マンションに帰ってからひとりでゆっくり考えた。
高耶さんのことは本当に純粋に愛している。
いつから、と聞かれれば、たぶん最初からだろう。なんとなく人を寄せ付けない雰囲気が寂しげで、でも孤高で、放っておけない気持ちにさせた。
そして時々見せる傷ついた表情が男心を大きく揺さぶった。支配したい、でも気が付いたら支配されているあの感覚が私を捕らえた。
これは亜沙子さんに対して持っていた気持ちとはまったく逆のもので、癒されたいとか、安穏とした平安を得たいとか、そういった『普通の生活』を放棄してでも手に入れたい激情だった。
その渦に巻き込まれてしまったらもう抜け出せない。
私は高耶さんを誰にも渡せないほど愛している。
しかしそれは分別のある大人である私が唯一熱狂できることで、それ以外のものは『普通に』こなさなくてはいけない。
仕事もしなくてはいけないし、友人や近所との付き合いもしなくていけない。
高耶さんだけを夢中で追い続けることは不可能なのだ。
でも高耶さんはそれをしろと言ってくる。
自分だけを追いかけて、仕事も他人も見るなと言う。
まだ高耶さんは分別がつかない年齢なのだろうか。高校生ともなればそのぐらいはわかるだろうに。高耶さん特有の感覚なのだろうか。
もし高耶さん特有の感覚であるとしたら、そうとうに甘やかされて育てられていたとしか思えない。
予想であって事実ではないが、リトルリーグからシニアに上がって、そこから推薦で高校野球の名門高校に入学したという経路であれば、高耶さんは野球以外のことを、例えば躾や人間関係においての大事なことを親御さんから教わっていないのだろう。
そして初めて好きになった相手が男で、その男にも私と同じように強制していたのだとすると、関係がバレた時に男が高耶さんから逃げ出すために妻子を選んだことと話が繋がる。
そして男は妻子に捨てられて、誰よりも自分に夢中になってくれた高耶さんとヨリを戻したくなっても当然かもしれない。
男の思考は私からしてみれば異常だ。
妻子がダメなら高耶さんなんて方程式は人間として有り得ない。ほんの少し頭に血が上っているのだろう。
頭に血が上ったままで、しかも1年近く離れていたから、高耶さんの性格も忘れているかもしれない。
あの人は『常に自分が一番愛されていないと気がすまない』人間であり、『他人がどう思うか』を考えられない人間だということを。
私はそれもひっくるめて愛していると断言できる。
だが、やはり人として生きていくためには高耶さんのその思考は危険極まりない。誰かが矯正してやらないといけない。
自分と他人の間には越えられない境界線があるのだと知らなくてはいけない。
私にそれが出来るのだろうか。彼を純粋なままにして。
草野球チームに関して、ということで一度高耶さんのご両親に話をすべきかと悩んだ。
考えながらいつものように小料理屋で夕飯を食べていると、色部さんがやってきた。
「どうした、暗い顔して」
「色部さん……」
「悩み事か?亜沙子さんと婚約がダメになったのを悔やんで、とかか?」
返答に困る質問をしてくれてありがとうございますと皮肉を言ってから、色部さんならもしかして、と思う気持ちもあって高耶さんの話をした。
「高耶さんなんですが」
「ああ、どうかしたのか?」
「ええと、内密にして欲しいんですが、高耶さんがストーカーまがいな人間に言い寄られてたんです。それで現場を発見した私が助ける形になって、それ以来仰木さんに頼まれて高耶さんと色々話してるんですが……。なんというか彼は他人との境界線がうまく見つけられないようなんですよ」
「境界線か。確かにそうかもな。あの人見知りはひどいもんな」
「いえ、そうではなくて……反対なんです。最初はものすごく人見知りなんですが、少し慣れると一気に距離が縮まりすぎて、こちら側の立ち入って欲しくない境界まで見境なしに入り込んでくるという感じで」
