高耶さんの引越しの当日、色部さんが工場で使うトラックを出してくれた。
色部さん、私、高耶さんの3人で荷物を移動させる。お父さんは引越しにお母さんを立ち会わせると悪い意味での刺激になってしまう心配から、美弥さんとお母さんを連れて出かけているそうだ。
行き先はお母さんの実家で、簡単にこちらへ戻れない距離らしい。
高耶さんの部屋から持ち出すものは少なめだった。必要なもの以外は置いて行く。いつでも帰っていい家なのだから神経質に揃える必要もないだろう。
一人用の家具などは先にアパートに入れておいたため引越し作業はすぐに終わった。
ワンルームの小奇麗なアパートは家賃も張りそうだったが、高耶さんが快適に暮らせるなら多少の無理はしなくては、というお父さんの気遣いが見えた。
「もうこれで終わったか?」
「うん、終わり」
「じゃあ俺は帰るけど、直江さんもトラックに乗ってくか?」
「いえ、私は歩いた方が早いですから」
高耶さんのアパートから徒歩5分以内のところに私のマンションがある。
このアパートを見つけたのは高耶さんのお父さんだが、私のマンションのそばにしたのは高耶さんからの希望もあったのだろう。
色部さんが帰ってから二人で片付けをし、真新しいベッドに座って休憩した。
なんだか二人きりで隠れ家に来たみたいだ。
「直江、キスして」
「はい」
部屋が狭いせいかキスをすると世界中に二人きりしかいなくなった感覚になる。
高耶さんも同じように思ってくれているらしく、うっとりした表情で抱きついてくる。
「同居はダメだったけど、直江と二人きりになれるのは変わらないからいいや」
「そうですね……だからって無用心なことはできませんが」
「うん、それは気をつけような」
そこでふとデジャヴが起きた。
あの男はどうなのだろう。
もし高耶さんが一人暮らしをしていることがわかれば、親に守られていた時と違って接触がしやすくなる。
抑えていた衝動が再び暴発するかもしれない。高耶さんの元恋人のコーチは。
「あの、高耶さん。コーチに関しても気をつけてくださいよ?」
「え、だってもう来ないんじゃないかな?オレが直江の方が好きってわかれば……」
「そうかもしれませんが……高耶さんが家族と離れて暮らしているとわかったら、強引にヨリを戻そうとしてくるかもしれないんですよ?」
「ヨリなんか戻さないよ」
高耶さんの心情的にではなく、コーチの心情的にだ、と説明した。まだカウンセリング途中なので他者の気持ちや行動を予想することが下手だ。
ましてや今現在高耶さんが興味を持っていない人間に関してはまったく予想もしない。高耶さんにとっては平素から顔を見て話をする相手の気持ちを考えるだけで精一杯なのだろう。
「もしまたあの男を見かけたり、会ったりした場合は必ず私に教えてください」
「うん。でも大丈夫だと思うよ」
他者の気持ちを想像することの下手な高耶さんには危機感が足りない。自分が大丈夫だと思ったら誰が何を言おうが大丈夫だとしか思わない。
こういう危なっかしいところに目が離せなくなっていつのまにか好きになった。
でもこれでは一人暮らしの意味も、カウンセリングの意味も、自身とお母さんの努力もないものになってしまう。
「大丈夫だと油断しないで、周りに気をつけて行動するんですよ?」
「わかったってば」
そして私は知った。本当の意味で高耶さんを守れるのは、現状では私しかいないのだと。
私の怪我や高耶さんのカウンセリングで草野球チームは結局優勝できなかった。
しかし地区でベスト8入りできただけでも名誉だとみんな喜んだ。この結果は高耶さんの功績が大きいだろう。
そして草野球の大会は終了し、私たちはまた日曜だけの練習の日々に戻った。
ある日、亜沙子さんが久しぶりに差し入れを持ってやってきた。
私と別れてから一度も来なかったのだが、最近ようやく失恋の傷が癒えたとこっそり教えてくれた。
私を怪我させた高耶さんに対しての怒りも収まったのだろう。
「あ、そうだ。高耶さん!」
キャッチボールをしていた高耶さんを呼んだ。
