それからたまに出勤時間に高耶さんを見かけることが増えた。
でもただ見かけるだけで、話したりはしていない。
彼の歩調はその足の長さやスポーツマンという特徴もあってとても速い。私などが普通に歩いて追いつけるようなものではなかった。
だからいつも私は彼の背中を見ているか、駅のホームで見かける程度だった。
走って追いかけても良かったのだが、そこまでされたら彼も気分は良くないかもしれない。
そしてもうひとつ、確信したことがある。
彼は本当に友達といたことがない。同じ制服の学生の中にいてもひとりだ。
友達がいるいないに関わらず、どうしてか周りを拒否しているふうでもあった。誰も話しかけられないような気を放っている。
そういえば高耶さんの笑顔を見たことがないかもしれない。チームのメンバーには笑顔というほどのものではないにしろ、明るめの表情を見せているような気はするが、笑った顔は誰にも見せない。
今日の練習でも高耶さんは一回も笑っていない。
「高耶さん、バッティング見てもらっていいですか?」
「え?ああ、そういえばそんな話したっけ」
話をしないわけではない。話しかければ答える。でも笑わない。
バッティングを見てもらうと感心したような顔をした。私の選球が少し上達しているのに気が付いたようだった。
「いいんじゃん?もうちょっと球種を判断できれば問題ないと思う」
「良かった」
高耶さんが笑わないのなら私が笑おうと、仕事で鍛えた笑顔を向けてみたのだが無反応だった。
やはりビジネス用の笑顔では通じないのだろうか。
「それにしても暑くなってきましたね。そろそろ本格的な夏に入るんですかね」
「夏か。甲子園の予選もあるな……」
「……やっぱりまだ甲子園は諦められませんか?」
「いや、別に。もう諦めた」
それは本心のようだった。甲子園に未練はない。プロ野球にも未練はない。だとしたら野球をしている時に見せる彼の切なそうな表情はなんだろう。
「小さい頃から野球やってたんですよね」
「オレより親がやらせたかったんだ。オレはサッカーの方がやりたかったんだけど、親がプロ野球選手にしたくてリトルリーグ、シニアリーグ、高校野球でやってた」
野球に関してはエリート中のエリートだったのか。
そんな立場にいたのに未練がないとハッキリ言えるのはどうしてだろう。
もう少し話そうと思ったのだが、高耶さんはフイといなくなってしまった。
ベンチに座って水を飲んで、グラウンドにいるみんなを見ている。私に対してもそうなのだが、高耶さんは誰に対しても自分から話しかけることをしない。できるだけ避けるようにしているようでもある。
一定以上の距離を保ち、野球以外のプライベートな話はせず、そして気が付くと一人でいる。
なのに少し気まずくなるとフォローを入れたりする。少年らしい敏感さで察知してしまうのだ。
人と付き合うのが苦手なだけのような気もするし、わざと避けているような気もする。
「直江さん」
「ああ、亜沙子さん。こんにちは」
「また差し入れしましたから食べてくださいね。今日は高耶くんも食べられるようにサンドイッチにしたんです」
おにぎりがダメだからサンドイッチか。サンドイッチでもダメなような気はするが。
思ったとおり、高耶さんはサンドイッチも食べなかった。あとでこっそり聞いてみたら、知っている人が作ったおにぎりやサンドイッチというような、作った人の手がベタベタ触ったものが食べられないそうだ。
店売りの「知らない人が作った」ものなら大丈夫なんだと言っていた。
そこまで神経質なのだったら友人を作るにしても色々な条件があるのだろう。
土足で心に入ってくるような、そういうタイプを避けたいがために友人が出来ないのでは。
「サンドイッチもダメだったわ」
「もう高耶さんに何かを食べさせるのは諦めた方がいいですね」
「でも差し入れはしたいんだけどな」
「どうして?」
「直江さんたちが食べてくれるから」
その言葉に意味があるのがわかった。私も彼女に対してはまだ半端ながら恋愛感情を持っている。
ここで一歩踏み込めば、私と彼女の関係性が変化する。
「じゃあまた差し入れお願いします。それとまた、私と出かけてくれますか?」
「あ、はい!」
「今晩は、空いてますか?」
「空いてます」
今日の太陽のように明るい笑顔で彼女が笑った。
私の気分まで明るくさせてくれる、こういう女性が必要なのだと思った。
その日の夜、二人で食事に出かけて、帰り際に交際を申し込んだ。
彼女の返事は私の思っていた通りOKで、その日から私と亜沙子さんは恋人同士という関係になった。
さすがに知り合いのお嬢さんなだけに迂闊に手を出すこともできないから、その日はキスもしないで家に帰った。
仲が深まるのは急がなくてもいい。もうそんな焦って事を進める年齢でもない。
しかし噂は広まるのは速く、翌週の練習日にはすでにチームの全員が知っていた。
「亜沙子ちゃんと付き合ってるんだって?」
「どうして知ってるんですか……」
「山縣さんが嬉しそうに話してたんだ。あそこの家は親子で仲良いから筒抜けになるぞ」
「それはかまわないですけど……だからって冷やかしたりしないでくださいよ」
その話は当然高耶さんの耳にも入っていた。
だが高耶さんはいつもどおり、話しかけてはこないし、知ったからといって興味があるようでもなかった。
ただ私と亜沙子さんで話しているのを遠くから見て、冷たい視線を送っていただけだ。
