直江がこの下宿、仰木荘に決めた理由はいくつかあった。
まずは会社を辞めて小説家として活動を始められるようになってはみたものの、毎月の収入は不安定な上、少額で、このままマンションに住み続けたら数ヶ月で文無しになる。
そう思っていたところ、取材で赴いた大学の近所で仰木荘を見つけた。
昭和の色濃い建物に魅入られて入居できるかどうかを管理人らしき老人(本当は古狸)に聞いて案内してもらった。
外観を見た時の予想と寸分違わぬ内部にさらに魅了され、家賃の安さ、炊事の出来ない自分のためにあるかのような三食付、しかも契約している出版社まで徒歩で行けるとなれば文句はなかった。 そして現在。
少ない家具を部屋に入れ、心機一転新しい住処で小説家業を始めるには雰囲気ピッタリな内装の下宿屋、直江の気分は晴れ晴れとしている。
唯一気がかりなのは住み着いていると言われている妖怪ぐらいだ。
「ま、そんなのにお目にかかれるならいっぺんぐらいは」
半分は冗談だろうとやり過ごし、荷物の整理を始めた。本棚に本を移していると部屋のドアがノックされ、さきほどの高耶という青年が声をかけてきた。
「昼飯食った?」
「いえ、まだですが」
ドア越しに話すのも失礼かと思い、小さなステンドグラスが嵌め込まれた木製のドアを開けた。
このドアも気に入った中のひとつだった。
「握り飯ぐらいなら作れるけど食う?あ、これに関しては食事代はいらないから。入居の挨拶代わりにな」
「……はい、ありがとうございます。ご馳走になります」
意外に思った。案外優しいところがあるじゃないか、と。
「ええと、ここで食うよりオレの部屋で食った方がいいか。まだ片付いてないんだろ?」
「ええ、夕方までかかりますね」
「本、たくさんあるんだな」
「小説家なもんで、資料ですよ」
高耶が目を丸くして直江を見た。
「小説家?すげえ。マジで?」
「本当ですよ。あとで高耶さんに私のデビュー作を持っていきましょうか」
「うん!じゃ、あとで!」
ドアを閉めて食事の支度が出来るまでの間、また本の整理をした。
少ししてからまた高耶がやってきて出来上がったから来いと言う。
管理人室へ行き、お膳に乗せられた握り飯を食べていると「ただいま」という男の声がした。入居者らしい。
「あ、千秋!ちょっと!」
「なんだよ。お?もしかしたら入居者か?」
受付の窓から覗いたのは大学生風の男だった。
「今日から二階の三号室に入った直江さんだ」
「どーもはじめまして。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」
千秋はそっちに行くと告げてから管理人室に入ってきた。
「直江さんか。タヌキに気に入られたみたいだな。あいつ、たま〜にここで茶啜ってるから煎餅か何か差し入れしとくといいぜ。しないと夜中に天井裏でドタバタやって眠れなくさせるんだ」
「…………」
千秋も古狸の存在を知っているどころか、扱い方まで熟知している。しかもまったく不思議とも思っていない。
「あのタヌキは仰木の爺さんの代からいるらしくってさ、タチの悪いヤツは追い出してたんだって。んで、爺さんが入居者の契約とか面倒になってタヌキにやらせてるうちに、管理人ヅラして色々働くようになったんだとさ。高耶が管理人になるときまでずっとな。ま、悪いタヌキじゃねーから安心してくれ」
「はあ……」
高耶に入れさせた茶を千秋も啜りながら、添え物の糠漬けをポリポリ食べている。
直江にはまだ信じられなかったがタヌキの話は千秋にとって日常の一部のようだ。
「あ、そうだ。高耶。今日の夕飯の予約、よろしくな」
「ん、わかった。直江さんは?」
「お願いします……」
「あとは〜……追々わかってくるだろ。じゃ、俺は部屋に戻るわ。二階の五号室だからなんかあったら来てくれ」
「あ……ありがとうございます……」
半信半疑の妖怪は実際にこの下宿で幅を利かせているようだった。まだ信じられない態の直江を見ながら、高耶はほんの少しこの男の行く末を案じた。 頭が混乱していたせいか、片付けの手が止まったりして夕方までに終わらなかった。
高耶に約束していたデビュー作もまだダンボールに入ったままだ。
やり残した片付けは夕飯の後にしようと諦め、仰木荘の夕飯の時間、七時半に食堂へ向かった。
そこに来ていたのは先程の千秋の他に二名。男性と女性が一名ずつだった。
「アンタが直江?よろしくね。アタシ、三階の一号室、門脇綾子」
「ふうん、身なりはいいんだな。ああ、俺は二階の四号室の高坂だ」
他にもあと五人住んでいて、直江を入れて九名だと高耶に言われた。
「女性もいるんですね」
「ああ、ねーさんもタヌキに気に入られて入ってきたんだ。高坂と千秋はオレがここに来る前からいるから、爺さんの時に入ってきてる。あの二人が特に詳しいから。ここのこと」
高耶の言う「ここのこと」とは妖怪のことだろう、と直感でわかった。
どうも住人は皆、タヌキやらカラス天狗やらを日常にしているらしい。
「あの、タヌキさんとカラスさんの他には……?」
「たまに来るのが化け猫の猫村さんだろ。カツオブシパックで台所を手伝ってくれるんだ。それと普段は何もしてくれないけど、下宿が無人になった時とか、ねーさんが一人で残ってる時なんかに警備会社なみに働いてくれるコケオドシってのがいる。泥棒が入ったりしたら幻覚なのか変身した姿なのかは知らないけど、驚かせて追い払ってくれんだよ。タヌキや猫村さんと違って無償でやってくれるから助かってる」
「そ、そうですか……」
住人を脅かさないだろうかと真剣に悩んでしまった。
直江としてはできるだけ関わらないようにしたかったのだが、どうもそう言っていられない。
「あ、ちなみにカラス天狗はうちの爺さんか高坂しか使えないんだ。今は家賃滞納して行方をくらませたヤツがいたらオレが高坂に頼んでみつけてもらう、そんな感じ」
どうやら人間関係にも絡んでいるようだ。すべての妖怪を高耶が把握しているわけではないらしい。
「変な下宿だって思っただろ?でも住めば都だから。気楽に楽しんでくれ」
ニッコリ笑った高耶を可愛いと思った。
さっきまで不安ばかりが先行してポジティブに考えていなかったのに、この笑顔で何もかもが楽しくなりそうな予感がした。
高耶が猫村さんと作ったという夕飯を食べながら、直江は少しだけ、ほのぼの気分になっていた。 つづく |