日曜日、直江はずっとオレのそばにいた。
二日間もマンションを空けるなんて仕事以外では初めてだと言っていた。そういった小さい出来事ですら嬉しく思う。
パジャマのまま朝食を食べて、リビングで寄り掛かりあう。薄曇の空から放たれる緩い光が窓から差し込む中、音は外の道路に車が走る音だけ。タイヤが地面を転がる音と、車の排気音。それすら心地いい音楽みたいだった。
「お正月、どうしますか?」
「んーと、29日から行けるようになってるんだ。管理人さんに掃除だとか買い物だとか頼んでもらった。直江はいつまで仕事?」
「29日はまだ東京にいなくてはいけないので、30日から明けて3日までが休みになります。高耶さんは29日から休みですか?」
「うん。そんで5日まで休み。じゃあさ、30日から出かけられるよな?」
「ええ。3日の日に戻ればいいと思いますよ。正月休みは全部、あなたに差し上げます」
たったの数日間だけど、誰にも邪魔されずに、誰にも直江を見せずに独占できる。待ち遠しい。
どうしてこんなにこの男を独占したいんだろう。優しいから?親近感があるから?そうじゃないよな。きっと、たぶん、肩書きも何もなくてもオレをひとりの人間として愛して、認めてくれた初めての人だからだ。
蝶番でもなく、橋渡しでもなく、飛雀鉄鋼の御曹司でもなく、『高耶』という人間だけを見てくれたから。
直江に別荘の地図が載ったメモを渡した。そこは携帯が通じないかもしれないから電話番号も書いてある。
「別荘の近くって何もないけどいいかな?夏だったらテニスだとかゴルフだとかできるんだけど」
「あなたと5日間、ずっと篭ってたいんです。煩わしいことも全部忘れて、たくさん話をして、ずっと触れ合って、キスをして」
「マジで?そんなのでいいのか?」
「あなただってそう思ってくれてるでしょう?」
「……まあな」
猫にやるようにオレの首を撫でて、その手をゆっくり耳までスライドする。くすぐったくて首をすくめると囁いた。
「5日間、私の声だけ聞いて、私の姿だけを見て、私の体温だけを感じてください。あなたを独占するからにはそのぐらいしなくちゃね」
「おまえもな」
「もちろんですよ。あなたしかいない世界なんて、素晴らしすぎます」
キスをされてソファに寝かされた。まだセックスはできない。だから直江は優しくキスをして、オレの体をずっと撫でてた。
ただ愛しさだけで手のひらで体温を感じる直江は穏やかで、いつもみたいな少年のようで純粋だった。
愛していますと言いながらオレの心臓の鼓動を聞く。オレを動かす心臓を、こいつは安心して愛する。
「高耶さん」
「ん?」
「高耶さん」
「なに?」
「高耶さん」
「……直江」
どうしても離れられないこの男は、本当は一番オレから遠いところにいたなんて、その時は誰から何を言われても信じなかっただろう。だけどそれは確実に、オレたちの間にあったんだ。
年末も差し迫ったある日、オレは親父からの内線で社長室に呼ばれた。いつもは会社に出てこない爺さんまでいた。
「座りなさい。話がある」
「何?あんまり長くはいられないんだけど」
「手短に話す。来年度からおまえを海外事業部に移すことにした」
急に言われた言葉に一瞬呆気に取られた。海外事業部だって?
「海外って……」
「いや、海外事業部なだけで本社勤務だ。ただ海外には年に何度も行くようになるとは思うが」
直江と離れ離れになるのかと不安になったんだけど、本社勤務だったら大丈夫だ。日本にいさえすればいつでも会える。
「おまえにはそこの技術協力パートの主任補佐に入ってもらうんだが……」
技術協力パートっていうのは、今やってるのを例に挙げると、飛雀鉄鋼系列の土木工事をする会社だとか、本社の開発部門だとかの総管理をする部署だ。土木って言っても海外でのことで、水の少ない国で井戸を掘るとか、石油の産出国でのパイプ工事だとか、そういう会社や本社の部門を支援しに行くパートだ。そこでする支援は我が社の製品の鉄を使ってパイプの制作をしたり、井戸を掘るボウリングマシンを作ったり、大まかに言うとそんな感じ。
とにかく製品を開発しによその会社に出向く部署だと思えばいい。
「で、今度はどこに進出すんの?」
「アメリカだ」
「アメリカ?そーいやこの前父さんが行ってたっけ。電気会社か鉄道会社?」
「いや。航空機だのを作る民間企業なんだが」
「ボーイングみたいな?」
「そうだ」
そこに技術協力に行くらしいんだけど、話を聞いてるうちにどこかおかしいって思うようになってきた。
いつもの親父の話し方じゃない。それに爺さんも渋い顔をしてる。
「この間、うちの新開発の鉄を買うと言ってくれた会社なんだがな……極秘扱いだからメンバーの身上調査があるんだ。そこで高耶に聞きたいことがある」
「うん、なに」
「おまえの知り合いや友達に反戦活動をしてる人間はいるか?」
「え?」
直江とのことがバレたのかと思ったんだけど、そうじゃなかった。
「実はこっちでもおかしいと思って調べたんだ。その民間会社をな。そうしたら顎が外れるほど驚かされた真実がわかった。民間会社というのは登記はしてあるが本来ダミーで、その会社を実質的に運営してるのはアメリカの軍部だった」
「……軍部……?」
「ああ。もうすでに契約を取り交わしてしまったから行かざるを得ない。技術協力とは名ばかりで、要は軍事のための開発をしに行くようなものだ。……しかも、爆撃機のな」
「なんだって?!」
「これを破棄したら多額の賠償請求が来るだろう。そして経営も危うくなる。米軍を相手に訴訟など起こせないし、起こしたら起こしたで圧力がかかって、うちの海外事業部は全滅するだろう。国内でも怪しいもんだ」
米軍に技術協力……しかも爆撃機。直江が一番憎んでる戦争に加担することになるのか?オレが?このオレが?!