私の話に色部さんが意外そうな顔をした。あの高耶さんが他人に慣れ親しむ姿が想像できないようだ。
「それは本当か?」
「ええ。だから少し困っていまして」
「いや、困ることはないだろう。高耶くんが親しむんならいいことじゃないか」
ダメだ。私の誤魔化した話では的確に伝えられないばかりか、色部さんは平和すぎる。
「いいことなんですが、過剰なんです。それで、もしかして高耶さんはすごく甘やかされて育ったのではないかと思い至って」
「あー、確かにな。それはある。高耶くんは小さい頃から野球の才能が他の子よりもずば抜けてて、野球だけをやっていれば親御さんは叱らない、そんな環境だったはずだ。人間関係よりも野球で誰よりも飛びぬけろという方針だったんだろう」
やっぱりか。それじゃ高耶さんがまともな友達を作ったりして、自然に人との距離を測れる子に育つわけがない。
周りはみんなライバルという環境が小さい頃からつい近頃まで続いていたのだから。
「それでですね、草野球を通してそういう所を教えていきたいと思ってたんですよ」
「いい考えだな。しかしどうやって?」
「ですよね……」
大人ばかりの草野球チームで友達を作ることは難しい。最近はファミレスにも行くようになってきたが、私と会う時間を作りたがるからもう参加はしないだろう。
「そうだなあ、やっぱりここは大人がビシッと躾けてやるべきなんだろうな。ちやほやしないで厳しく」
「ええ……」
「その方針でやってみるか?とりあえず。もし逆効果になりそうならすぐに方向転換すればいいんだ」
どう転ぶかわからないが、やれることはやってみるべきだ。
チームの大人たちがよそのお子さんに厳しく出来るかは不安なところだが、チームという1個の集団の中でなら高耶さんもきっと厳しくされてもひどく傷つくことはないだろう。
次の練習からそれは始まった。高耶さん以外のチーム全員に状況を話し、どちらにしても試合のためにもう少し厳しくなるぐらいなら高耶さんも不審に思わないだろう、と全員一致で決まった。
しかしそれは無駄に終わった。
練習中に厳しくされるのは野球のうまい高耶さんではなく、下手な私たちだったのだから。
地区優勝すると意気込んでいる高耶さんが練習を手抜きするわけもなく、なかなか上達しないメンバーが逆に高耶さんに怒られていた。
いつもより激しい練習に、休憩時間はみんなグッタリしてしまい高耶さんの矯正のことなど頭から失せていた。
「直江」
「はい」
「直江からもうちょっと真面目に取り組むようにみんなに言ってくれない?」
もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない。
「全員真面目に取り組んでますよ。高耶さんだけが特別に野球がうまいんですから、もう少しみんなの気持ちになって理解してあげたらどうですか?」
「でも今日から練習きつくしようってみんなで決めたんだろ?勝ちたいから頑張るんなら、みんなもこのぐらいのきつさの方が納得すんじゃねえの?」
正論だ。
こればかりは出来もしないことをやろうとしてしまった私たち大人の完敗だ。
「そうですけど、真面目に取り組んでいるのは確かなんですから、そういう言い方は良くないですよ」
「ふうん。そうゆうもんか?」
「そうです」
なんだかわかっていないようで、首をかしげている。
練習後半は高耶さんも多少周りのレベルに合わせてくれるようになり、さっきまで肩で息をしていたみんなも集中力を切らさずに取り組めた。
高耶さんも周りに合わせることは出来るのだ。ただそれを理解するためには他人からの言葉が必要なだけで。
これならすぐに、とはいかないまでも、他人との距離をうまく取れるようになるかもしれない。
その日は全員が疲れきってしまい、帰りのファミレスでの食事は誰も参加しなかった。
私もマンションに帰り、2時間ぐらい家の中のことをして過ごしていたら高耶さんが来た。
