驟雨

しゅうう


 
         
 

朝、高耶さんの家に寄ってインターフォンを押すとお母さんが出てきた。
高耶さんの忘れ物だと言ってユニフォームを渡し、昨日のこともあるから私が駅まで送りますと言ったら喜ばれた。
喜ばれる罪悪感がけっこう重たいことを知った。
その直後に高耶さんが玄関に出てきていつものような無愛想な顔で挨拶をした。わざとそうしているのか、単に寝起きだからか。

「おはよう」
「おはようございます。送りますから一緒に行きましょう」
「うん」

母親の様子からすると、地元に戻ってから友達を作ろうとしなかった息子に新しい友達が出来たとでも思っているんだろう。
その見解は近からず遠からずだ。友人ではなく恋人と言ってもいいのだから。

「ではいってまいります」
「いってきまーす」

駅までの道を並んで歩き、他愛もないことを話し、駅に到着した。このあたりは住宅街ということもあり、駅を利用する人間がとても多い。なので毎日満員電車だ。

「ええと、高耶さんは5駅でしたっけ?」
「うん、直江は?」
「私は10駅乗ってから乗り換えです。さらに5駅で着くので乗り換えを含めて1時間近くかかります」

高耶さんの学校は私の道のりの途中にあるので電車の中でも用心ができる。しかし帰りが心配だ。
さすがに下校時間は人も多くいるのだから無理矢理何かをされると思えない。あの男本人も高耶さんの前に出現したからといって嫌がる人間を拉致したり暴行したりは出来ないだろう。
なるべく明るいうちに家に帰るように言って、高耶さんを学校のある駅で降ろした。

そして会社が終わったのが夜10時すぎ。いつもは終電間際まで仕事をしているのだが今日は亜沙子さんと話す日だ。
少し早めに帰れるように根回しをして、それがうまくいったので10時過ぎに会社を出た。出たところで亜沙子さんの携帯電話に連絡を入れた。
ところが。

『ごめんなさい。今日は都合が悪くなっちゃって……』

せっかく早めに終わらせたのにドタキャンを食らい、罵られる覚悟も一気に冷えた。
だからと言って無理強いはできない。それならばしょうがないと諦めて、電車に乗った。最寄り駅についてから高耶さんからのメールに気が付いた。

『やっぱり会いたい』

それだけだった。もしかして何かあったのかと思い、電話をかけてみようかと思ったのだが、夜11時を回っているのに高校生に電話をしていいのだろうか、高耶さんの両親が怪しまないかと考え直し、こちらもメールを返した。
その直後に高耶さんからの返信があり、もしまだ間に合うのなら家の前で待っているから少し会いたいという内容だった。
高耶さんに逢えるなら逢いたい。できることなら毎日腕の中に入れておきたい。
そんな彼が逢いたいと言ってくれる。
私はすぐに行く旨を伝えて高耶さんの家の前まで早足で歩いた。

「直江」
「高耶さん」

彼は用心のためなのか門の中で待っていた。あの男が来た時にこの門でガードできるように、だそうだ。

「今日は遅くなるんじゃなかったのか?」
「え?ああ、ちょっと早めに帰らせてもらったんです。用事があったので」
「……亜沙子さん?」
「え、まあ。それはキャンセルになったんですけど、高耶さんこそどうしたんですか?何かあったんですか?」

じっと私の顔を見て、何かを探っている。
たぶん亜沙子さんとの約束がどういうものなのか、それを聞きたいのだろう。

「オレは別に……何もないけど……」
「逢いたかっただけ?」
「……うん」

小さな子供のような表情で少し拗ねている。逢いたかっただけなのが恥ずかしいのか、耳を赤くしながら。

「もういい。逢えたからいいよ。帰って」
「そんな、もう少し一緒にいましょう」
「でもこんな玄関で……人に見られたら怪しまれる」
「そうですか?ご近所さん同士で話してるんですから、怪しむ人なんかいないでしょう」

それでも家の中に入らずに話しているのは怪しいと言って、高耶さんは少し怒った顔をして「じゃあな」と冷たく家の中に入ってしまった。
取り残された私は仕方なく門から離れ、家路につこうとした。

「直江」

頭上から高耶さんの声。見上げたら窓から顔を出していた。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

さっきまで沈みかかっていた気持ちが一気に浮上した。たったこれだけの言葉で私は機嫌が良くなる。
高耶さんにとって自分がどんな存在なのか、今はまだはっきりとわからない。それでも私を気にかけてくれるのなら、それだけで今はいい。

 

 

休日、いつもの草野球の練習に亜沙子さんは現れなかった。会えたら別れ話をする機会を作ろうと思っていたのに。
私が亜沙子さんを待っているのがわかったのか、山縣さんが近寄ってきて教えてくれた。
亜沙子さんの会社が倒産・買収の危機にあるそうで、今はその回避のために上層部が毎日対策を練って、それを実行して動いているそうなのだ。

「そうだったんですか」
「だから今日も休日出勤なんだと。すまないな」
「いえ、私の方は電話でもすればどうにでもなりますから」
「この際、会社なんか辞めて結婚すればいいのにな」

結婚?亜沙子さんが?誰と?

