直江のいない数日間は何もなく過ごせた。
帰京した直江が本屋のパート中に来店したので、休憩時間に一緒に昼食をとって近況報告をした。
今は特に何も起きていないことを告げると安心したらしい。
「でも用心は怠らないように。窓を壊したぐらいですからね。次は高耶さん本人に危害を加える可能性だってありますから」
「うん。そこらへんはちゃんと気をつける。ただちょっとバーのバイトの帰りが怖いんだけどさ」
「……迎えに行きますよ」
「いいって。そんなことしたら嘉田さんたちに怪しまれる」
嘉田と千秋はツーカーの仲だ。もし嘉田に怪しまれたら千秋にも怪しまれる。
怪しむどころか無い話まであったことになってしまうかもしれない。
「そうですね。じゃあ、防犯ブザーでもプレゼントしますから、私の代わりに持ち歩いてください」
「あはは。そーしよっかな」
昼食が済んで直江は帰宅し、高耶は仕事場に戻った。
いつものように品出しをして、千秋の仕事を手伝う。
「なあ、仰木。あの人とよく会ったりしてんだって?橘。さっきも一緒に休憩行っただろ」
「……なんで千秋が知ってるんだ?」
「嘉田に聞いたんだよ」
嘉田は直江の容姿から何からを千秋に教えていたらしい。
可愛がっている後輩が毒牙にかからないように、と本気で心配しているようだ。
「おまえが橘っていうバイの男と最近一緒にいるらしいって聞かされた。そんで忠告もされた。仰木に何かあったら大変だから、千秋からもよく言っておけって」
「そんな心配ないのに……」
嘉田たちにはまだ黙っておくという約束で、ストーカーの件を話した。
直江にアドバイスを受けたことも、何度か助けてもらったことも、警察にツテを作ってもらったことも。
「そーゆーことか……ホモに狙われてるんじゃなくて良かった」
「さっきも防犯ブザーの話とかしてただけだよ」
「しっかし……なんでおまえがストーカーされるんだかな。こんな野生児みたいなヤツにさ」
「うるせえな」
「そーゆーことだったら俺も協力してやるよ。俺と上がり時間が同じの日はメシぐらい付き合うし、たまには家まで送ってってやる」
千秋はぶっきらぼうに見えて意外に親切なところがある。
直江の他にもう一人ぐらい助けてくれる友達がいてもいいかもしれない。しかも千秋は直江よりは少し細いが背も高くて腕っ節にも自信がある。
「じゃあ仰木。今日は俺とメシ食って帰ろうぜ」
「おう」
午後6時になって千秋と連れ立って外へ出た。本屋の近くのファストフード店に入って話しながら食べる。
ここ数週間の出来事を詳しく話して、これからの対策を練ろうとした時。
「なあ……おまえにこんなこと言うのは酷だと思うけど……俺の考え、つーか予想を話してもいいか?」
「ん?」
「そのストーカー、橘なんじゃねえの?」
「はあ?!」
千秋の言い出したことはとんでもなく予想外だった。有り得ない。
「だってよ、一番最初の時からおかしくないか?おまえがつけられてるって思った時に登場だろ?偶然にしてはちょっとな。バイの男が店でおまえに目をつけてて、そんで後をつけてみたら意外と近所で……って感じじゃん。それに窓を壊された時だっておまえの家のすぐそばにいたんだろ?1分もしないうちにおまえんちに来たってのも変だ。本当は橘がやってたってことも有り得る」
「んなわけあるか!」
「いいから聞けよ。嘉田んとこでバイトしてるのも知ってたみたいなタイミングだし、ここ数日間ストーカーの影がなかったのだって橘が出張してた間だ。まだある。おまえが橘んちにいた時はストーカーにとっちゃおまえの部屋や郵便物をどうにかできるチャンスだったんだ。なのにしなかった。てことは、橘本人がおまえのそばにいたからじゃねえのか?」
千秋の指摘は的を射ていた。考えようによってはそう捉えることもできる。
思い当たる節があるのか高耶は小さくブルリと震えた。
「助けてやったってことでおまえを安心させて、実は影でおまえを監視してるんだとしたら?」
「そんなの……」
「もし少しでも怪しいと思うんだったら、橘とはもう関わらない方がいい」
「けど」
もしも直江がストーカーだったとしたら?
