それから翌週。いつものように高耶に呼ばれて昼食を摂りに管理人室へ行った。
高耶は小鍋で味噌汁を温めているからと先に下り、直江は書いていた小説をハードディスクに保存してから部屋を出て、階段を下りる途中で高耶と若い女の話し声が聞こえてきた。
見れば玄関で受付に向かって話しているのは先日の女性ではないか。服装が同じで水色のワンピースを着ている。
「だから部屋は空いてないってば」
「でもまだ入居されていないようなので……キャンセルになったのかと思って……」
困惑している高耶を庇おうと思って階段を下り切ったとたん、直江の足がその場から動かなくなった。
(なんだ?)
意思とは別に足が石にでもなったかのように動かない。
もしかしたらこれが金縛りなのだろうか、と、最近芽生え始めた勘で思い当たった。
意外にも冷静だったのは普段、妖怪と接しているからに違いない。多少のことではもう驚きもしない。
「とにかく部屋は空いてないんだ」
「……わかりました……また、来ます」
「????」
女性が玄関を出ようとしているところで金縛りにあっていた直江は気が付いた。体は動かなくても目は自由だ。
(あ……あ、足が……ない!)
女性の下半身を覆う膝下のギャザースカート。
そこから伸びているはずのふくらはぎからつま先から何から何まで見えない。
不自然に浮いている体は歩いているかのように上下に揺れながら玄関から出て行くが、何度目を凝らしても足はない。
玄関の引き戸がピシャリと閉まると直江の金縛りも解けた。急いで女性の後を追って裸足で飛び出したがもう姿はなかった。
肩で大きく息をしながら汗びっしょりになっている直江を受付の小窓から高耶が身を乗り出して見ている。
「どうしたんだ?アレ、この前のあの変な女だよ?しつこいな」
「……た……高耶さん……あれ……生きてる人間じゃありませんよ……」
「は?」
床が汚れるのもかまわずに直江は泥で汚れた足で管理人室に飛び込んだ。
「あの女、幽霊です!」
「ええ?」
「あっ、足がありませんでした……それに私が玄関を飛び出したらもう、いませんでした」
「……暑くておかしくなったのか?」
「いいえ!本当です!しかも私は金縛りで動けなくなってたんですよ!幽霊が出ると金縛りに遭うって祖父も父も言ってました!」
直江の必死な訴えに高耶もどんどん本気になる。ここには妖怪はいるが幽霊は出たことがない。
「マジ……?」
「はい」
二人揃って小窓を見つめ、それから顔を見合わせて引きつった口で何かを言おうとするがうまく言葉にならない。
高耶がまず深呼吸をしてから、直江にもう一度本当に足がなかったのかを訪ねた。
「ありませんでした。確実に」
「……も、もしかしてこの下宿……幽霊に気に入られたとか?」
「たぶん。妖怪は妖怪ですけど、幽霊は人の怨念がそのままこの世に残ったものだと父からは聞いています。だから悪質な幽霊の噂話が多いのだとも」
「じゃあ、今の、いい人じゃないかも……?」
「わかりませんが……あのしつこさからするとここの妖怪の皆さんのような親切さはないどころか、誰かに取り憑く可能性も考えられます」
背筋が冷えていくのを感じる二人はもう一度小窓を見た。もうそこには何もないが、二人同時に見たのは確かだし、会話もしている。
「とりあえずっ!ええと、塩?お守り?」
「どちらもやっておきましょう。お守りは持ってますか?」
「ない!」
二十歳前の男の子が持つようなものではない。直江は実家の寺で護摩を焚いた札があると言って部屋に戻ろうとした。
「行くな!」
「え?でもお守りがないと」
「だったら一緒に行く!」
どうやら幽霊が怖いらしい。
昼間に出た美しい女性の幽霊とはいえ、やはり幽霊だ。怨念という言葉にすっかり怯えてしまった。
「じゃ、じゃあ一緒に。ついでに台所から塩を持って私の部屋でお経を唱えておきましょう」
小説家ではあるが寺の息子でもある直江だからお経も読める。塩に念をこめることもできる。
戸締りをしてから管理人室を出ようと直江が先にドアを開けた。
高耶は直江のシャツの裾をしっかり握り締めてあとをついて行った。
「なんの恨みがあんのかな……?」
「さあ……本人に聞くのが一番いいですけど、無理ですねえ……」
食堂の台所にある塩が入った袋を棚から取り出し、高耶が胸に抱いて持った。
また直江の後ろをついていくのだが、高耶には背後に何かいるような気がしてならない。
そっと後ろを振り返ると、窓から人影が見えた。
「うわー!」
つい大声で叫んで直江に抱きついてしまった。
「たっ、高耶さん?」
「誰かいる!誰か窓んとこにいる!」
がっしり抱きつく高耶の肩を引き寄せて、直江が窓の向こうの人影を目を眇めて確かめる。
「……何もいませんよ?」
「いたんだって!いたの!」
しかし直江に見えるものは庭の植木と外の景色だけ。植木が揺れた様子もない。
あまりにも怯えている高耶を励ますためにも直江は虚勢を張って穏やかな声を出した。
「気のせいですよ。怖がってるからそう思うだけで……」
小刻みに震える高耶の肩を押し離そうとして手を置いた。が、直江はそのまま離せなくなってしまった。
思ったよりも細い肩、その感触。もう少し高耶の匂いを、感触を、身に染み込ませたかった。
「大丈夫ですよ……私がついてますから」
相手は幽霊に怯えているというのに、直江の本能は愛しい高耶の体を引き寄せる。
