千秋から情報を聞いた直江がオレのマンションに来たのは午後9時を回ってからだった。
いきなり電話で「今から行く」とだけ伝えて、30分もしないうちに来た。
どうにか直江に別れを切り出さないといけないと考えてたオレは、これが最後の機会だろうと思って言うつもりでいた。直江に何を聞かれても答えずに、ただ自分がもう直江とは付き合いきれないって、嘘を付いて、嫌われるように仕向けるつもりだった。
ところがそうはいかなかった。直江は入ってくるなりオレの前に立ちふさがって見下ろした。
「高耶さんに、聞きたいことがあって」
「なんだ?」
いつもと違う直江の強張った顔に嫌な予感がした。
「あなたの名前って、仰木高耶というんですか?」
「うん、そうだけど、言ってなかったか?」
「じゃあ、飛雀鉄鋼の御曹司ですよね?」
その時のオレは直江に本名を言ってなかったのを忘れていた。だから御曹司と言われてもただそれだけが気になってるんだと思ってただけだったんだが。
「どうして私に近付いたんです?」
「え?」
「私が反戦活動をしてるのを知ってて、それでも近付いた理由はなんですか?何か裏があるんですか?」
「なんのこと……」
「正直に答えて。あなたに愛されてるのを信じてるんです。だから」
ああ、もう直江はあの計画をどこかで知ったんだ。それで、オレが御曹司だってのを知って、あの計画に参加してるのも知ってて……。
「裏なんかないよ。直江をただ好きなだけだ。何も、それ以外は何もない」
「どうしたらいいんですか?私たちはどうしたら……」
「たぶん、もう、どうしようもない。ごめん。別れるしかない」
「あなたは……!!」
「おまえだったらわかるだろう?!オレの事情で社員を路頭に迷わせるなんて出来ないんだ!誰も裏切れないんだよ!親父だって爺さんだって好きで決めたわけじゃないんだ!」
その言葉に直江は悲しい顔をして黙りこんだ。直江だからわかるはずなんだ。
「ごめん。年が明けたらすぐに身上調査が入る。だからもうおまえとは会えない」
「そんな……こんなことで……こんなことで引き裂かれるんですか?!私のしてきたことのせいであなたと二度と会えないんですか?!互いの信念を曲げられないことで、私もあなたも傷つくんですか?!だとしたらどこに正義があるんです!!」
きっと正義なんかないんだろう。戦争にそんなものはない。
「もう帰ってくれ……このままでいたら……何もかも捨てたくなる。何万人の生活を犠牲にしてでも直江と逃げそうになる……だからもう帰れ。帰れ!」
「高耶さん!」
「愛してるのに!」
直江はオレを強く抱きしめて、このまま抱き殺してしまいそうなぐらい強く抱いて、涙の混ざったキスをして、帰って行った。
もう二度と会えない。会えない。愛してるのに。
気持ちの切り替えがなかなか出来なかった。ここずっと直江のことだけを考えていたから。
もう別れたんだ、会えないんだと自覚をしたくて、予定していた別荘にひとり、マーチに乗って向かった。
思ったよりも雪が少なくて、スタッドレスのマーチは一度もふらつかずに別荘に到着した。
管理人に頼んでおいた通りに掃除も行き届き、食材も冷蔵庫と外の倉庫に充分入っていた。
1日目。ここにいるはずの直江の姿を思い浮かべては泣く。だけど涙は出ない。涙が簡単に出るほどの自覚がまだないのかもしれない。
このままじゃいけないと思って自分で食事を作って食べて、玄関の雪かきをして体を動かして、ヒマをもてあましてテレビを見て、本を読んで。だけど何をしていても直江を思い出す。よく考えてみたら今日履いてきた靴は直江に貰ったスニーカーじゃないか。
どうしても直江と自分を切り離して考えることなんか出来なかった。