それでも自分も直江が好きだ。だったら丸く収まるはずでは?
しかしそうではない。
直江がストーカーだった場合、その性質で高耶の行動をすべて監視するのは目に見えている。
それに高耶が耐え切れなくなって別れを言い出そうものなら殺される可能性だってある。
それに何より、そんな汚い真似をして高耶に近付いたのだったら最低な人間だ。
「とりあえず確信はないわけだけど、ちょっと警戒しろ。ストーカーにも、橘にも」
「うん……」
恋心が一気に冷めていく。
洒落た照明の店内には客が二組。一方は若いカップルで、もう一方は会社帰りのサラリーマン二人組。
カップルから注文されたカシスソーダとソルティドッグをテーブルに運び、カウンターの中にいる嘉田と中川からレーズンバターとクラッカーの乗った皿を受け取ってサラリーマンのテーブルに置いた。
「今日、ヒマだな」
「ヒマヒマ言うな。しける」
火曜日の店内はだいたい空いていて、客数は20人に満たない場合もある。
それでも毎回がそういうわけではないため、高耶がアルバイトに入らないと困る日もあるのは事実だ。
「もしこのまんまヒマだったら早めに上がっていいからな」
「時給は〜?」
「そのぶん引くに決まってんだろ」
「そんな……」
できるだけ稼ぎたい高耶は早めに上がるなど冗談でもやめて欲しかった。妹に仕送りもしなくてはいけないのだ。
しかし昨日の千秋の発言。もしかしたらストーカーの正体は直江かもしれないこと。
直江が本気で迎えに来たらどう対応していいものか悩んだ。本人に「おまえがストーカーか?」と聞いたところで嘘をつかれるか、その本性を現して何をされるかわからない。
「じゃあ時給引く代わりにメシ食ってくか?賄い作ってやるよ」
「オレんちの事情知ってるくせに〜」
「しょうがないだろ。客が来ないんじゃよ」
粘って交渉して、1時間だけ早めに帰ることになった。店自体も閉めてしまいたいらしく、高耶としても経済事情を知っているだけに頑として反対するわけにはいかない。
いつもの閉店時間よりも1時間早く、3人は店を出た。
繁華街から外れた住宅街にある店の周りはすでに人通りが少ない。
自転車通勤の嘉田と中川とは大通りまで出るとすぐに高耶と違う道を行ってしまう。残された高耶は車一台分の幅の暗い道を歩いて帰る。
「じゃーな。また明後日」
「おやすみ〜」
手を振って二人は大通りの歩道を颯爽と自転車で去って行った。
高耶の背後には暗くて狭くて寂しい道が待っている。しかたなしに走って帰ることにした。
ここからならば高耶のアパートまで走って3分ほどだ。
見えないストーカーの影に怯えながら周囲の気配に敏感になる。
自分の足音の他に誰かの足音が聞こえないか。街頭が他人の影を落とさないか。曲がり角で待ち伏せされていないか。
用心しながら走ってアパートの部屋に駆け込む。ドアを開ける時も周りを見てから開けた。
「ふー、大丈夫だった……」
スニーカーを脱いで部屋の中に入ると、空気が違った。
「え?」
どこがどう違うのかはハッキリわからないが、なんとなくいつもの自分の部屋ではない。
玄関のドアに張り付いて、もう一度靴を履いた。このまま部屋の中に入ってしまうのはいけない。そう思った。
ゆっくりドアを開けて、また外へ出る。外へ出たところで危機感は薄れないが、部屋の中には入れない。
歯をガチガチ鳴らしながら、明るい場所へ行こうと歩き出した。まずはそこで携帯を出して誰かに電話をしよう。
いつものコンビニに向かって走り、明るい店内で携帯電話を出した。まず頭に浮かんだのは千秋だった。
直江は信用できない。
携帯のディスプレイを見て時間を確かめると午前12時45分。千秋は会社から1時間以上かかる家に家族と住んでいる。
千秋の明日のシフトは午前8時からだ。すでに寝ているに違いない。
それに電話をしたからと言って高耶のアパートまで来てくれるかわからない。
次に思い出したのは直江が紹介してくれた色部刑事だ。所轄署に連絡を入れても色部がいる保証はないが、他の警察官が来てくれるかもしれない。
だが。
部屋に入ったらなんとなく空気が違ってて……それだけで来てくれるだろうか。
「ど……どうし……」
「高耶さん?」
背後で低い声がした。直江だ。肩がビクリと跳ねた。
「何してるんですか?夜食の買い出し?」
「……あ……」
部屋の空気が違っていたのは、こいつが部屋の中にいたのかもしれない。オレの部屋に勝手に入って……。
もしかして追ってきた……?
