驟雨

しゅうう


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仕事は少し残っていたが、定時で切り上げて亜沙子さんに電話をした。
修羅場になるのが容易に想像できたから、私のマンションに呼んで話し合いという名の別れ話を始めた。

「どうしていきなり結婚できないなんて言ったんですか?」
「好きな人がいるんです……」
「ええ?」

驚くのも当たり前だろう。そんな気配は微塵も見せなかったし、亜沙子さんが気が付く要素がないのだから。
それは相手が高耶さんという特殊な相手だというのもある。
そして亜沙子さんと親密になる前に高耶さんとの肉体関係や愛がすでにあり、さらに私は高耶さんに弄ばれたと思い込んで諦めるために亜沙子さんを抱いた。
その状態の私が亜沙子さんの中では「普通の直江」なのだ。普通なんかじゃない、最悪の気分の私なのに。

「その人とは、いつから……?」
「亜沙子さんと出会う前から好きだったんだと思います……」

深く傷つけている。亜沙子さんに非はない。なのにどうしてこんなに傷つけなくてはいけないのか。
私の汚い身勝手さのせいで傷つく女性がいるのに、どうして私はそれを止めることが出来ないんだろう。

「好きになってはいけない人を好きになってしまって……忘れるために亜沙子さんと付き合ったようなものなんです」
「最初から?でも、違う気がします。最初の頃の直江さんは、そんなこと考えてるように見えませんでした」

もっと罵って欲しいのに。全部をぶつけてもらっても、受け止める覚悟は出来ているのに。
どうして亜沙子さんは優しいんだろう。

「だから……あなたと付き合い出してすぐに、その人と関係を持ってしまって……でも諦めなくてはいけない相手だから……忘れるために亜沙子さんを抱いて、結婚してしまえば……丸く収まると思っていたんです……」
「……そのために結婚しようって言ったの?」
「そうです……。なのに昨日、その人しか愛せないのだと自覚してしまいました……」

そこまでは私に気を使って話していたのに、決定的な言葉を聴いてしまうと顔を覆って泣き始めた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。このまますべて嘘だと言って抱きしめてしまいたい気持ちもある。
でももう戻れない。
高耶さんしか愛せない。

「ごめんなさい……あなたはとても素晴らしい女性だと、今でも思っています。だけど、もう、あなたを愛せない」

たった2ヶ月間の交際期間でも、亜沙子さんとの付き合いは楽しかったし、温かな気持ちを何度も味わった。
嘘でも慰めでもなく、本当にこんなに素敵な女性と結婚しないなんてもったいないと思う。
でも。

「山縣さんには私から話します。婚約破棄として慰謝料も払いますし、必要ならみなさんに私から説明もします。あなたがこれ以上傷つかないように、やれることは全部します」
「いえ……もう、いいです……いつまでも未練たらしくしたって、どうしようもないですもんね……お父さんにはわたしが話します……慰謝料も、たった数日間の婚約期間で、結納すらしていないのにもらえません……」
「全部、私が悪いんですから……私を悪者にして話してください」

涙を堪えながら、亜沙子さんは無理した笑みを作って最後の優しさを私にくれた。

「大丈夫。結婚の話を進めたとたんに気が合わないってわかる事例はたくさんあるから……。直江さんに好きな人がいるのも、誰にも言いません……だって、悔しいじゃない?自分が一番じゃなかったなんて、恥ずかしくて悔しいから、誰にも言えませんよ」

泣き笑いの彼女を見るのは二度目。そしてもうこれで最後になるだろう。
最後に家まで送って欲しいと言われた。もちろん夜道を一人で帰らせるつもりはなかったから喜んで送った。
初めてキスをした児童公園で、向かい合って手を繋ぎ、お礼と、謝罪をした。

「最後にキスしてください。わたし、直江さんを好きになって悔しいけど、嬉しかったから。直江さんみたいな人に少しでも愛されたのは私にとって自慢でもあるし」

心の底から幸せになって欲しいと願いながらキスをした。

「ありがとう。おやすみなさい。また練習で会いましょうね」
「ええ」
「じゃあ」
「……ごめんなさい」
「……さようなら」

児童公園の真ん中で、彼女が見ていないのを承知で頭を下げた。

 

 

練習の日に山縣さんにお詫びをしようと近づいたら、逆に頭を下げられた。不甲斐ない娘で申し訳ない、と。
亜沙子さんは本当に私のせいにせずに、結局は気が合わなかったとだけ言ったそうだ。
私もこちらこそ悪いのだと何度も頭を下げて謝った。

高耶さんも練習に参加していたが、思ったとおり亜沙子さんは来ていない。
チームには私と山縣さんから婚約取り消しの説明をして、みんな驚いていたが気を落とすなと慰められた。
どうやら私が振られたことになったようだ。

「直江」
「あ、高耶さん」
「……別れたんだな」
「ああ、そうでしたね。高耶さんにまだ話していなかったんでしたっけ」

高耶さんと会えるのは土日ぐらいしかない。昨日の土曜は高耶さんが学校の補習で遅くなって会えなかった。

「本当はなんて言って別れたの?」
「……好きな人がいるから、結婚は無理だって言ったんです」
「オレのこと?」
「当たり前でしょう」
「……今日、練習終わったら直江んち行っていい?話があるんだ」
「え、ええ……」

