翌朝の高耶は眠そうな顔をして出勤した。
いつも深夜バイト後のパートでは眠そうにしていたが、今日は特にあくびが多い。
「おい、仰木。どうしたんだ?あくびばっかりしやがって」
社員の千秋修平が半分眠りながらスリップの整理をしている高耶に声をかけた。
「あ〜、昨日さ〜、3時間しか寝てねえんだよな〜」
直江が帰ったのは深夜の2時過ぎだったが、それから数時間、高耶は眠れずに過ごした。
あの足音は気のせいだったのだろうか、それとも本当につけられていたのだろうかと考えるうちに空が白み、新聞配達のバイクの音が聞こえるころにようやく寝入った。
「そりゃまたなんで?」
「色々あってさ……ふあ〜、ねみぃ」
「何があったか知らねーけど、客と店長の前ではあくびすんなよ。うるせーんだから」
「はいよ」
スリップの整理は在庫管理のためと、次回の発注のために欠かせない仕事だった。
出版社別に分けてから、売れ行きのいい本とそうでない本を分けていき、売れ行きのいい本のスリップは発注のための箱へ入れる。
高耶はパートタイマーということで発注も任されている。そのスリップの中に橘義明の名前があった。
「売れてんな〜」
ボソリとつぶやき『発注』と書いてある箱にスリップを入れる。
今まで何度も直江を店で見かけている。とにかく目立つ容姿なので物覚えの悪い高耶ですら直江を覚えていた。
レジで注文書の記入を受け付けたこともある。
まさかあの男が作家をやっていたとは。
スリップの整理を終えた高耶は在庫の品を出すために人文コーナーへ向かう。
その行きがけにハードカバーの書籍の作家『た』の棚で直江の小説を探した。数冊あったが一番気になる本を手にとって、書籍担当の千秋に声をかけた。
「これ、裏で少し見ていい?」
「どれ?ああ、いいぜ。汚すなよ」
「わかってる」
その本を持って人文コーナーへ行き、在庫の品出しを終わらせ、高耶たちが「裏」と呼んでいるバックヤードへ引っ込んだ。
他にもまだ仕事はあるが、とにかく気になる本を見てみたい。
カバーに書いてある『著者紹介』のところには直江の顔写真はない。経歴と代表作の名前が載っているだけだ。
「……橘義明……T大学人文学科の講師……か」
生年月日も書いてあった。高耶よりも11歳年上だった。
小説の処女作は賞を貰っているらしい。
とんでもない作家先生に図々しく頼みごとをしてしまったのを少し後悔した。
「まあ、向こうから頼れって言ってきたんだからいいか」
パタンと本を閉じて元に戻しに行った。千秋に渡しておけば元の場所に入れておいてくれるだろう、と考えたのだが、賞を取った処女作を読んでみたいと思い立ち、千秋に返しながら処女作のタイトルを告げた。
「おまえが?読書?人文の本も読まないくせに?」
「いいからあるんだったら出せよ。あとで買うから取っといて欲しいんだよ」
「わかったよ。どーゆー風の吹き回しだかな」
本棚から一冊取出した千秋は高耶を連れてレジへ。
「これ、仰木が取り置きだってさ。付箋に名前書いて取り置き棚に入れておいてくれ」
直江の小説のタイトルは『赤い瞳』。純文学にジャンルされるのだが、一部ではサスペンスだという声も上がった作品だ。
謎解きなどはほとんどなく、淡々と話が進んでいく話らしい。ただし不気味な怖さがあるそうだ。
レジのアルバイトの清田にその本を渡した。彼女は本のタイトルをじっと見てから、小さく「はい」と言い、丁寧に取り置きの本棚に入れる。
清田は高耶よりも2年も前にアルバイトに入ったベテランバイトで、最初に高耶に仕事を教えたのが彼女だった。
大人しいせいかやかましい千秋とはあまり話さないが、高耶とは世間話ぐらいはする程度に親しい先輩だ。
「なんで急に?」
「ちょっとな」
「仰木くんが本買うなんて珍しいね」
「たまには読むの〜」
千秋の書籍コーナーを少し手伝っているうちに昼休みになった。
ロッカーから財布を出してレジへ。直江の本を買うためだ。
雑誌とマンガ以外は買ったことがない高耶に不思議そうな顔をしたレジの大学生アルバイト。
多少の気恥ずかしさを覚えながら休憩室に入った。
休憩中に読んだ直江の本は出だしから難しかった。一人の男が病的な自意識過剰で、周りを巻き込んで破滅していく、とそんな内容らしいのだが、1ページあたりの文字数が異常に多い。