そして匂いをかいで、抱き心地を知る。
背中を撫でてやっていると落ち着いたのか、顔を上げて直江の部屋へ行こうと言った。
両手を直江の胸に置いて、甘えるように見上げる。それだけで直江の鼓動は早くなる。
「行きましょうか。数珠ぐらいだったらいくつかありますから、あなたにひとつ差し上げますよ」
「ん」
高耶の背中を押して歩き出し、階段を上る時に直江は見つめられた。
「どうしたんですか?」
「絶対に後ろにいるか?」
「ええ」
「手」
「はい?」
「手、繋げ。繋いでないと本物の直江と幽霊が入れ替わったらわからないから」
まるで小さな少年のように高耶は率直に手を差し出した。そして直江の手を引き寄せて握った。
「行くぞ」
「……はい」
緊張でやや冷たい手を握り締めて階段を上がる。一段上がるごとに周りを見て、何かいないかと確かめる。
その姿がイタズラをする子供のようで可愛らしい。思わず幽霊のことなど忘れて笑ってしまいそうになる。
時間をかけて着いた二階は電灯が点いていないせいで薄暗い。
昼間は節約のために点けずにいるのだが、今はそれすらも不気味に感じる高耶だった。
反して直江はこの薄暗さが好きだった。陽の光が間接照明のように入ってくる廊下は涼しげで静かで、実家の本堂を思わせる懐かしさを感じる。
「入って」
高耶を部屋に入れて戸棚に作りつけてある引き出しからお札と虎目石の数珠を出した。
「これは実家で作った札です。何かあったら使いなさいと言われて持たされたんですが、まさか役に立つ時が来るなんてね。それと数珠。これは手首につけるタイプですから肌身離さずつけられますよ。あなたに差し上げます」
「もらっていいのか?」
「ええ。私は別のがありますから」
ほら、と水晶の数珠を引き出しから取り出す。直江らしい大きな粒の男性的な数珠だった。
「札は玄関に貼りましょう。妖怪のみなさんには影響ないとは思いますが、後で猫村さんが来る時にちょっと聞いてみたらいいですね」
「うん」
「では塩に念を入れます」
塩を半紙に盛って部屋の真ん中に置く。直江は水晶の数珠を手首に巻いて手を合わせた。
高耶はそれを部屋の隅で正座をして見る。
直江が唱える般若心経は高耶の耳に心地よかった。部屋の中が浄化されていくのがわかる。
言葉の魂とはこういうものなのだろうかと見蕩れていると、意外にも直江の睫毛が長いのに気付いた。
それからとめどなく直江の特徴を見つけてしまう。通った高い鼻筋や、光に透ける柔らかい髪の毛や、節ばった男らしい指や、形のいい嫌味のない唇や。
(オレなんでこんなに見蕩れてんだろ……?)
いくらこの部屋に幽霊が入ってこないとわかったからって、直江に見蕩れるなんておかしい。
急に安心しすぎておかしくなったのかもしれない。
最後に塩に向かって九字を切り、直江の祈祷が終わった。
細く長く息を吐くと、高耶に向き直って塩の乗った半紙を押し出した。
あ、と我に返ってその塩を見ると、さっきと違って透明感がなくなっている。乾燥してそうなったのかと思ったが、夏の湿気で乾燥などするはずがない。
「ああ、色が変わったのが気になりますか?塩という物質に私を通して仏が宿ったのだと思ってくださればいいですよ」
「なんでこんなことできるんだ?」
「寺の息子ですから。学校も仏教の学校ですし、専門科目も仏教ですし、修行にも行かされましたしね。それに父が言うには私は僧侶向きだそうです。小さいころはもっと能力が発現してたそうですが……」
「ですが、って?」
「覚えてないんですよ。たぶん霊感スイッチみたいなものを切ってしまったのではないでしょうか。それ以前の霊に関することは記憶がないんです。怖い体験でもしたのかもしれませんね」
しかし今回、直江は二十数年ぶりに幽霊を見た。鬼火と違って人の形をしているものを見るのは生まれて初めてかもしれない。
記憶がなくなる前は見えていたかもしれないが。
この妖怪下宿に住んだせいでスイッチが無意識に入ったという感覚は少しだけあった。
いつも頭頂部右側が冷えて冴えている感じだ。
「直江もやっぱ怖い?」
「さっきの幽霊ですか?ええ、まあ。未知のものですからね」
「だよな」
「だけど大丈夫です。なんとなくそんな気がします。あなたを守れるぐらいの力はまだありそうですから」
そう言って塩を一つまみ取って、高耶の手に落とした。
「それ、舐めてください。体の中に仏が宿るのと同じ効果がありますよ」
「ん」
高耶の赤い舌が手のひらを舐めた。なんとはなしに見ていた直江の心臓がドクリと鳴った。
もしかしたら俺は恋だけじゃなく、欲情までしてるのか?
直江には信じられないが恋をすれば欲情もして当たり前。これで完璧に高耶を愛しているのだとわかった。
「札、貼りに行こうぜ」
「え、はい。行きましょうか」
札を高耶が持ち、直江が塩を持って階下に下りた。
玄関の鴨居の上に札を置き、外へ出て引き戸の両端に盛り塩をした。札にも塩にも二人で手を合わせる。
「大丈夫かな?」
「盛り塩もしたし、札も貼ったから大丈夫でしょう。これでダメなようなら実家の兄にでも来てもらいます」
とりあえず安心した二人は高耶の部屋に入って麦茶を飲んだ。
高耶はまだ小窓を振り返る時があるが、さきほどのようにひどく怯えているわけではなさそうだった。
「あのさ……頼みがあるんだけど……」
「はい?」
「今夜、ここに泊まってくんねえかな」
つづく |