「なに?」
「亜沙子さんに言わなきゃいけないことがあったでしょう?」
「あ……そっか……。亜沙子さん、前にひどいこと言ってごめん。あれからちゃんと反省した」
「もういいよ。傷ついたのは確かだけど、高耶くんが謝ってくれるならもう気にしないから」
たぶん亜沙子さんは私にはもったいないほどの女性だったのだろう。だから運命がアクシデントを起こさせたのかもしれない。
そしてその運命という名の神は、私に高耶さんを与え、高耶さんに私を与えた。
お互いに必要とする相手を選ばせるために。
「オレ、今、カウンセリングに通ってて、そんで色々今までダメだった自分に気が付いてきたってゆーか……だからもうおにぎりも食べられるから」
「そうなの?おにぎり食べられるようになったの?」
「うん。亜沙子さんのなら食べられると思う」
今回の一連の流れで一番傷ついたのは亜沙子さんかもしれないのに、そんなことを微塵も感じさせない笑顔で高耶さんに笑いかけた。
高耶さんも亜沙子さんに笑顔を見せる。亜沙子さんは初めて見た高耶さんの笑顔に見とれていた。
「じゃあ、あとで食べてね?」
「うん」
その日は高耶さんもおにぎりを食べた。
さすがに亜沙子さんと仲良くするつもりはなかったらしく、必要なこと以外は話さなかったが。
それでいい。
いきなり人が変わったように誰とでも親しくできる人間はいないのだから。
練習後のファミレスを断って高耶さんを送りながら帰宅した。私のマンションよりも練習場所のグラウンドに近い高耶さんのアパートまでは徒歩で数分だ。
帰りがけに高耶さんがニヤニヤしながら拳を差し出した。
「なんですか?」
「なんだと思う?」
手を開いて見せるとそこに鍵があった。
「オレのアパートの合鍵。父さんにも許可もらってるから持ってて」
「……恋人だって話したんですか?」
「話してはいないけど、直江に合鍵持っててもらいたいって言ったら、いいよってさ」
鍵を受け取るとせかされるようにして自分のキーホルダーにつけさせられた。本当にいいのだろうか。
「父さんから伝言。信用してますって」
「……ある意味脅迫ですね、それ」
「オレもそう思う」
高耶さんは一回帰ってから着替えて私のマンションに来るそうだ。
荷物を置いて着替えて来たとしても合計で15分もかからずに来られる。
「腹減ったから直江んちでなんか食いたい。一緒に食べない?」
「じゃあスパゲティの準備をしておきますよ。タラコクリームでいいですか?」
「うん、それ好き」
すぐに行くからと笑顔で手を振ってアパートに入って行った。
今日はスパゲティを食べたら腹ごなしに散歩をして、高耶さんが好きなケーキを食べに行ってみようか。
前に雑誌で見たケーキ屋が川沿いにあったはずだ。
タラコクリームを作って後はスパゲティを茹でるだけになった。
高耶さんはまだ来ない。
さっきアパートの前で別れてからもう30分以上は経っている。ちょっと遅いと思って携帯電話を見たがメールも着信もなかった。
いつもなら5分遅れるだけでもメールをくれるのに。
「……まさか何かあったのか?」
私のマンションと高耶さんのアパートは歩いて5分ほどで、道も一種類の通り方しかないからすれ違うこともないだろうと思って迎えに行くことにした。
しかし道で高耶さんに会うことはなく、とうとうアパートに辿りついてしまった。
もしかしたらシャワーを浴びてくるつもりでいるのなら30分以上かかるのは仕方がない。
部屋の前に立つと中から言い争いをしているらしき声がした。お父さんでも来ていて何か怒られているのかも知れない。
諦めて帰ろうと思った時、嫌な胸騒ぎがした。今、帰ってはいけない、と。
ドアに耳をつけて中の声を聞いた。高耶さんの小さい叫び声が聞こえる。喘ぎ声な気もするし、泣き声な気もする。
そっとドアノブを回してみたが鍵が閉まっている。
真っ正直にインターフォンを押しても良かったが、それではダメだと私の勘が言っている。
キーホルダーを取り出して、さっき高耶さんから貰った合鍵をシリンダーに刺した。
つづく |