しばらく野球の話をして、誰々は何が苦手だからこういう練習が効果がある、などと一通りの説明を聞いた。
せっかくのアドバイスだからとメモを取り、来週にでも役立てることにした。
「あのさ」
「なんでしょうか」
「今日はエッチできる?」
先週しなかったのを気にしているのか。高耶さんを大事にしたいから先週は帰した。
今日は断る必要もない時間帯なので、高耶さんの隣りに座ってキスをして体を触った。
「直江はオレといつまで付き合い続けるつもりでいる?」
「一生ですよ」
「オレはプロ野球目指すけど、それでも?」
「ええ。あなたが私を捨てるのであれば、その時は仕方がありませんけどね」
「そんなのないよ」
ベッドに入ってからも高耶さんの質問が続いた。これは私への愛情表現だと思っていいのだろうか。
私のことを知りたいからだと思っていいのだろうか。
その週、会社帰りに亜沙子さんと電車の中で会った。
気まずい雰囲気を出さないようにお互いに気を使っているのがわかったが、そうやってでも話が出来るのは彼女の性格の良さだと思う。
また友人としてどこかに食事へ行くぐらいなら二人で会うのもいい、という話をしていた時だ。
「直江っ」
振り向くと高耶さんがいた。今日も補習で遅くなったようだ。
「今帰りですか?」
「……直江は?なんで亜沙子さんといるんだ?」
「電車の中で会ったんですよ。高耶さんとも同じ電車だったんですね」
キッと強い目線で私を睨むと、亜沙子さんに向かって言い捨てた。
「なんで別れた男と一緒にいられるんだよ。もう平気になったとか?そんなに好きじゃなかったとか?」
一瞬呆気に取られてしまったが、亜沙子さんの顔を見たらそれどころではなくなった。
泣き出しそうな顔をしている。みるみるうちに顔も耳も赤くなり、目が潤んできてしまった。
「高耶さん!!なんてことを言うんですか!!」
「だってそうじゃん。直江も直江なんだよ。亜沙子さんだって泣くぐらいなら直江なんか無視して帰ればいいのにさ」
「すみません、亜沙子さん。高耶さんの言うことは気にしないでいいですから」
「なんだよ、どうしてオレが」
これ以上高耶さんに喋らせてはいけないと思い、言葉を遮って睨みつけた。
今度は高耶さんが泣き出しそうになったが、今はなんの罪もない亜沙子さんを守るべきだろう。
「家まで送ります。なるべく人の少ない道を通って帰りますから」
ハンカチを差し出して零れそうな涙を拭かせた。人通りの少ない道でなら少し泣いていても暗さが隠してくれるだろう。
背中を押して歩かせ、何度も高耶さんの言葉は気にしなくていいとフォローをした。
「まだ高校生ですから。それに野球漬けの生活しか送ってこなかったから人の気持ちがわからないんですよ」
「それは父に聞きました……なんか、可哀想な子なんだって言ってました……」
「ええ……可哀想な子なんです……」
恋人とも友人とも付き合い方を知らない。相手の気持ちを考えようとしないから迷惑をかけて嫌われてしまう。
高耶さんを悪く言うつもりはなかったが、事実を述べているだけで陰口のようになってしまう。
「でも悪い子じゃないんですよね……」
「悪い子とは違いますけど、このまま大人になってはいけないでしょうね」
「さっきのも悪気がないだけにグサッときました」
「……だからやっかいなんですよ」
亜沙子さんの家に着いて玄関先で別れた。もう泣いてはいなかったが、まだ声に元気がなかったということは今晩ぐらいはひどく落ち込むだろう。
さあこれから高耶さんにお説教をしなくては、と踵を返すと、児童公園から人影が飛び出してきた。
高耶さんだった。
人通りが少ない道を選んで遠回りをしてきた私たちよりも先に児童公園に着いていたのだろう。
「高耶さん」
お説教モードで一歩を踏み出したら、いきなり左頬を叩かれた。
「おまえなんかもういらない!!」
そして全力で走って行ってしまった。
今、高耶さんは泣いていなかったか?
つづく |