仰木荘奇譚



 
         
 

たったの二十四時間で三十年培ってきた常識やら現実やらが覆されてしまった直江は引越しの片付けなど手につかず、部屋でただ考え込んでいた。
元々マイナス思考ではないので怯えたりはせず、転んだついでに何かを拾おうという感覚で考え込む。

「そうか……小説のネタにしてしまえば」

昼近くにそう思いついて、この下宿の中を見て回った。
まずは上から。三階に上がって行って三号室の前に立つ。この部屋には現在誰も入居していない。
千秋から聞いたところによると、この部屋は妖怪の出入り口の真下にあたるため、入居しても気味悪い物音が聞こえてくるといってすぐにいなくなってしまうのだそうだ。
それで高耶が直江を二階にしたのがわかった。

この部屋から例の屋根裏部屋に入れるのか、とドアノブに手をかけてみたが開かない。当然高耶が鍵をかけている。

仕方なく三階の廊下を歩いてみたが、レイアウトはほとんど二階と同じで、部屋とトイレしかない。
小さな発見としては部屋のドアについている小さなステンドグラスが各部屋で模様が違っているところだ。
こんな細かいところが元は旅館だったのだと感じさせる。

二階はすでに見ているので一階へ降りていく。
高耶の住んでいる部屋は玄関に向かって右側。一号室と二号室を合わせた広々とした管理人室。
玄関を挟んで隣りが食堂。その隣りは小さな流し台とコンロと冷蔵庫がある自炊室。その隣りが風呂場とトイレ。
そしてさらに隣りが建物を増築して作ったランドリールーム。
真昼だから電灯がついていない薄暗くて涼しい静かなこの建物は、妖怪が出るとはまったく思えないほど穏やかだった。

ランドリールームから廊下へ出ると高耶が管理人室から出てきた。

「洗濯か?」
「いえ、探検です。まだここへは来ていなかったので……さっき三階の三号室前に行ってきたんですが、妖怪がいるなんて思えないほど静かで穏やかな空気が流れてましたよ」
「そりゃそうだ。うちにいるのはみんないいやつばっかだもん。なんつーか……建物が古いからみんな居心地良くておとなしくしてるんじゃないかな。直江が言うように静かで穏やかだから、オレもここが好きになったんだ」

小さい頃に祖父の住むここへ夏休みや冬休みに妹の美弥と来ていた。
ここへ来ると澄んだ空気の中にいるように心地よくて、たまに不思議なことが起きたりして楽しかったんだ、と高耶が言った。

「不思議なこと?」
「そう。んーと、小さすぎたから夢だったかもしれないんだけど、ランドリールームの隅っこに小さいドアがあるだろ。あれって爺さんが昔飼ってた猫用のドアなんだけど。なんでか知らないけどさ、アレから出て行けたような気がするんだよ。そんで出ると庭じゃなくて爺さんの部屋……今オレが住んでる部屋に出るんだよ。今はもうないけど、婆さんが使ってた足踏みミシンの下から。夢か勘違いかも知れないけど、そーゆーのが楽しくってさ。ここがすっごく好きになったんだ」

遠い目をして懐かしそうに話す高耶に目を奪われた。
昨日初めて会った時も印象的だったけれど、こうしている高耶は美しいという表現がとても似合う。

「で、探検の収穫はあったのか?」
「……ええ、ありました」

あなたが美しいのだと知りました。
そう言いたかったがそんなことを言えるほど無恥ではない。気味悪がられてオシマイだ。

「今日の昼飯、直江しか申し込んでないから管理人室で一緒に食おう。食堂でもいいんだけど、オレの部屋だったらテレビもあるしさ」
「はい」
「じゃあまたあとでな」

食堂の台所に高耶が入って行った。今から食事の支度をするのだろうか。
そういえば、と直江は思い立って食堂に入って行った。

「あの、高耶さん。猫村さんにお会いしたいんですけど」
「猫村さん?ああ、昼飯は手伝ってくれないんだ。人数少ないからオレだけでいいって言ってあってさ」
「じゃあ夕飯の時は?」
「だったら来てくれるかも。絶対に来るとは限らないから五時ぐらいになったらここに来いよ。いるかもしれないぜ」
「わかりました」