今まで高耶が読んできた小説といえば小学生の時の児童向けのベストセラーであったり、冒険もののジュニア文庫であったり、推理小説などは難しい方に入る程度の読書だった。
それをいきなり2段組の純文学など昼休みに読めるページはたかだか3ページだった。
「くあ〜。なんだこりゃ」
挫折しそうになる自分を叱り飛ばしながらどうにか3ページ読みきって、また仕事に戻る。
今度はコミック担当のパートさんを手伝いながらコミックをパッケージングする。
特殊なフィルムで出来た袋に本を入れ、それを専用の加熱機械に通してパックする、立ち読み防止のための作業だ。
大きなあくびを連発しながら機械に本を通して、台車に出来上がったパック入りコミックを置いていると。
「おい、仰木。人文で探して欲しい本があるってよ」
千秋がバックヤードに顔を出してそう言った。探して欲しい本がある客は担当に回されることになっている。
寝不足で重くなった体で椅子から立ち上がり、担当の人文コーナーへ行った。
そこには。
「……直江、さん」
「こんにちは。高耶さん。あれからどうでしたか?」
どうやら昨日のことが心配で来たようだった。こちらは高耶とは違って寝不足気味ではなさそうだ。
「あれからは何もなかったよ。勘違いだったかも」
「だけど警戒はしてくださいね。おかしいと思ったら誰でもいいから助けを求めるようにね」
「うん。ありがとう」
直江は思い出したように高耶に本のタイトルを告げた。様子伺いだけではなく本当に探しているものがあったらしい。
「あ、その本、今ないんだ。雑誌で紹介されたらしくて在庫なくなって……明後日に入荷なんだけど一冊取り置きしておこうか?」
「ええ、お願いします」
「んじゃオレが名前とか書いておくから。明後日の朝には届いてるはずだからまた来てよ」
「はい」
直江が帰るのを手を振りながら見送り、さて戻ろうかというところで千秋が背後にいるのに気が付いた。
「今の誰?知り合い?」
「あ、うん。近所の人。たまに店に来るの覚えてないか?」
「覚えてるよ。2年ぐらい前に来るようになって、パートさんやバイトの女の子の憧れの男なんだって。それがおまえと知り合いだったとはな」
「ふーん、そうなんだ……」
店員の間で有名人だったとは。
作家なのだと言いかけて黙った。もしあの男が作家だと知れたらさらにうるさくなるのだろう。
千秋にも直江の正体を知られてはいけないような気がして、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
その日は深夜のバイトもなく、帰りがけにスーパーで食材を買って帰った。
夜のバイトがない日はできるだけ自炊をして、栄養をつけておかなければ体がもたない。
そうして自己管理をしているおかげでパートもバイトも休んだことはない。深夜バイトのせいで朝出勤できなくなってしまっては本末転倒だ。
今回作ったのはいっぺんに野菜がたくさん取れるミネストローネ。パスタを入れてあるのでスープだけで腹持ちも良く、栄養も満点なので高耶がよく作るメニューのひとつだった。
大きめの鍋にいっぱいに作り、数日分を確保する。
出来上がって一人で食べているうちに直江のことを思い出した。
わざわざ今日、本屋に来たのは本を探したかっただけではなかったかもしれない。
そう思い立つと携帯電話を取って直江の名前を呼び出して通話ボタンを押した。
出なかったら出なかったでいい、と思いながら。
『はい。どちらさまですか?』
「あ、あの、仰木高耶だけど……」
『ああ、高耶さんですか。何かあったんですか?』
「そうじゃないんだけど。ええと、夕飯作ったんだ。んで、昨日のお礼っつーか、持っていこうかな、と思って」
しばらく無言でいた直江がクスリと笑って返事をしてきた。
『ありがとうございます。遠慮なく頂きますよ。今から来られますか?』
「うん。直江さんちオレわかるから、すぐ行くよ」
近所に4階建ての豪華マンションがある。そのマンションの名称を覚えていた高耶は、昨日直江から貰った名刺ですぐにあの建物の住人であることがわかっていた。
大きめのタッパーにまだ冷めていないミネストローネを注ぎ、手提げの紙袋に入れる。
窓も玄関も戸締りをきっちりして、アパートから見える茶色いレンガのマンションに向かった。
オートロックのエントランスで部屋番号を押して直江の声が聞こえるのを待つ。
すぐに直江の挨拶が聞こえてきた。
