異変に気が付いたのは携帯電話の利用明細が来なかったとき。
貧乏なオレはいつもいくら使ったかが気になってたから、明細が来なかったのは不思議な上に不審だったんだ。
月曜から金曜の朝9時から夕方6時まで、本屋のパートタイムで8時間労働。
火曜、木曜、金曜の夜はショットバーで夜8時から深夜1時までのアルバイト。
これが仰木高耶の生活だった。
高校在学中に就職活動をしたが、地元の松本ではどこにも採用されなかった。
どうせフリーターになるのなら、就職先の多い東京に出てフリーターをやればいい。松本よりバイト代も高い。
これ以上は親に面倒を見てもらうつもりはなかったので貯金を下ろして上京した。
バイト先はすぐに見つかり、フリーターということで勤務先の本屋からパートタイムを勧められた。
健康保険がある。福利厚生も受けられる。税金も年金も会社でやってもらえる。有給ももらえる。
高耶がその話に飛びついたのは言うまでもなかった。
しかし正規で税金や保険を支払うとなると、フリーターの身では金銭的に不自由する。
そんなわけでショットバーのバイトも始めた。
大型チェーン店の本屋で働き出して半年、仕事にもずいぶん慣れ、担当も与えられた。
高耶が担当しているのは人文学。一口に人文といっても幅が広いので覚えるのに苦労した。
しかし本の品出しをしながら人文に興味を持つ客を観察するのが高耶には楽しみのひとつでもあった。
ジャンル的に偏りはあるものの、客がどういった主観を持ち、どう人生を捉えているのかを垣間見れる瞬間でもあったからだ。
夜は自宅から歩いて15分程度の場所のショットバーで働く。高耶は愛想は悪かったが外見がいい。
洒落た内装の酒を出す場所では愛想の次に外見が大事だ。
こちらも人間観察が楽しい。酔うと性格が変わるサラリーマン。いつも陽気な職業不詳のオジサン。
お喋りが大好きな女の子たち。いつもひとりで来て黙って飲む外国人。さまざまな人種が集まる。
シェイカーは振れないが簡単なカクテルや料理を作るのが主な仕事で、最近では客と談笑する程度には愛想もできた。
そんな生活の中、異変が起きた。
ショットバーの帰り道、トボトボと暗い夜道を歩いていると自分の後ろから同じ歩調で足音が聞こえる。
高耶の家は渋谷から歩いて帰れる場所なだけに帰り道は深夜でも人通りがある。
いつものことだと思って歩いていたのだが、どうにも気になる。同じ角を曲がり、同じ歩調だからだ。
最近、本屋のパートのオバサンに物騒な話を聞いていた。
このあたりで強盗が出るというのだ。主に一人暮らしの女性を狙ったもので、あとをつけて行ってマンションやアパートの鍵を開けたところで押し込まれる。
もしやその強盗かと思った。
高耶は背は高いが体が細い。腕力はそれなりにあっても押し込まれたらどうなるかわからない。
不安なまま、閑静な住宅街にある自宅アパートに近付いた。
遠回りしてコンビニに寄って、追っ手の顔を見てやろうと家と反対方面の角を曲がった。
やはり付いて来る。
真っ暗な商店街に煌々と光るコンビニの明かり。そこを目指しながら神経を背後に集中させる。
まだ付いてきている。
コンビニに入り外を見るが、ガラス窓に映っているのは自分や商品棚だけで、追っ手は見えずじまいだった。
では外に出てから確かめてやろうと買い物をしてから出た。いないようだ。
気のせいだったかと家路についたが、またもや足音がついてくる。
「……なんだってんだよ……」
ひとりつぶやいて曲がり角で振り返ろうとした瞬間、同じように角を曲がってきた男にぶつかった。
「うわ!」
「おっと」
高耶が転びそうなことろを力強い腕で支えられた。顔を見上げるとどこかで見た顔で……。
その男は本屋でたまに見かける客だった。人文コーナーによく来る目立つ男。何度か本の在庫を聞かれたこともある。
「あれ、アンタ……」
「……おや、あなたは、確か本屋の」
向こうも高耶を覚えているようだった。
「ちょっと悪いんだけど、付き合ってくんねえ?つけられてるみたいなんだ」
「つけられてる?警察、とか?」
「まさか。悪いことなんかしてねえよ。いいからうちまで来て欲しいんだ。知り合いのふりして」
「……事情があるようですね。いいですよ」
高耶の必死な形相で男は納得したようだった。肩を並べて今来た道を戻ってくれた。
「誰につけられてるんですか?」
「わかんねーんだよ。気味悪くてさ。バイト先からずっとつけられてる」
「何でしょうね……?」
高耶のアパートは木造2階建ての古い住宅だった。入り口に入居者全員分の郵便受けが設置されていて、そこに郵便物が届くようになっている。
「サンキュ。ここなんだ、オレんち」
「部屋まで行きましょうか?」
「……うん」
いい、と言おうとしたのだが、せっかくの厚意でもあるし、どこかに行こうとしていた男に助けを頼んでおいてハイ、サヨウナラでは後味が悪い。
しかも店の客だ。
「よかったら、寄ってって」
「え?ええ……かまいませんが……」
「あ、そうか。深夜だもんな。明日に差し支えるか?」
「いえ、それはありませんけど。いいんですか?」
「いいよ。お礼に何か飲み物でも出すし」
男を部屋に上げて電灯をつけた。散らかってはいても不潔な部屋ではない。
いそいそと散らかったものを片付けて、男が座れる場所を作った。
「座って。あ、オレ、仰木……」
「高耶さん」
「へ?」
「名札に書いてありますから、知ってます。珍しい漢字を使うなって思って見てたんです」
「そっか……で、ええと、お客さんは……」