まずはいついるかわからないタヌキよりも猫村さんと会うことにした。
どんな姿をしていて、どんなふうに料理をするのだろうか。
もしも素晴らしい題材になるようなら話してみてモデルにするのを承知してもらおうと思った。

部屋に帰ってから引越しの片付けを始めた。
朝と違ってウキウキしている自分がいるのを感じている。
それが小説の題材を見つけたせいなのか、美しい人を見つけたせいなのか、直江には考えもつかなかったが。

 

 


「だいぶ片付いたんだな」
「ええ、あとは小物を棚に入れるだけです」

昼食が出来たと直江を呼びに来た高耶が部屋を見て言った。昨日とは違ってダンボール箱が少なくなっている。
高耶の後について一階の管理人室へ行くと、二人分の温かな食事がお膳に用意されていた。

「焼き魚ですか。好きなんですよ、魚」
「オレも。秋になったらサンマ出すから楽しみにしてろよ」
「はい。あ、そうだ。高耶さんに差し上げようと思って」

持っていた本二冊を高耶に渡した。

「こっちがデビュー作で、こっちが最新作です。暇な時にでも読んでください」
「うわ!マジで貰っていいの?サンキュー!」
「拙い作品ですけどね」

デビュー作は紺地に薄い桃色の桜の花びらが描かれている表紙だった。 『春になりて』というタイトルがついている。
初老の武士が隠居をして出会った商家の若い娘との儚い恋愛小説らしい。
最新作は『障子の穴』。こちらは短編集でとある長屋で起きた人情味溢れるヒューマンドラマだそうだ。

「本当に時代物なんだ?」
「お年寄りに受けているそうですから、高耶さんにはちょっとわかりにくいかもしれませんが」
「ううん。オレ、時代劇とか好きだから大丈夫。今日から読むよ」

ありがとう、と笑顔で言って、高耶は箸を持った。

「冷めないうちに食おうぜ」
「いただきます」

テレビをつけて食事をしていたのだが、二人ともテレビには目を向けずに話しながら食べた。
直江が小説の題材にここの妖怪をモデルにしたいと話すと、高耶がたぶん大丈夫だろうと言ってくれた。

「だけど悪く書いたら怒られるかもよ?特にタヌキの爺さんには毎日ドタドタやられたりして」
「悪くなんか書きませんよ。妖怪と人間の触れ合いを通じたヒューマンドラマにするつもりです」
「だったら大丈夫かも。とりあえずオレから爺さんやおチヨさんや猫村さんには頼めるけど、カラスには高坂から頼んだ方がいいかな。コケオドシは別に何も聞かなくても平気だと思う」
「そうですか。よろしくお願いしますね」
「まかせとけ」

それから高耶が直江の仕事について質問をしてきた。
どうやって小説家になったのか、担当さんが来て張り付いて面倒を見るのか、など。

「小説家になったのは、たまたま趣味で書いていた作品を試しに出版社のコンテストに出したんですよ。さっき渡した『春になりて』を。そうしたら大賞を頂いてしまって。春までは会社と並行してやってたんですけど、やっぱり時間がなくなってしまって、安定した生活よりも夢だった小説家を選んだというわけです」
「チャレンジ精神旺盛だなあ」
「ダメだったらまたサラリーマンには戻れますからね。小説家になるチャンスは今しかないでしょう?」
「そっか。うん、そうだな。すごい勇気がいったんだろうな」
「まあ、多少は」

担当している編集者がここへ来ることもあるかもしれないので、その時は部屋に入れてもいいかと聞いたら、そんなのは仕事なんだからバンバンやってくれ、とお墨付きを頂いた。
直江は締め切りを過ぎたこともなく、手直しを言われた経験もないので、張り付くことはまずない。

「でも妖怪に会ったらビックリするかもよ?」
「先に話しておきますよ」

楽しい昼食が終わるのを直江はいつの間にか惜しいと思っていた。
このまま高耶ともう少し過ごしたい。この心地よい感じを味わっていたいと。

 

 

つづく

 
   

しつこいよーですが
ずっとほのぼの続きます。
適当にお付き合いください。

   
   

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