ストーカー



 
         
 

直江の家でさんざん話し込んで、気が付いたら夜10時を過ぎていた。
その間に紅茶のおかわりを作ったり、新しくコーヒーを作ったり、書斎で読みやすい本を選んで貸してもらったり、トイレに立ったり。
ものの数時間でだいたいの直江の性格や家の中を把握した。

「もう帰るよ」
「こんな時間ですか。……送っていきましょうか?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょう?昨夜のこと、忘れたんですか?」
「だけどそこまでしてもらったら悪いし」

強い語気でダメだと直江に押し切られて渋々と送ってもらうことにした。
つけられている気配もないのに、たった数分しか離れていないアパートまで子供のように送ってもらうことが恥ずかしい。
心構えが出来た今となっては腕っ節に自信があるだけに不本意だった。

「すぐそこなのに」
「そういう油断が一番危ないんですよ」

ストーカーだと確定していないが、もし何かあってからでは遅いと直江は言った。直江自身が被害に遭った時にそう思ったそうだ。
部屋の玄関まで送り届けられた時に次回の深夜バイトはいつかと聞かれた。

「明日だけど」
「誰かと一緒に帰ることはできないんですか?」
「うーん、どうだろう?みんな別々なんだけど、頼めば送ってくれるかも。けどそんなのかっこ悪くない?」

高耶の年齢や立場を考えると確定もしていないストーカーに怯えていると思われるのは心外だ。
あまり無理に薦めても申し訳ないと思ったのか、直江はその話をやめた。

「気をつけてくださいね。明日の帰りに何かあったら、私の家に駆け込んでかまいませんから」
「うん、サンキュ。大丈夫だと思うけど。今日は何もなかったし」
「そうですね……では、おやすみなさい」

高耶の肩をポンと叩いてから、直江は暗い細道を歩き出した。

 

 

寝不足のせいもあり、その晩高耶は早めに眠った。
そのせいか明け方は眠りが浅く、小さな物音で目を覚ました。
ドアについている新聞受けの扉が鳴らした音だった。

「ん……?」

起きたついでにトイレにでも行って、今の音の正体を確かめようとした。
高耶は新聞を取っていないから、もしかしたら配達員が隣りと間違えて入れてしまったのかもしれない。
しかしそにには何もなかった。

「気のせいか」

トイレに入って用を足し、もう一度寝ようと布団に潜った瞬間、頭が冴えた。

「……覗かれた……?」

覗かれたのかもしれない。新聞を入れておくための受け箱がドアにはついているが、アパート自体も古く、もちろんドアも新聞受けも古い。
タタキぐらいなら覗けるはずだ。高耶の靴や、来客があるのかどうかぐらいなら。
もし箱がなかったら部屋中を観察されてしまっていた。

体が勝手に震える。もし覗かれたのだとしても自分は男なのだからやましいことさえなければ隠すことは女よりもそう多くない 。
一時の恥程度で被害も少ない。
もしもその相手と対峙するとしても、ケンカには中学生のころから慣れているから負けるとは思えない。
だがこの不気味さは体の芯から震えてしまう。

かけたはずの鍵をもう一度確かめて、意味もなくウロウロと部屋中を歩き回る。
折りたたみのテーブルの上にあった携帯電話を見て、警察に通報しようかと思ったが証拠がない。
覗かれた気がする、それだけだ。

どうしようかと10分ほど悩んで出た回答を高耶は実行した。

『高耶さん?』
「あ、明け方にゴメン……寝てた?」
『いえ、まだ仕事してましたけど……どうか……したんですね?』
「うん……」

直江に電話をかけて勘違いかもしれないけど、と、添えてから話し出した。

『確かに証拠がないから警察に行っても無理でしょうね。対応策を教えてくれる程度じゃないですかね。だけど高耶さん自身はそれでは不安なんでしょう?』
「うん」
『まずはガムテープでもいいですから隙間の出来ないように新聞受けを塞いでください。開かないように内側から。それでも刃物で切って開けるかもしれませんから、新聞受けに穴があったらそこも』
「それから?」
『窓はどうなってるんですか?』
「窓はサッシのがあって、薄っぺらいカーテンがかかってるだけ」
『じゃあ、厚めのカーテンをかけて。高耶さんがいない間と、寝る時は雨戸を閉めるようにしましょう』