口から出る前に気が付いた。山縣さんは私と亜沙子さんを結婚させたいらしい。

「直江さんはどうかな?あいつ、我が娘ながら出来はいい方だと思うんだ」
「ええと……まだちょっと考えられないというか……」
「確かに出会って2ヶ月にもならないのに考えられるわけないか。俺だって女房と結婚するのに2年はかかってるんだからな」

山縣さんが親バカでなくて良かった。交際したのだから今すぐ結婚しろなんて言い出すのかと思っていたから。

「それで、うまくいってるのか?」
「普通ですよ」
「普通か。まあ、普通が一番だよな」

親としては複雑な心境もあるのだろう。自分の娘がよその男に遊ばれたりしていないか心配でたまらない気持ちと、早く結婚して安心させて欲しい気持ちと。
もうあと少しで私は亜沙子さんと別れるのに。

色部さんの休憩にしようという声が聞こえて、炎天下のベンチにメンバーが集まってきた。
いつもだったらこの休憩時間に亜沙子さんのサンドイッチや飲み物が提供されていたのだが、今日は山縣さんが持ってきてくれていた。

「今日はうちの女房の手作りだ」

亜沙子さんの作ったものより形のいいおにぎりが出た。それぞれ冷やしておいたペットボトルをクーラーバッグから取り出して、土手の木陰で食べ始めた。
高耶さんを探すとみんなから少し離れた木の下にいた。

「またあの子は一人だな」
「ええ。私が行ってみますよ」
「頼むよ」

高耶さんのいる木陰に入り話しかけた。今日はなぜかおにぎりを持っている。
人の握ったおにぎりは食べられないはずなのに。

「もしかして無理矢理渡されたんですか?」
「なにが?」
「おにぎり」

不思議そうな顔をしてから「ああ」と納得したように言った。

「だってこれ、奥さんが作ったんだろ?オレが断ってたのは、亜沙子さんが作ったやつだから。本人にそんなこと言えないから嘘ついた」

言っている意味がわからない。

「亜沙子さんが作ったのを食いたくないだけ。正確に言うと亜沙子さんの触ったものが嫌だったんだ」
「どうして?」
「直江に色目使ってる女が作ったものなんか、食いたくないに決まってる」

思ってもみなかった言葉にショックを受けた。
最初からこの人は亜沙子さんが私に気があったのを知っていたこともそうだが、醜い嫉妬心から食べたくないと思っていたなんて。

「でもたかがおにぎりですよ?」
「じゃあ直江はコーチがオレのために作ったらしきものを食うことが出来るか?」
「……食べることは出来ます」
「オレはヤダけどね」

確かにそうかもしれない。
例えそれがおにぎりなどの直接手で触って作るものではないにしても、口に運ぶだけでもなんとなく複雑な気分になるだろう。

「わかった?」
「ええ」

話はわかる。わかるが、高耶さんの性格にも問題があることがわかった。
潔癖症などではなく、嫉妬深さや自我の強さが異常なのだ。
もしかしたら高耶さんと関係を持ったことは間違いだったのかもしれない。そう思って背筋が寒くなった。
この嫉妬深さは自分たちを破滅に追いやる危険性がある。

「オレ、もう帰る。なんか暑過ぎて気持ち悪くなってきた。熱中症かも」

さっきまでおにぎりを食べていたのに、突然気分が悪いだなんて。
言葉も出ずに高耶さんを見送るしかなかった。

高耶さんはユニフォームを脱いでアンダーシャツだけの姿になりながら、色部さんのところへ行き、何やら話してから土手を上がって帰って行った。
どうやら色部さんも不審に思ったようで、私のいる木陰へやってきた。

「どうしたんだ?突然具合悪いなんて言って帰ったけど、直江さんと口論でもしたか?」
「いえ……口論はしていませんが……」
「心配だなあ」

目で追っていた高耶さんの姿が見えなくなった時、先週の出来事を思い出した。
あの日も日曜で、あの男が現れて……。

「心配なので様子を見て送ってきます」
「ああ、そうした方がいいな」

走って高耶さんを追った。土手の道を過ぎていつも通る道に入ると、ようやく高耶さんの背中が見えた。

「た……」

声をかけようとした瞬間だ。あの男が高耶さんの目の前に立っていた。
何やら会話をして、高耶さんの首が少し項垂れたと思ったら、男が先週の私のように高耶さんの肩を抱いて連れ去ろうとしている。
高耶さんもなぜか従順について行こうとしている。

「高耶さん!!」

大声で叫んで止めたが、振り向いた高耶さんが私を見て恐れ戦いた。
あの男の腕を取って走り出してしまった。

「え……」

あの男を拒否していたのは高耶さんのはずだったじゃないか。なぜ私を避けてあの男と手を取り合って逃げるのか。
もしかして何か脅されているのか。
頭の中をその考えが支配し、絶対に高耶さんを取り返さねばという気持ちになり追いかけた。

しかし去年まで高校球児だった少年と、そのコーチの足の速さは私などが追いつけるものではなく、角を2回曲がったあたりで撒かれてしまった。

「どこに……」

あたりを探し回ったが見つからなかった。高耶さんをあの男に渡してはいけないのに。
土手に戻って自分のバッグから携帯電話を出して高耶さんにかけた。しかしまったく繋がらない。

「どうした?」
「あ、その」

ダメだ。色部さんといえども高耶さんの退学の秘密を他人には話せない。
詮索されて高耶さんが傷ついたら仰木家にも迷惑がかかる。

「高耶さんの家の人に連絡を……」
「そんなに具合悪いのか?」
「ええ、ちょっと。とりあえず付き添いますから、私も抜けます」
「ああ」

走って自宅に戻り、手早く着替えてから仰木家に向かった。


つづく

 
   

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