「オレを外してくれ!そんなのできない!」
「聞きなさい、高耶。向こうには名簿はまだ提出していない。しかし名前が必要だ。おまえのような、この社を代表できるような名前を持つ人間を寄越せというのが条件なんだ。私や会長は行かれない。だからといって上役や親族を出すのも我が社にとっては危険なんだ。そうすると、おまえしか残らない」
「ダメだ!どうせ身上調査で外される!反戦活動してるやつが友達にいるんだ!親友なんだよ!裏切れない!」
「……もう会うな」
どうして!!どうしてオレたちがこんなことで引き裂かれなきゃいけないんだ!!
「嫌だ!!」
「高耶。今のおまえの肩にはグループ会社3万人の命運がかかってるんだ。その家族を路頭に迷わす気か?」
「オレの人生はどうなってもいいっていうのかよ!」
「そうじゃない。これが成功すれば、いや、無事に終わればそれだけでいいんだ。その後でまた……」
「ダメなんだ!後なんかない!出来ない!」
その時、爺さんが黒皮の重厚なソファから立ち上がって、オレの目の前まで杖をついて歩いてきた。
そしてオレに土下座をした。一度もオレに甘い顔をしたことのない爺さんが。政治家ですら頭を下げる爺さんが、オレに。
「頼む、高耶」
オレはその丸まった背中を見て、どれだけ自分に重いものが乗っているのかを初めて悟った。
それからのオレは抜け殻だった。まだ直江には話せてない。
身上調査をするための名簿提出期限は年末で、まだ猶予がある。だけどアメリカなんかのキリスト教圏では正月はすでに休み明けで、どの会社も通常通り機能してるはずだ。年明けに直江と別れたんじゃ調べられてしまう。
いまのうちに別れておかないと。
「……やさん…」
頭の中ではわかってた。だけどどうしても心がついていかない。
「高耶さん」
「あ?」
「久しぶりのデートなのにどうしたんですか?上の空で」
「いや、なんでもない。……仕事で、ちょっとな」
「そう……無理はしないでくださいね。来週は旅行なんですから。今から楽しみで遠足前の子供みたいに眠れなかったりしてるんですよ」
旅行も断らないといけないのに。言えない。
「直江」
「はい」
「オレが……もし、いなくなったら、どうする?」
「え?」
「おまえと二度と会えない場所に行ったら、どうする?」
「会いに行きますよ。当然でしょう?」
会社を捨てても出来るか?そう聞くことはできなかった。
「世界の果てまで追いかけます」
直江の肩にも社員の命運がかかってるんだ。オレと同じように、その社員の家族も、そして取引先の人間や、その家族も。
「追いかけてこなくてもいいからな。そんなことさせられないよ」
「高耶さん?」
「なんでもない」
どうしたらいいんだ。助けてくれ。直江。
直江がそれを知ったのはいつも直江がいるオフィスだったそうだ。定時の6時を過ぎてもいつもと同じく残業をしてたときに。
千秋がよく使ってるっていう外部のハッカーがいて、そいつが千秋にある資料を売った。
「直江、コレ見てみろよ」
「なんだ?」
「いいから、いいから。すっげースクープだぜ。前からおまえが疑ってたやつが決定的になったんだ」
そう言って千秋が直江のPCに薄い小さなSDカードを差し込んだ。
そして開いたアプリケーションで見えた表には、飛雀鉄鋼海外事業部アメリカ技術派遣の内容と、それに携わる人間の名前が載っていた。
「背景はわかんねーけど、飛雀鉄鋼が米軍の技術開発に協力するってことらしいな」
「なるほどな。民間会社との取引になってはいるが、実質米軍に加担するわけか。時期を見てこれをサイトのニュースに出すか、出す前に飛雀鉄鋼に行ってこちらの意向を聞いてもらうかだな」
「とりあえずウチの会社は反戦で動いてるようなもんだから、先に飛雀鉄鋼に抗議しに行くのが筋かもな」
「ああ。あとは計画通りこちらのNPO団体に情報を漏らして……ちょっと待て!!」
直江が驚いたのは言うまでもなく、オレの名前があったからだ。
ただしこの時点では直江はオレの勤め先も知らなければ、名字すら知らない。高耶って名前だけを知ってただけだが、それで充分だろう。高耶なんて名前はそうザラにはない。
「仰木……」
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
仰木。それは飛雀鉄鋼の親族の名字だ。しかも直系だ。直江の頭の中はそれだけで真っ白になった。
「悪いが今日はこれで帰る。あとは任せた」
「ああ。わかった。で、この件は?」
「まだ誰にも漏らすな」
直江はSDカードを抜き取って、その足でオレの家に来た。12月27日のことだった。
つづく
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