つい本屋の客だということで「お客さん」という呼び方をしてしまった。
男はそれに笑いつつ、自己紹介をした。
「直江信綱といいます。物書きをしてるんです」
「物書き、って小説家ってこと?」
「まあ、そうですね。ペンネームは橘義明。主に人文の論文や論評を書いてます。あと小説も少し」
「……あ!橘義明って!」
高耶が担当しているコーナーで見かける名前だ。本業は大学の講師という紹介文を読んだことがある。
直江はわかりやすい行動科学の本を出しているので若者からお年寄りまで購入しており、最近何冊かの注文を受けた。
「それでよく人文コーナーにいるのか……」
「まあ、そうですね。他人の本を読むのも仕事ですからね」
男にコーヒーを出して、さっきコンビニで買ってきた揚げ煎餅を出す。
「ああ、これです、これ。私が買いに行こうと思ってたのは」
少し甘い粉が振ってある揚げ煎餅。昔からのベストセラーのその煎餅はどの年代にもウケがいいらしい。
直江と名乗った男もこれを買うために出たのだという。
「良かったら全部食っていいよ」
「そんなに一気に食べられませんよ。でも文章が進まない時にコレを食べるとなんだか和むんですよね。それでコンビニに出かけたんですけど……おかしな偶然に巻き込まれましたね」
「ごめん……」
「いえ、気にせずに。それで、どうしてつけられるようなことになったんですか?」
さきほどからずっと気になっているその件は高耶にも心当たりがなかった。
誰かの恨みを買ったわけでもなし、大金を持っているわけでもなし、いいとこのお坊ちゃまでもなし。
「わかんないんだよな。相手が誰だかも見当つかない。パートのオバちゃんから聞いたとこによると、押し込み強盗じゃないかって思うんだけど」
「それなら弱い女性を狙うでしょう?あなたは男性で、背も高い。自分が確実に勝てる相手でない限りは強盗は狙わないと思うんですけど……」
「そっかぁ……」
「……最近、何か変わったことってありませんでした?例えば、何か小さいものがなくなった、とか」
直江が言ったその一言で先月のことを思い出した。ちょっとした異変だったが確実におかしかった。
「そういや……先月、携帯の利用明細が来なかったんだ。問い合わせてみたら確かに送ったって言うんだよ。もしかして……それって」
「……携帯に怪しい着信はありましたか?」
「あ、あった……一回だけ、知らない電話番号から……イタズラかと思って出なかったんだけど、ずっと鳴ってて、薄気味悪かったな」
「盗まれましたね」
郵便受けに入っていた明細書から電話番号を知った人間がいる、ということだろう。
高耶の背筋に悪寒が走る。
「どこかであなたを気に入った人間がいて、その人物が盗み、あなたのあとをつけた、と考えるのが妥当じゃないでしょうか。あなたの生活パターンを知るために」
「そんなの……」
「ストーカー、ってやつでしょうね……」
まさか自分が被害者になるとは思っていなかった高耶は半分信じられない気持ちでいた。
しかし直江の言うことには一理ある。
「もしストーカーだとしたら、どうしたらいいんだ?」
直江は作家なだけに経験があるという。まったく知らない人間が直江の作品を読んでファンになり、直江の家を突き止めてストーカー行為に及んだそうだ。女性だったと直江は言う。
「その時は警察に相談しましたね。相手の証拠を掴んで、警察に話して、警告をしたんです。それで収まったので裁判にまでは発展しませんでしたけど……」
「警察……?」
「ええ、そこまでしないとストーカーというのはやめないらしいですよ。もし良かったら、その時の担当刑事さんを紹介しましょうか?アドバイスぐらいならしてくれますよ」
しかし郵便物がなくなったことと、一回だけあとをつけられたことだけでそこまで神経質になることはないだろうと高耶は思った。
本当に気のせいで、郵便物も配達中になくなってしまったのかもしれない。
「いや、いいよ。そんな大袈裟なものじゃないかもしれないから。もし気のせいだったらカッコ悪いし」
「ですが」
「ありがと。でも大丈夫だと思う。オレも気をつけるようにするから。ポストには鍵つけて、携帯にかかってきたら無視して。あとをつけられたって証拠もないわけだしな」
「……何かあったらいつでも言ってくださいね。他人事とは思えませんから」
そう言って直江は財布の中に入っていた名刺を高耶に渡した。
家がオフィスでもある直江は週に2回ほど大学へ行くだけで、毎日ほとんど家にいるそうだ。
住所は高耶のアパートから数分のマンション。
「もしまた帰りにつけられたら、私の家に逃げ込んでかまいませんから。仕事はだいたい夜中にしています。明け方まで起きてますからどうぞ気にせずに来てください」
「え、でも」
「コーヒーとお菓子のお礼ですよ。もし気が咎めるようならコンビニでこれを買ってきてくれればいい」
「……うん……サンキュ」
直江は立ち上がってアパートの玄関まで行った。外まで見送りをしようかと言ったが、それでは送った意味がないということで断られた。
「気をつけてくださいね」
「ああ」
「また本屋さんに行きますから、その時にでも様子を聞かせてください」
「わかった。もし何かあったら相談する。サンキュ。橘さん」
「直江でいいですよ。では、おやすみなさい」
直江が帰ってから高耶は携帯のアドレス帳に貰った名刺の番号を入力した。
橘ではなく直江と。
つづく
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