2日目。眠れなくて明け方までまんじりとしていた。雪が多く降ったようで外は真っ白になっていた。また雪かきをしなきゃいけない。少しだけ眠って外に出て、雪かきをした。直江に貰ったスニーカーがびっしょり濡れた。
昨日と同じように過ごし、夕方になった。吹雪いてきて真っ暗になって、部屋からは何も見えない。吹雪が窓を揺らす音だけしかしない。
もう忘れよう。直江とは元々何もなかったことにしよう。あれは幻だ。
自分の記憶を操作しようと試みて、少しだけラクになった時、リビングに呼び鈴が鳴り響いた。管理人が吹雪を心配して来てくれたのかと思って、玄関のドアを開けた。
「高耶さん……」
そこにいたのは幻の直江。
「高耶さん」
いや、違う。本物の直江。
「きっといると思って。やっぱりどうしても理解できなくて、自分を押し殺しても何をしてもダメで」
何を言ってるんだろう。
「電話をしても繋がらないから、きっとここだろうって思って、会えなくてもいいから明かりだけでもいいから見たくて」
吹雪が玄関から家の中まで入ってきてる。冷気が入る。
「高耶さんに会いたくて」
直江がいる。目の前にいる。直江が。
「もう何も考えられなくて……!!」
少年のように泣き出したそいつはオレを抱いて、大粒の涙を零し、嗚咽した。
背中を抱いて。そう聞こえたような気がした。
だからオレは大きな背中を、コートの上から爪を立てて抱いた。
暖炉の形をしたストーブの前で、直江がオレにキスしている。何度も何度も優しく確かめるキスをする。
オレはおまえの腕の中にいるから。そう言っても直江は安心しなくて、オレがそこにいるのを確かめるためにキスをして、もっと腕の中の感触を強いものしようと抱きしめる。
背骨が曲がりそうなぐらい強く抱くから苦しくて押し返すと、ビクッと震えて悲しい顔をする。
直江は狂ったんだろうか。そう思わせるほど怯えていた。
「直江。大丈夫だから。ここにいるから」
「だけどあなたはいなくなるんでしょう?私からいなくなるんでしょう?」
いなくなるんだよ。すぐに、この時間も終わりになる。
「だけど今はいるから」
「ずっと吹雪いてしまえばいいのに」
「……そうだな」
直江がこんなに激情するとは思わなかった。まるで子供だ。
だけどオレは直江がこんなだって、知ってたと思う。いつも少年みたいだったから。
玄関のチャイムを鳴らした直江の体はとっくに冷え切っていた。抱いた時にわかった。
車で到着してから数時間、車の中にいたらしい。吹雪でまったく気が付かなかった。
それから車を出て、コートに雪を積もらせながら数十分、窓の明かりを眺めていたそうだ。オレの影がチラつくから、どうしようもなくなってチャイムを押した。追い返されてもいいから一目会っておきたくて、と。
冷え切った体を温めるためにストーブの前に直江を連れていって、コートを脱がせて温めた毛布をかけたんだけど、直江の震えが止まらないから抱きしめた。直江は大きく息を吸って、オレの匂いを嗅いで、ようやくキスをしてきた。
「まだ震えてるんだな。あったかいもの飲むか?」
「離したくないんです」
「だから大丈夫だよ。こんな吹雪じゃ外になんか出られない」
直江から離れてキッチンへ。牛乳を小さい鍋で温めてカップに入れる。きっと腹も空いてるだろうから、さっき作った野菜のスープにも火をかけた。
少しぬるめのホットミルクを飲ませると、直江の頬に赤味がさした。
「腹、減ってるよな。スープとパンしかないけど食うか?」
「ええ」
立ち上がって用意をしようとしたら、直江も毛布を被ったまま立ち上がってついてきた。
そうしてオレの背中に張り付きながら、皿を出したりして用意をしてるオレのそばを離れようとしなかった。
「メシ食ったら風呂入れ。ちゃんと芯からあったまんないと風邪引くぞ」
「高耶さんは?」