『今開けます。どうぞ』
分厚いガラスで出来た自動ドアが開き、高耶はそこに入る。エレベーターに乗って直江が住む3階のボタンを押した。
1フロアに2部屋しかないのを郵便受けを見て初めて知った。
この敷地面積から言って1部屋はそうとうの広さだろう。
玄関のドアフォンを押すとすぐに直江がドアを開けた。
「お待ちしてました」
「じゃ、コレ」
紙袋を直江に手渡す。そのまま頭を下げて帰ろうとした高耶を直江が引きとめた。
「ちょ、ちょっと待ってください。本当に届けに来ただけなんですか?」
「そーだけど」
「……お茶ぐらい出しますよ。入ってください」
「でも仕事の邪魔じゃないの?」
「そんなに切羽詰った仕事はしてませんよ」
笑って高耶にスリッパを勧めた。作家がいつも締め切りに追われているのだと思っていた高耶は意外に思っているようで直江をじーっと見ている。
「性格なんでしょうね。締め切りに追われるのが嫌だから、早めに終わらせてしまうんです」
言いながら高耶を案内したリビングは高耶の部屋がすっぽり入るほど広かった。
「すげぇ……」
「は?」
「いや、その。でかい家に住んでるんだなって思って」
「親の持ち物なんですよ。前にストーカーされた時に、引っ越す場所を探していたんですが、両親が田舎に戻るというのでここをそのまま使わせてもらったんです」
そこで高耶は自分が失念していたことに気が付いた。
「結婚してないの?」
「してませんよ。色々とありまして。紅茶とコーヒーとどっちがいいですか?」
「あ、紅茶」
直江がキッチンでお茶を作っているところを見ていた。なんだかモタモタやっているのでもしやと思って思い切って聞いてみた。
「もしかして、台所仕事ってしないの?」
「……はあ……いつもはアシスタント……に、やってもらうので……」
「今は?」
「もう帰りました」
ヤカンを探して棚を物色している直江を見かねて高耶が立ち上がった。
「オレがやるから座ってろ」
「でも」
「台所なんてのはな、何がどこにあるかなんかだいたいわかるんだよ。だいたい危なっかしくて見てらんねえ」
ヤカンはここだろうと目星をつけた足元の棚を開けた。あった。
紅茶の茶葉はここだろうと戸棚を開けたらまたあった。
「……わかるものなんですね……」
「そういうもんだ」
「…………」
「何?」
「……一応私は行動学科の専門家なんですよ……そうか、こういうのも行動学ですよね?」
「さあ?オレは学がないからよくわかんねーけど」
おかしな感心の仕方をするもんだ、と高耶は思った。有名な作家先生が自分のやった行動に感心しているなんて。
一緒に紅茶をいれる直江は高耶のやることなすことにいちいち感心している。
「あ、そうだ。高耶さんの作ったミネストローネ、今食べます」
「は?まだメシ食ってなかったのか?」
「ええ。お昼過ぎに朝食を食べたので、お腹が空いてたんです」
明け方まで仕事をしているのだからちょうど一般人にとっては昼食の時間を大幅に過ぎた頃だろう。
高耶はちょっとだけ呆れてスープをタッパーから鍋に移して温めた。
紅茶を飲みながら直江の食事を見つつ、人文学について少し教えてもらい、昨夜の話になった。
「昨夜のお話を行動学に当てはめると、やっぱりストーカーの線が濃いんですよね。私の場合も最初はつけられていると感じた時でしたし」
「そっかな〜?」
「それにしても美味しいですね、これ。いつも作ってるんですか?」
「うん、だいたい自炊」
「それで次に何か物がなくなってることに気付くんですけど」
直江の話はあちらこちらへ飛ぶらしい。
高耶がついていけなくなってとうとう悲鳴をあげた。
「食うか、飯の話をするか、人文学の話をするか、ストーカーの話をするかどれかにしろ!」
「……すいません……どうも職業がら……」
「職業関係ない!性格だ!直せ!」
「はいっ」
迫力負けをした直江が小さくなって高耶を上目遣いで見る。
それが可笑しくて高耶が笑う。
「大の大人がそーゆー顔すんなよ。それじゃ誰が見たって有名な作家に見えないぞ」
「そうですか?」
「そうだよ」
うーん、と考え込む直江がまた可笑しくて笑った。そのうちに直江も笑い出した。
久しぶりに人と一緒に大笑いしたような気がする。お互いにそう思っていた。
つづく
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