どうしても必要な悪があるように、どうしても拭えない後悔がある。
私はそれを、大切な人の涙でしか知ることが出来なかった。
受付の金庫から一万円札数十枚の束を掴み持ち、青年が店の奥へ向かった。
「景虎さん」
その青年にウェイターの男が声をかける。
「オーナーにこれを持って行ってください」
「ああ」
現金をスーツのポケットに入れて渡されたグラスを持ち、木製のドアをノックした。
「どうぞ」
部屋の中から聞こえた声の促しでドアを開けて部屋に入り、皮製のソファに座っている男の右側にグラスを、左側に現金を置いた。
男の左腕は力なく膝に置かれていて、たまに指先がヒクリと動く程度しか反応しない。
景虎と呼ばれた青年はテーブルに置いてあるピルケースから白い錠剤と青いカプセルを取り出して、男の右手に乗せてやった。
「売り上げはまずまずだな。レート下げたから売り上げも下がったけど、そのぶん人数が増えて入りやすくなったんじゃないか?」
「そうですね。でも知らない顔が増えた」
「まあな。いくら一見さんは来ないつっても、用心に越したことねえな。どうだ?怪しいやついたか?」
「今日はいませんね」
ソファの前のテーブルにはノートパソコンがLANケーブルで繋がっていて、店内のカメラの映像がこのパソコンに飛ばされて見られるようにしてある。
ここは男が経営する裏カジノだ。
「あれ?こいつ警官だぜ?前に雀荘で摘発されそうになった」
「ええ。お得意さんですよ。彼は所轄の警部です。それで高耶さんはうまく逃げたんですか?」
「ああ、ちょうど便所にいたから、そこの窓からな。で、そいつがなんで?」
「ギャンブル狂なんですよ。競馬、パチンコ、競艇、競輪、なんでもやります。しかし所轄の給料なんてたかが知れてるでしょう?だから小さい賭場を強請って金を引っ張る。渋ったら摘発。そしてレートの高い店で打つ。負けがこんで借金をすればさらに強請る。強請ってまた大きなレートで……。そうやって借金と強請りを繰り返して、ここまで堕ちてきたんです」
そうだったのか、と青年が小さくつぶやいてモニタから目を背け、輪ゴムで現金をまとめだした。
それを見ながら男が薬を口の中に放り込み、青年が持ってきたグラスの中の水で飲み込んだ。
「このズク、どこに入れたらいい?」
「その金は金庫へ入れておいてください。回収はまだ先ですから」
「ん、わかった」
「あなたにズクなんて言われると、ドキッとしますね」
「なんで?」
「本物の雀ゴロだったんだなって。高耶さんらしいといえばらしいんですけど」
景虎とは彼の別名で、目の前の男のそばにいるためにつけなくてはいけなかった名前だ。偽名である。
男は彼から直江と呼ばれる。元々はヤクザだった男が夜の賭場をいくつか経営している。今はもうヤクザではないが危ない橋を渡っているのは変わりない。
「回収って、やっぱオレか千秋でガードマンやるわけ?」
「ええ。いつもどおりね。他の人間は信じられませんから」
週に2回の現金回収を直江とその秘書のような存在の千秋と高耶の3人で行う。
先日の騒ぎを収めるために歌舞伎町の賭場を一軒閉鎖したが、それでもあと三軒残っている。
できるだけトラブルは避けるべきであったあの時期に、直江はレート5万の裏カジノをレート1万に引き下げた。
それだけでも客の心象はソフトになり、何かトラブルがあった際にも警察や地元ヤクザに刺す人間が減る。
しかしいくらレートを下げたと言っても一度の回収で集まるのは少なくとも数百万円。
その金を一度直江のマンションに持ち帰り、一ヶ月の売り上げと合計して店の運営経費の内訳に分ける。
従業員の給料、店内の備品、ヤクザに上げるショバ代、警察への賄賂、その他。
残りが直江の取り分で、中から私的に雇っている形の千秋や高耶の給料や、いくつか持っているマンションの家賃、毎月支払う色部への治療費と礼金、世話になっている人間への報酬を出す。
さらに余剰は直江の懐に入るのだが、その現金が何に使われているのか、どこにしまわれているのかは千秋と直江しか知らない。
「明日は色部さんとこに行けよ」
「ええ、わかってます」
以前、店の売り上げを中国人マフィアに上げる件で揉め事があり、そのいざこざで直江は左腕の付け根に重症を負った。
今は傷もすっかり塞がっているが、うまく動かすことはできない。そのためのリハビリに高耶は根気良く付き合い、指先が微妙に動く程度には回復した。
しかし腕を動かすには色部のアドバイスと痛み止めの注射を受けながらリハビリを続けなくてはいけなかった。
その動かなくなった腕を見て、高耶は毎日直江に見つからないように溜息をつく。
夜が明ける前にマンションに戻った二人を出迎えたのは直江の世話人兼秘書の千秋。
マンションには3人で住んでいる。
千秋が直江のそばにいるのは直江に大恩があるからであって、決して金銭的な結びつきではない。
いい加減な口調に似合わず、直江の身の回りの世話を甲斐甲斐しくしている。
一方高耶は直江に大恩があるわけでもなく、逆に直江に恩を売った形で現在このマンションに住み着いていた。
直江と高耶は俗に言う愛人関係ではあるのだが、お互いにそれを認めるには絆が深すぎて言葉にはならなかった。
ただお互いに愛しているだけ。恋人や夫婦のような甘い響きはなく、家族と言うにも温かい響きもない。
世間の男女、たまは同性愛者のような恋という感情は持ち合わせていない。あるのはただ愛のみだ。
以前高耶はこの関係をどう表現したらいいのだろうか、と直江に問うたことがある。
その時に返ってきた言葉は「あなたは私の左腕です」という一言だった。