なんの話なのか気になって練習に身が入らなかった。何度か高耶さんや色部さんに注意をされてやる気を取り戻すが、すぐにまた気になって失敗を繰り返した。
改まって高耶さんに話があると言われると、なんとなく身構えてしまう。

練習後のファミレスを断って家に帰り、少し散らかった家の中を片付けていると高耶さんがやってきた。
今日は一旦家に帰ったから私服での訪問だ。
今まで二回ともユニフォーム姿だったから新鮮な気がする。

「どうぞ」

リビングに通してオレンジジュースを出して、隣りに座った。

「話があるんでしょう?」
「ああ、うん。あのさあ、直江は……オレが直江だけを好きでいた方がいいのか?」
「は?」

身構えて正解だったか。なんだろう、この違和感のある質問は。

「それはもちろん。私が言えた義理ではありませんが、あの男と二股なんて嫌ですよ」
「そっか。気になってたんだ。前にオレが山縣さんの奥さんのおにぎりを食べてた時に言ったことを、直江がすごく嫌そうにして聞いてたから」
「……なんでしたっけ?」
「亜沙子さんのおにぎりだから食いたくないって話」

そういえば。あの時私は高耶さんの嫉妬深さに戦慄したのだったっけ。
でもそれ以上に私の独占欲の方が業が深いことを知ったのだから、もうそんなことは気にしていない。

「直江の顔が真っ青になったの見て、オレはそこまで好かれてないんだなって思って……。ちょっとってゆうか、すごくショックで、そんな時にコーチが現れたから、つい、気持ちがそっちに行きそうになって……、直江のことなんか好きじゃないって言っちゃったから……」

そうだったのか。

「もしオレがまだコーチのこと少しでも好きなら、直江も気が楽かと思って未練あるふりしちゃったんだ」
「私も、高耶さんに好きじゃないなんて言われて……それで自覚したんです。あなたを狂いそうなぐらい愛してるって」
「前にも話したと思うけど、もうコーチのことは好きじゃないんだ。もうどうでもよくなったって言うべきかな。今は直江しか好きじゃないよ。直江が好きだよ。直江が結婚するって聞いて、本当に死にたくなったんだから。またコーチの時と同じで、オレは2番目でしか生きる価値がないのかって」

私に限って高耶さんを2番目にしておけるわけがない。いつだって一番でしか考えられないのに。
でも、高耶さんの気持ちが私にあることがわかってよかった。

「直江をものすごく、信じてもらえないぐらい好きになってもいいか?」
「……お願いします。私も、あなたをそれ以上に愛しますから」
「うん」

初めての屈託のない笑顔に驚いた。そういえばまだ彼は子供なのだ。
いくら体格や顔が大人びていても、中身は高校生で大人と子供の間を彷徨っている繊細な年頃だ。
高耶さんが傷つきやすいことは知っているが、それに加えて年齢による繊細さを忘れてはいけない。

「そういえば、高耶さん」
「んん?」

出されたオレンジジュースを美味しそうにコクリと飲んで目だけをこちらに向けて「何?」と言った。

「あの男ですけど」
「コーチ?なんかあった?」
「橋の下で話してた日、高耶さんが帰ってから彼から聞いたことがあるんですけど」
「……二人で話したんだ?何を?」
「彼は高耶さんをいつか迎えに行くって言ってましたけど……」

たぶん簡単にあしらって終わりだと思った。なのに高耶さんはとても複雑そうな顔をした。

「もし彼が本当に迎えに来たら、どうするんですか?」
「……でもオレは直江のことが好きだし」

高耶さんの顔に「どうしよう」と書いてある。未練はないが、困惑はあるのだろうか。
その困惑は私が引導を渡すしかないのだろう。

「もし来たとしても、私が絶対にあなたを離しませんけどね」
「……うん、それでいい」
「その時になって離れたいと言っても、無駄だってこと、今からきちんと頭に入れておいてくださいよ」
「わかった」
「それと」
「それと?」

なんとなく警戒心を向けられているような気がする。
これ以上の騒動や問題が起こって欲しくないだけという表情だ。

「あなたがコーチと駆け落ちすることが出来ないのは、何か心残りがあるからだって聞きましたが、なんですか?」
「ああ、それか……直江のことだよ。あの時はまだ亜沙子さんと別れてなかったから、オレがどうなるかわかんなかったし。それともう1個あって」
「なに?」
「野球。草野球チームやってて気が付いた。オレ、本気でもう一回野球したいんだ」

やっぱり野球に未練は残っていたか。
あの男に未練があるのはどうかと思うが、野球にだったら嫉妬もしないしむしろ応援したい。
噂でしか知らないが、高耶さんほどの才能があるのなら続けて欲しい。

「だから大学野球に行こうと思って。でもオレ頭悪いから受験に受かるかわかんないだろ?そしたらプロテスト受けてもいいかなって思ってんだ」
「……だったらなおさら駆け落ちはできませんね」
「そうか」