「オレはもう入ったから」
前にしてやったのと同じに、下りた前髪に指を絡ませた。茶色い目がキッチンの明かりに照らされて明るく光る。
「閉じこもっていよう」
「はい……」
「直江はオレのものだ」
「高耶さんは私のものです」
今だけは。
わかってるけどお互いに言わなかった。オレは直江のものだけど、直江だけのものじゃない。わかってるんだけど。
熱いスープと、焼いたパンをテーブルに出して直江を座らせた。不安げにこっちを見るから隣に座って寄りかかって腰を抱いた。
いつも直江のそばにいるから。
そうとう腹が減ってたらしくてスープもパンもおかわりをしてたくさん食ってた。腹が膨れると声に力が戻った。
「急に来て、迷惑をかけてしまったみたいで」
「いまさらだな」
クスクス笑っていつものオレたちになった。だけど心のどこかが凍えてる。
着替えは管理人さんが用意してくれたものがあった。ひとりで来ることを知らせてなかったから、前に頼んでおいた男二人分の宿泊の用意がされてたのが使える。
だけど直江は風呂から出るとパジャマを着ないで、バスローブだけだった。
はみ出たふくらはぎは筋が固く引き締まってる。くるぶしがゴロっと出てる足首は細い。少しだけはだけた胸は弾力がありそうな胸筋が立派に浮き上がってた。
そして髪が濡れて、いつもよりも濃い茶色をしてた。
今まで見た中で一番セクシーな直江だった。
すでにパジャマとガウンに着替えてソファで音楽を聴いてたオレの隣に座って、肩を抱く。そしてキスをする。流れるのはバッハのアリア。静かな音楽の中で直江が静かにキスをする。
「なんでこんな曲を選んだんですか?」
「選んだわけじゃない。なんとなくだよ」
わたしを縛りつける罪の縄目から、
わたしを解き放とうとして
わたしの救い主が、縛り上げられてしまう。
わたしを、あらゆる悪の痛手から
完全に癒すために、
あの方みずからが、身に傷を受けられるのだ。
直江がそう言った。
そして悲しい顔をして「まるで私とあなたですね」と言った。
これは知らない異教の詩。オレとおまえは互いに異教でしかないのかもしれない。
「愛してるのに」
「どうにもならないなんて」
ゆっくりと手が腰に回った。そしてソファに密着してるオレの尻の下に手が入る。
「直江っ」
「だったらせめて、体をください。私だけにください。あなたを抱いたらもう二度と他の誰も抱きません。あなたしかいらないから」
「いいよ……」
こうして、異教徒は体を繋げて自分たちを同化しようとするんだ。
ベッドの中で直江はオレを抱いた。力強い体で引き裂くように、オレと同化しようとした。
それは魂を溶け合わせて、ふたりをひとりにする行為。
背中を直江の指が這い回る。首筋に唇と舌が滑る。耳に直江の息が吹きかかる。柔らかい内腿を押し開いて手のひらが撫で回す。
髪の中に顔を埋めて鼻で、唇で、頬で、オレの匂いを嗅ぐ。
直江の体が、オレの体に埋め込まれる。
「大丈夫?」
「大丈夫……もっと、奪え」
もっと奪え。もっと犯せ。おまえだけのものになるから。
「壊れてもいいから」
もっと壊せ。もっと破け。なにもかも壊して、なにもかも失って、カラッポになっても、おまえだけが残ればいい。
時間の感覚がなくなって、昼も夜もなくなって、体内時計すら感覚をなくして、ただただ抱き合って、犯されて奪われた。
同時にオレも直江を奪った。直江を受け入れて犯した。
ずっと吹雪いてた。外も、心の中も吹雪いて、オレと直江は抱き合って暖を取り、繋がって熱を持ち、ヒトとして獣になった。
愛してるという言葉だけしか聞こえない静寂で、ふたりはひとりのヒトになる。
つづく
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