直江の動かない左腕の代わりに高耶がいる、と。
『じゃあ治ったらオレはお払い箱なわけか』
『違いますよ。比喩でしょうに。私の体の一部だってことです』
『ふーん』
『心臓のようなね』
それを証明するように直江は常に人前では高耶を左側に侍らせている。
そして高耶も直江の左腕の代わりになって世話を焼く。左腕の機能だけではない。いまや高耶は直江の最強のブレーンでもあった。
「なんか食ってから寝るか?」
「ああ、腹が減ったな。何か軽い食事と酒を」
「少し待ってろ。高耶も食うだろ?」
「食う」
直江を着替えさせるために寝室まで行って服を脱ぐのを手伝う。
ひとりでやれないことはないが限界というものがあり、それを克服させるためのリハビリの他に、時間がある時に毎日15分程度のマッサージをしなくてはいけない。
「筋肉が落ちたな。右腕と比べたら太さがまるで違う」
「だけど高耶さんのおかげでむくんで痛いというようなことはありませんから」
「まあ、そのぐらいはな」
慣れた手つきでマッサージをしている高耶の顔に唇を寄せると、高耶も心得たように唇を差し出す。
甘くないそのキスを直江はしばらく味わってから、離れた。
高耶とのキスは精神安定剤のように直江の不安を掻き消す。
「よし、15分だ。まだメシ出来てないと思うけど行くか?」
「ええ。先に酒でも飲みましょう」
ふたりの関係を知っている千秋は余計な口を挟まない優秀な執事だった。
たとえ高耶が直江の横を離れずにいたとしても、たまに直江を放り出してひとりで寝室に閉じこもっている時も、何も言わなかった。
その関係さえ知らないような顔をしている。
高耶も直江も、自分たちの関係をまったく匂わせずにいるところがそれを助けていて、千秋の態度も自然であるためにふたりも特に気にすることはなかった。
左腕がうまく使えない直江のためにテーブルには食器滑り止めのマットが敷かれ、使いやすい食器しか出さなくなった千秋に感謝しながらも顔にも口にも出さない直江を、信頼という絆で結ばれているのだと高耶は思った。
いつも千秋は直江の有利にしか動かない。
「上杉会長から電話があったぜ」
「何か言ってたか?」
「高耶に用があったらしい。明日にでも折り返しくれってよ」
「めんどくせえな」
「けど恩人でもあるだろ。おまえの名付け親なんだし電話ぐらいは面倒がるな」
「わかったよ」
高耶の偽名はフルネームで上杉景虎という。
高耶を気に入りヤクザにスカウトしてきた広域暴力団、関東上杉会会長の上杉氏はこの世界で暮らすには高耶には偽名が必要だろうと直江に持ちかけ、その偽名を上杉景虎と名づけた。
あえて上杉氏の名字を使わせたのは、高耶のバックボーンには上杉会がある、ということを裏社会に知らしめるためだった。
いつか高耶を上杉会に入れたいという願望も混じっている。
元上杉会構成員の直江と千秋は破門という形で組を出た。これもすべては直江が仕組んだのが最近になってわかり、破門を解かれはしたがそれを断って裏カジノ経営者とそのボディガードとして働いている。
「いったい何の用なんでしょうね?」
「さあな。どうせまたアッチの世界に入れる気でいるんじゃないか?迷惑なこった」
「相変わらず強気ですね、あなたは」
高耶のこの度胸と、一度引きつけたら離さない魅力を上杉も感じているのだろう。
どんなに高耶が生意気な態度を取ろうが、筋と礼儀だけをわきまえてさえいれば怒ることもない。
冷血漢の直江ですら縮み上がるほど冷酷な上杉も高耶には甘いようだ。
その裏側には強力なブレーン、直江と高耶とふたりを、手元に置いておきたいための計算なのだろうが。高耶もそれを知っているからこそこうした態度を上杉にできる。知能犯だ。
千秋は食事を出すと自室に行って眠ってしまった。
残された高耶と直江で軽い食事を済ませて、上杉会についての話を直江が始めた。
最近ようやく歌舞伎町を完全に取り戻したこと、はた目には中国マフィアとは反目するしかない状況になってしまったが、その実、上の方では手打ちの予定があること。
そしてもう一度直江を上杉会に戻して、経済方面をまかせようとしていること。
「断ったんだろ?」
「ええ。もうヤクザに戻る気はありませんからね。それにこの腕じゃ何かあったら生き残れない」
「確かにな。誰かがついてるなら別だけど、直江ひとりの時はな」
リビングのソファに座った直江が自分の右側を指差し、高耶に座るように勧めた。
直江の右側には意味がある。
動く右腕で高耶の肩を抱き、体を寄せる。右側でしか出来得ないことだ。
「あなたがそばにいてください」
「……わかってる」
「今日は、私の寝室に来てもらえますか?」
「ひとりで寝る」
顔をしかめた直江に「疲れたんだ」と言い訳をしてから立ち上がった。
このふたりの間に肉体関係があったのはただの一度だけ。数ヶ月前に一度、不安定な気持ちの高耶が直江の寝室へ行った時の一度きりだった。
お互いに愛し合っているのは認めている。しかしたまに直江からキスを仕掛ける程度で、それ以上の接触を高耶は拒む。すでに言い訳は出尽くした。疲れた、気分じゃない、明日のために、なんとなく、そう言いながら断り続けて数ヶ月が経っている。
「どうしてですか?どうしてそんなに頑なに拒むんですか?」
硬くなった直江の口調に一瞬ビクリとしたが、拒んでいるわけではない、本当に疲れているんだと言って急ぎ足で自室へ向かった。
その背中を直江は憎むように見つめていた。
つづく
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