いつもの優しげな笑顔だったが、その裏にどんな獰猛な野獣が潜んでいるのかわからない。
もしもここで逃げ出したり何か詰問したら、その本性で高耶を襲うかもしれない、と考えると何もできない。
「……顔色が悪いですね」
「あ……その……ええと」
「お腹減ってるから、ってわけでもないですよね?何かあったんですか?」
「なんでも……ない」
直江が怪訝な顔で高耶を見ている。俺のしたことがバレたのか、そんな顔だ。
「家まで送りますよ」
「……う、うん……頼む……」
刺激して襲われたらかなわない。そう判断した高耶はいつものように直江を扱った。
内心ビクビクしながら、隣りを歩く直江の言動に注意して。
部屋の中がおかしければおかしいで、直江の様子を見て探ってやればいい。いまのところは高耶に手を出す様子がないのだから、何かされないように注意を払えばやりすごせる。
部屋を出る時、鍵はかけなかった。なのに鍵がかかっている。
それすらも気にしないように平静を装って鍵を開け、室内に入った。
「あれ?」
さきほどとは別の感じで空気が違う。今度はなんとなく、ではなくて、確実に空気の匂いが違う。
電灯のスイッチをつけると、部屋の中が真っ白になっていた。刺激臭のある煙だ。
「か、火事?!」
「……違いますよ……これは……害虫駆除の煙、じゃないですか……?」
ゴキブリやダニを駆除する際に、煙を出して薬品を散布する有名な殺虫剤だ。そう言われてみたら何かが燃えている匂いではない。
「高耶さんが焚いたんじゃないんですか?」
「違う!さっき帰ってきたときは……!」
「……じゃあ、もしかしたら」
ストーカーだ。高耶が先ほど一旦帰った時に中にいたに違いない。空気が違うと感じたのは当たっていた。
「とにかく窓を開けて!」
「あ、うん!」
高耶が靴のまま部屋に入って窓を開ける。新しい空気が入ると部屋の中が少しだけクリアになった。
部屋の真ん中にある赤い薬剤の容器から煙が出ているのを見つけて、それを持ってユニットバスに入り、換気扇をかけて、扉を閉めた。
玄関ではドアを開け放して直江が換気をしている。
「まだ煙が出始めて間もなかったみたいですね。もうほとんど煙は逃げましたよ」
最近の煙式殺虫剤は煙が少なくなっているせいか、部屋の中はもう白くない。
もうしばらくは換気をしようと直江が言うので、直江は玄関、高耶は窓のそばで空気の出入りを団扇や雑誌で扇いで助けた。
5分近くそうして、完全に煙が逃げたところでドアを閉めて直江が入ってきた。
「悪質ですね……窓、どうですか?」
「……窓?」
「壊されてませんか?」
窓は雨戸も閉めて出かけたはずなのに、さっき煙を開けに入った時は雨戸は閉まっていなかった。窓は壊されていない。
だとすると玄関だ。
走って玄関のドアノブを見に行ってみたが、どうともなっていない。
「合鍵、作られましたね……」
背後で直江が覗き込んでいる。
おまえがやったのか?オレがおまえんちにいた間に合鍵作ったんだろう?
そう聞きたかったが刺激してはいけない。
どう考えてもあのコンビニに直江が来たのはタイミングが良すぎる。高耶の身に危険がある時はだいたい直江が近くにいる。
「なお……」
「もうここも安全じゃありませんね。私のマンションに避難しますか?荷物もまとめて引っ越してきていいですよ?部屋はいくつも空いてるんですし」
直江に追い詰められているとしか思えない。
このままマンションに行くのは蜘蛛の巣にかかりに行くのと同じだ。
つづく
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