こんな狭い身内同士で付き合うのを快く思っていないことは確かだった。それを知ったのはまた補習帰りの高耶さんと駅で会った時だった。
「もしかしたら別れるかもって思わなかったのか?」
「それは思ってますよ。別れたら山縣さんとの間もギクシャクするだろうなって」
「……なのになんで付き合うんだ?」
「それはそれ、これはこれってやつです。亜沙子さんも私も大人ですから。分別はつきます」
「大人ってそういうものだよな」
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。「そういうものだよな」ではなく「そういうものなのか?」と問われるかと思ったのに。
なぜか高耶さんの心の深い部分を覗いてしまったような気がした。
「オレには関係ないけど、練習中にイチャイチャするのはやめてくれよ。気が散る」
「気をつけます」
「じゃあな」
いつの間にか高耶さんの家の前まで来ていた。
もう高校生なのだから男女が同じ学校内でベタベタしている場面を何度か見ているだろう。免疫はそれなりにあるようで、高耶さんは平然としている。
そういえば前の学校では友達もいたようだし、もしかしたら彼女もいたのかもしれない。高耶さん自身がもうすでに性体験があってもおかしくはない。
あれほどの容姿なら女の子は放っておかないだろう。雰囲気から察するにもう経験はありそうだ。
だからといってそんな話をしようものなら怒ってしまうだろう。高耶さんに対しては慎重に慎重を重ねるぐらいがちょうどいいのだと色部さんも言っていた。
話題を選んで傷つけないようにしなければ。
特に私には冷たい態度を取ることのある彼だから。
亜沙子さんとの交際は順調に進んでいるようで進んでいない。
あれ以来、平日は仕事が忙しくて夜中に帰ることが増え、土日も何かと用事があったり練習があったりして二人で会うきっかけも作れなかった。
練習の後は付き合いでチームのみんなと飲みに出たりもしてしまう。できるだけ山縣さんとも親睦を深めておきたい思惑もあってだ。
それに最近は練習帰りのファミレスでの食事に高耶さんも参加しているから、私だけがいつも不参加というわけにいかなくなってきた。
亜沙子さんとは土日の夜に2時間程度お茶をしたり、散歩をしたりというプラトニックな関係のまま。
キスぐらいは何度かしたが、それも子供のようなものだけだった。
家に呼んでも良かったのだが、最近の自分の家はとにかく散らかっていて汚い。そんな家に女性を呼べるほど恥知らずでもない。
それにきっと亜沙子さんのことだから、家の掃除を始めてしまうだろう。そんなことをさせるために付き合っているのではない。
土曜日、休日出勤をしてその帰りに亜沙子さんと近所のファミレスで食事をした。明日は野球の試合が早朝からあるから早寝をしなくてはいけないため、たった1時間という短いデートだったが公園に寄って少し親密なムードを作って軽くキスをした。
「じゃあまた明日。応援に来てください」
「はい、今夜はよく寝てくださいね」
「わかりました」
公園から10メートルほどのところに彼女の家がある。玄関まで送ってまた公園を横切って帰ろうとしたとき、ブランコに高耶さんがいるのを見かけた。
さっきキスしていた時は誰も公園にはいなかったから、ついさっき来たのだろう。
夜10時を過ぎて公園に一人で来るなんて、どうかしたのだろうか。
「高耶さん?」
「あ」
いつもの無表情で私を見た。視線が印象的な彼を最初は誤解していたが、慣れてくればわかる。
彼の「目つきの悪さ」はただ目に力があるだけのことだと。
「どうしたんです?ひとり?」
「……悪いか?」
「悪いかって返事はないでしょう。ひとりでブランコに乗ってるなんて、誰だって心配になりますよ」
「そっか……別になんにもないんだけど、ちょっとフラフラしたくなったんだ」
「親御さんは心配しないんですか?」
「さあ?オレが出てきたことも知らないと思うよ」
高耶さんは星も見えない曇り空を見ながら、一晩無断外泊したのでもないのに今時の親が心配するわけがないと言った。
私の実家は田舎だからコンビニすら遠くて、夜に出かけると家出だと勘違いされる、と言ったら、「へー」と気のない返事が帰ってきた。
「で、直江はいつまでここにいんの?」
「高耶さんが帰るまではいようかと思いますが」
「ふー、じゃあ帰ろ」
言外に私を邪魔だと言っていたようだ。物思いにふける時間を邪魔してしまったようだ。
だからと言って高校生がひとりで夜の公園にいるなんて、何かあったら大変だ。そう言うと呆れられた。
「あのな、オレが痴漢することはあっても痴漢されることはないんだ。高校生だからってもう子供じゃないんだよ」
「わかってますけど、なんだかあなたは危なっかしいから……」
「……どういう意味?」
その返事は素直な疑問でも皮肉でも嫌味でも冗談でもなかった。
高耶さんの声はあくまでも真剣で、敵意があった。
「え……深い意味はありませんよ……なんとなく、そう感じただけで」
「ああそう」
いつものように「じゃあ」もなく、高耶さんは踵を返して公園を出て行った。
どうやら怒らせてしまったようだ。何が発火点なのかわからないが、確実に怒っている。
「高耶さん!」
「なんだよ」
「送りますよ」
「いい。おまえとはいたくない」
とうとう走って行ってしまった。私とはいたくない。何か傷つけてしまったか。
明日は試合だっていうのに。
つづく |