そうするとほとんどの時間、雨戸を閉めていなくてはいけなくなる。
だがそんなことは言っていられないので了承した。

「あのさ……仕事行くまで、そっちに行ってていいかな?」
『え?ええ、もちろんかまいませんよ』

不安と恐怖からどうしても直江を頼ってしまう。
仕事の邪魔になるのだと思っていても、ひとりで部屋にいるのが耐えられなかった。

『迎えに行きます。もし本当にストーカーだとしたら、まだその近辺にいるかもしれない』
「うん……ごめん」
『気にしないで。私がしたくてするんですから』

通話を切って身支度を整えているとノックがした。誰かを問う前に声がした。

「直江です」

すぐにドアを開けて玄関で待ってもらい、カバンを持って一緒に外に出た。

「ごめんな」
「いいんですよ」

直江は経験者なだけに周囲を見回してから高耶の背中に手を添えて、アパートの門から出た。
曲がり角に来るといちいち後ろを振り返る。

「誰かいる?」
「いえ、いないようですけど……用心に越したことはありませんから」
「そっか」

まだ薄暗い道を直江と歩く。こうして人といるとそれだけで安心できた。

「出勤は何時なんですか?」
「9時。15分前ぐらいに出れば間に合う」
「じゃあ、あと3時間と少しですね。私の家で少しだけ眠って、それから出勤したらいいですよ。9時ごろには人通りも多くなりますから大丈夫でしょう」
「うん……」

マンションに着いてから高耶はソファを借りて少しだけ眠った。直江は今やっている仕事のキリがいいところで眠ります、と言って書斎に引っ込んだ。
出勤1時間前に直江に起こされて、トーストと昨夜のスープの残りを食べて部屋を出る。

「ありがとう。仕事の邪魔になってなかった?」
「大丈夫です。ちょうどいいところで終わりましたしね。これから寝ますよ」
「ん。じゃあ……また」
「ええ。行ってらっしゃい」

玄関で送り出されてエレベーターに乗るまで、直江の「行ってらっしゃい」の声が頭の中でこだました。
何年ぶりに言われたのだろうか。
松本にいる間は自分が父親や妹に言う立場にあったから、すっかりその感覚を忘れていた。
たまにはいいもんだな、と思いながら、人通りの多い道を選んでパート先の本屋まで歩いた。

 

 

そして当日の深夜のバイト。
パートの帰りに部屋にそのまま行くのは不安であったが、いつも誰かに甘えているわけにはいかないと早足で帰宅し、すぐに鍵をかけた。
今日は買い置きしてあったインスタントラーメンで夕飯を終わらせ、深夜のバイトに備えた。
背中が不安でピリピリしているが、とにかくバイトに行かなければいけない。行ってしまえば店の仲間もいるし、客もたくさん来るのだから安心だ。

バーまで15分の道のりをほとんど走るようにして向かい、店の入り口で息を整えて入った。

「おはよーございまーす」
「お、仰木、ちょうどよかった。すぐに支度して倉庫から生ビール出してくれ」
「うーす」

いつも頼れる店のオーナーである嘉田がさっそく仕事を言い渡した。
腰に小さなエプロンをつけて倉庫に行くと、嘉田との共同経営者である中川が在庫の管理をしていた。

「おはようっす」
「ああ、おはよう。何を取りにきたの?」
「生ビール。タンクの」

中川が高耶の取ろうとしているビールタンクを見て、手元の管理表を書き直している。在庫がちょうど一個減ったところだ。

タンクを持って倉庫を出て、ビールサーバーに取り付ける。その後も雑用をいくつか言いつけられて動き、いつのまにか数時間が経った。
客が少しだけ引けてきた時、外をふと見るといきなり不安が押し寄せた。

「あのさ、嘉田さん。今日って帰り、どこか寄ったりする?」
「まっすぐ帰るけど」
「中川さんは?」
「僕もまっすぐ帰るよ。何?どうかした?」
「……いや、別に」

家まで付いてきて欲しい、とは言えなかった。このふたりも店の仕事の他に色々と忙しくしている。
特に中川はまだ産まれたばかりの子供がいる。

「平日の営業はヒマだな〜。この時間になると客が途絶えるもんな。もっと繁華街に近かったらな」
「まあそう言わないで。これで繁華街にあったらこっちが忙しくてぶっ倒れるよ」

ふたりのやりとりを聞いていていつも思うのは、あくまでも仕事を楽しむタイプなのだということ。
金儲けだけが目的では繁華街から10分も歩く場所での経営はしないだろう。
いかにも手作りふうの洒落た内装は嘉田のセンスであり、音楽は中川の洗練された趣味が漂う。
この店に足を運ぶ客はほとんどが中川たちと同年代で、万人受けしない内装と音楽を気に入って常連になる。

