。だけど裏口は搬入にしか使われてないから、たぶん社員は駅が近い玄関から出てくる
に違いない。
ファッションビルへの入り口と、その玄関は繋がっていたから寒さを避けるためにビルに入った。そして出てくる人間に神経を集中させる。直江は目立つからきっとわかる。いや、オレなら絶対にわかる。
夜の6時になったら何人かまとめて出てくるようになった。きっと退勤時間なんだろう。
それからさらに待った。ファッションビルは閉店になってしまって、オレは缶コーヒーを買って外のガードレールに座って待った。
深夜2時すぎ。
品のいいトレンチコートとカシミヤのマフラーをした背の高い男がエレベーターから出てきた。だいぶ疲れた顔。
ほら、オレならすぐにわかるんだ。あれは直江だ。
暗い歩道にオレがいるなんて考えも及ばなかったんだろう。タクシーを捕まえるために大通りに向かって進路を変えた。
「直江」
もう通行人もいない暗い歩道で呼び止めた。
ビクンと肩が揺れて、振り返らずに立ち止まった。
「直江」
もう一度呼ぶと、ゆっくり振り返った。
「…何をしてるんですか?」
「会いに来た」
「復讐の仕返しに?」
「違う…ただ、謝りたくて…ひどい事をしたって思う。死ねなんて最低だった。ごめん。わからせてくれて、ありがとう」
オレの真意を探るような目で見てる。だからもう一度頭を下げて謝った。
本当は会いたかっただけ。謝るなんて口実で、会いに来ただけ。そうしてもう一度、名前を呼んで欲しかっただけ。
「…じゃあ、帰るから。もう…直江の前には現れない。さようなら」
「…ええ。さようなら」
迷いのない仕草で直江はまた大通りに向かって歩き出した。まだ名前を呼んでもらってない。まだ。
「直江!」
今度はすぐに振り向いた。
「ごめん!まだ好きだ!お願いだから最後に名前を呼んでくれ!」
「……………」
「名前を、呼んで…」
下を向いたら直江がいなくなる足音がした。コツコツってゆう革靴の音。目を瞑って耐えた。泣くのを耐えた。
「…高耶さん…」
オレの頭の上で、直江の声がした。オレを呼ぶ声がした。
「そのままで聞いてください。あなたを許さないと言ったのは本気なんです。謝ったって許しません」
うん。わかってる。
「さようなら。高耶さん」
「…うん…」
今度は本当に遠ざかる靴音。オレは顔を上げられないまま、その場に座り込んだ。それから誰もいないのをいいことに泣いた。
このまま泣いてたらきっと涙の海に溺れて死ぬんだ。だったらそれでいいじゃないか。直江を思って泣く涙で死ねるなら。
だけどそんな海はできなくて、疲れて冷え切った体を起こしてしばらく歩いた。
皇居が見える。そこの木々に月がかかってた。満月で、大きくなった月がバカみたいに光ってた。
つづく
|