少年らしい大きな夢だ。でも高耶さんなら不可能ではないという所が発言に重みがある。

「だからとりあえず、今のチームで地区優勝するからな」
「は?地区優勝?」
「オレがいて優勝できないなんて許せないから。直江も草野球だからってナメてかかったら許さないぞ」
「はい、頑張ります」

気が付いたら夕方になっていて、高耶さんを家に帰さないといけない時間が迫ってきた。
あの男を警戒しているご両親が高耶さんの長時間の外出を心配しているのも知っているし、私と親密になっている姿を見たら疑うかもしれない。

「送りますから、帰りましょう」
「……しなくていいの?」
「高耶さんを抱きたいのは山々ですけどね、それだけで好きになったわけじゃないですから。あなたを大事にしたいんです。家のことも、野球のことも、体のことも、あなたのすべてを大事にするためには、今日は帰らないとダメだって私にもわかるんですよ」
「ふーん」
「その代わり、もう少し警戒が解けたら泊まりに来てくださいね」
「うん」

まだ夕日が落ち切らないうちに高耶さんを家まで送り届けた。
来週も練習が終わったらマンションに行っていいかと聞く彼に、今日のように家に一度帰ってからだったらかまわないと話していると、声に気付いた高耶さんのお母さんが出てきた。

「今日も送ってくれた」
「いつもすみません。よかったら夕飯一緒にどうですか?いつもお世話になりっぱなしで申し訳ないでしょう?お礼にもなりませんがぜひどうぞ」
「いえ、私は……」
「食ってけば?」
「……でも」
「いいから食ってけって」

強引に連れ込まれて初めて高耶さんの家に入った。普通の一軒家で、普通の家族で、美味しい家庭料理で。
なのにどこか空々しいところがある。高耶さんに『男の恋人』がいたせいだろうか。
妹の美弥さん以外は高耶さんに気を使って話している。
その空気に耐え切れなくなってきた頃、美弥さんが高耶さんの少年野球時代の写真を持ち出してきた。

「お兄ちゃんどれかわかる?」

その写真はリトルリーグでの優勝記念の集合写真だった。
ひとりひとりの顔を見ながら探してみると、前から2列目の中に高耶さんがいた。

「これですか?」
「あたり!」
「あまり変わってませんね」

高耶さんの顔は小さい頃と比べれば格段に大人っぽくはなっているが、だからといって丸っきりの他人のような顔に育ったわけでもないらしい。
特に目が印象的ですぐにわかった。

「オレの部屋に甲子園出た時の写真あるよ。見る?」
「ええ。ぜひ」

1年生なのにレギュラーで出場したという甲子園の写真ともなればぜひ見てみたい。
嬉しくなって立ち上がったが、ご両親にとっての疑いの芽になってしまうかもしれなくてためらった。

「そうだな、高耶。部屋で見てもらえ」

すかさずお父さんがそう言った。顔が強張っているのに、私を警戒する様子でもない。
お母さんまでも「そうしたら」と言い出した時に気が付いた。
ご両親にとって『甲子園』はあのコーチと高耶さんの関係を思い出してしまうタブーなのだと。

「早く来いって。美弥、お茶入れて持ってきて」
「うん」

高耶さんの部屋に入ると思ったよりも整頓されていて、もう少し散らかっていてくれた方が私生活をかいま見られて良かったのに、と残念に思った。
しかし普段からこうなのだろう。これも彼の一面だ。

「これこれ」

本格的なアルバムを出してきた。
これは学校側が甲子園に出場した生徒たちに配るものだそうで、普段の練習の写真も出場した試合の写真も貼ってあった。
高耶さんが1年の時はベスト8入りだけで終わってしまったそうだが、それでも高校野球としてはたいした成績だ。

「すごいですね。本当に甲子園だ」
「見直した?」
「元から尊敬してますよ」

美弥さんがお茶を持ってきてくれて、それを飲みながら2人でしばらく話した。
学校での補習の話が終わり、彼の声が甘えるような感じになってきた時、彼の方からキスをしてきた。

「ダメです」
「なんで?」
「親御さんに見つかったら私まで接近禁止になります」
「……世間体の方が大事なのか」
「そうじゃありません。高耶さんが大事だから、世間体も大事にしないといけないって言ってるんです。私のマンションならいざ知らず、親御さんのいる家でキスなんかして見られてしまったら大変です」

傷ついた顔をしたにはしたが、これは私も譲れない。少し強めに言ってでも理解してもらわないと。

「さっき言いましたよね?高耶さんを大事にするためには、ダメなものはダメと境界線を作らないといけないって」
「直江は変なところで大人だな。オレのこと感情でさんざん抱くくせに」
「それとこれは違うでしょう?」
「違わない」

これが高校生というものなのか?子供というものなのか?
もしかしたら私と高耶さんの仲を阻む最大の問題は高耶さん自身なのかもしれない。

 

 

 

 

 

つづく

 
   

波乱の予感です。

   
         
   

12へススム

   
         
   
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