「おっと、お客さんだ。いらっしゃいませ」
「あ」

入ってきたのは直江だった。

「お久しぶりです、橘さん」
「本当に久しぶりで…………高耶さん?どうしてここに」

店に入ってきたのは直江だった。話しぶりからすると店の常連だったらしい。
驚いている高耶と直江の様子を見てとって中川が間に入った。

「ここを開店させた時に最初に来たお客さんだよ」
「マジで?」
「たまにいらっしゃるんだよ。仰木はまだここで働き出して2ヶ月ぐらいだから会ったことなかったのか」

ようやく得心がいった直江が先に高耶に話しかけた。

「深夜のバイトってここだったんですね」
「うん、そう」

直江がカウンター席に座り、マティーニを注文した。嘉田がジンとベルモットのビンを手元に置きながら高耶に質問した。

「そんで、なんでおまえまで橘さんと知り合いなわけ?」
「本屋のお客さんなんだよ」
「ふーん。なあ仰木」
「んん?」
「どうでもいいけど、おまえ敬語使えっていつも言ってんだろうが」
「あ、そっか。忘れてた」

嘉田たちと高耶はバイトに入る前からの知り合いで、千秋を介しての友人だっただけにいまさら敬語などは使えない。
年齢も高耶と二歳しか離れていないだけに、どうしても友人感覚が抜けないのだった。

「もういいよ……諦めた。すいません、橘さん。こんなバカ新人ですけどよろしくお願いします」
「とんでもない」

嘉田とのやり取りを直江がクスクス笑って見ていたのに気が付かなかった高耶は顔を赤くしてしまった。
出来上がったマティーニにオリーブを入れて直江の手元にグラスを押し出すと、直江は優雅なしぐさでそれを一口飲んだ。

「やっぱり嘉田さんのマティーニが一番ですね」
「ありがとうございます」

人それぞれ好みと言うのもがあるが、直江は嘉田のマティーニが好みのようだった。
使うジンとマティーニ、それにその割合、シェイカーで急激に冷やしながら混ぜる加減がいいらしい。

「高耶さんもシェイカー振れるんですか?」
「ううん。オレはシェイカーは出来ないんだ。簡単なやつならできるけど」
「じゃあ次は高耶さんに作ってもらいましょうか」
「いいよ」

直江の話によると、ここへは一冊の本を書き上げた時に区切りとして気分転換に来るそうだ。

「綾子さんは一緒じゃないんですね」
「仕事があって会社に泊り込みだそうですよ」
「毎日一緒なのに寂しくないですか?」
「寂しいなんて、もうそんな時期は越えました」

中川と直江が話している綾子とは誰なのだろうかと高耶は考えた。
会話の内容からして直江の恋人かもしれない。そう思った瞬間に自分の中のどこかが傷付いた。

「高耶さん」
「え?あ、何?」
「モスコミュールを下さい」
「あ、はい」

高耶指名で注文が入った。ニヤニヤ笑いながら嘉田が高耶の手付きを見ている。
グラスに氷を入れて、メジャーカップでウォッカを計ってグラスに注ぐ。本物のジンジャーエールをビンから直接グラスに注いで、マドラーで軽く数回混ぜる。レモンを輪切りにして一枚浮かべて出した。

「ありがとう」

他の店と違って甘くない本物のジンジャーエールを使っていることがこの店の自慢だった。
ショウガの刺激のあるモスコミュールを飲んだ直江は笑顔で高耶に「美味しいです」と言った。

「良かったじゃん、仰木〜」
「こんぐらいはもう出来るんだよっ」
「そのうちシェイカーも教えてやるからな」
「オレに教えたら嘉田さんやることなくなっちゃうじゃん」
「生意気だなぁ」

嘉田と高耶がこうしてじゃれるのはいつものことで、それを制止するのが中川の役目だった。
しかし今日は直江が止めた。

「大丈夫ですよ。嘉田さんには美味しい料理を作ってもらえますから」
「ですよね〜。橘さんだったらわかってくれると思ってましたよ」
「でも高耶さんも料理は上手ですよね?」

その直江の何気ない一言で嘉田と中川が高耶を見た。

「なんだよ」
「……橘さんに料理作ったことあるのか?」
「うん。ちょっとしたお礼って感じで」
「そっか……」

直江はそのまま数時間居座り、高耶が帰る時間まで残っていた。

「一緒に帰りましょうか」
「うん。ちょっと片付けてくるから待ってて」

最後の仕事に倉庫に空ビンやタンクを片付けに行くと、嘉田が来た。

「仰木、ちょっとだけいいか?」
「うん、何?」
「橘さんのことなんだけど……」
「うん」
「あの人と深く関わらない方がいいぞ」

 

 

つづく

 
         
   

なんで関わらない方がいいの?!

   
         
   

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