ストーカー



 
         
 

「いや、オレ……」

自分でどうにかする、そう言いかけた時、高耶が背を向けていた窓から甲高い音がした。
ガシャンと小気味のいい薄いガラスが割れる音。そして高耶の足元まで飛んできた石。拳ぐらいの大きさだ。

「な……!」
「誰だ!」

目の前にいた直江が外から石を投げられるわけがない。
直江がストーカーだと思い込んでいた高耶の意識は一気に払拭され、代わりに大きな安堵と新しい恐怖が生まれた。

直江が割れたガラスを避けながら窓に近付いて、サッシを開けた。
遠くで走る足音が聞こえるが、もう追いつくことはできないだろう。

「……逃がしましたね……くそっ」
「なお……直江……直江……?」
「高耶さん?」

玄関に戻って床にへたり込んだ高耶の体を抱き上げる。

「もう大丈夫ですよ。いなくなりました」
「い……今の、何だ……?!」
「大丈夫。私がそばにいますから……もう怖いことなんかありませんから……」

震える高耶の体をしっかりと抱きしめ、背中を撫でて安心させる。

「やっぱり私の家に行きましょうね。明日、大家さんに事情を話して、すぐに部屋を引き払いましょう。ああいう輩はどんどんつけあがっていくから、あなた本人に危害を加える日もそう遠くないでしょう」
「なお……」
「大丈夫。私が守ってあげます」

高耶が少し落ち着くと、直江が所轄の警察署に電話を入れた。すぐに警察官がかけつけてくれるそうだ。
とりあえずの着替えや生活用品をカバンや紙袋に詰めて直江の家に行く準備をしているうちに警察が来て、器物破損と不法侵入で被疑者不明の被害届の手続きを取った。指紋も取っている。
詳しい事情を話していると夜が明けてきた。

「今日はもう仕事は休んでください。事情を話せば店長もわかってくれますよ」
「うん……」
「しかしどこの誰なんでしょうね……」

指紋はどこからも出ず、証拠になりそうな足跡だけが裏庭に残っていた。
高耶の部屋をこれ以上荒らされないようにと警察官が玄関のドアにつけるドアノブカバーをかけた。
これは警察が所持する特殊な鍵を必要とするカバーで、ドアだけの鍵では開けられない仕組みになっている。
あとは雨戸を閉めて、内側から既存のネジ式の鍵を閉めればいい。

明けた空の下、高耶と直江は荷物を持って直江の家に向かった。
これからしばらくは直江の家に居候することになる。さきほど警察官に高耶の当座の住所を聞かれ、直江が自宅の住所を告げていた。

「これから少し寝て、出勤時間になったらお店に電話しましょう。お店にはストーカーの件を知ってる人はいますか?」
「あ、うん。ひとりいる」
「じゃあその人には詳しい事情を話しておいた方がいいですね。味方になってくれますよ、きっと。あと、バーのアルバイトは……?」
「夜になったら電話しておく」

高耶の背中は思ったよりも縮こまって震えていた。その背中に直江が手を添えてマンションまでの道のりを歩く。
明け方に男二人で寄り添って歩くなんていかにも怪しいけれど、今の二人には周りを警戒しこそすれ、羞恥などは問題ではなかった。

マンションへつくと直江が先日の和室に高耶の布団を敷いてやった。
しかしすぐには眠れないと言う高耶に付き合って、ホットミルクを電子レンジで作って飲んでいた。

「……もし、興奮して眠れないようでしたら精神安定剤がありますから」
「ん……たぶん、大丈夫……」

まだ時折顔を青くして震えることがある。向かい合わせに座っているが、どうもその姿は見るに忍びない。
直江が席を立って高耶の隣りに座りなおした。

「まだ震えてますね」
「だってあんなことあって……」
「ええ……普通はそうですよね。私も同じでしたから」

直江も付け狙われた時は毎日落ち着かず、いつ攻撃が来るか神経を張り巡らせていた。
そのせいでまともな睡眠も取れず、講師活動も数ヶ月休んだり、執筆も進まなかった。
アシスタントが襲われてからようやく警察が重い腰を上げ、大学の教授から色部警部を紹介してもらってやっと捜査が始まった。眠れるようになったのはこの時期からだ。

色部警部はノンキャリアだが頭の回転が速い刑事で、ストーカーの行動を直江が本職の行動学から分析すると、それを基本にして動いてくれた。もちろん色部本人の知恵と経験も手伝ってだ。

「それにしても狡猾なヤツですね……部屋に入れなくさせる、とは……」
「うん……なあ、なんで殺虫剤だったのかな?」

あの殺虫剤は高耶が買い置きしておいて、玄関から入ってすぐの空いた場所に薬局の袋ごと置いてあったものだ。

「あなたがいったん帰ってきた時は煙はなかったんですよね?その時に高耶さんに部屋の中にいることを勘付かれたと悟ったんでしょう。急いで出ても外にはあなたがいる。窓へ回ったかもしれないし、ドアの前にいるかもしれない。自分の姿を見られずに逃げおおせるためには目をくらませないといけませんよね。だから『煙幕』です。時間を稼ぐためもあったんでしょう。火事かと慌てている間に見つからないところへ移動したり、部屋に入れなくさせたりできますから。……しかし外へ出てみたら私とあなたが一緒に歩いている場面を見てしまった。怒りが込み上げてきてアパートの裏庭に戻り、様子をみて、嫌がらせのために窓を割った。この嫌がらせは私に向けられたものですね。これが一番妥当な考えです」

直江の経験と、専門分野で語られたその内容はほぼ当たっているとしか思えない。

「あなたのことが好きなんでしょうね。それはもうたまらなく」
「じゃあなんでオレにそう言ってこないんだ?隠れて、盗んで、壊してさ」
「……ストーカーにも何種類かあって、気弱なタイプは隠れて見ているだけの人から、今回のように攻撃をしてくる人がいます。こういう人物の方がまだいいんですよ。ひどいのになると相手の意思や言葉など関係なく、まとわりついて勝手に恋人気分になって、周りのすべてを巻き込んで迷惑をかける人間になります。今回は気の弱いタイプのようですから、まずは正体を突き止めることから始めないといけませんね。警察が調べてくれるとは思いますが……」

直江はそこで言葉を切った。続きがなかなか出てこないのを不審に思って聞いてみると。

「調べるとなるとあなたの身辺でしょう?まず真っ先にバイト先を調べるでしょうね。そこに犯人がいると仮定して警察が本屋に出入りする……犯人は証拠を隠滅するだけではなく、あなたへの攻撃もやめるかもしれない。そうなればストーキングはいったん停止するんですが……再犯の可能性もあります。さらに輪をかけた悪質なものを」

頭のてっぺんから足に向けて血がサーッと落ちたかのように高耶の顔が青くなる。

「もっと悪質なのって……」
「あなたを傷つけるってことです。怪我で済むか、それとも……」

殺されるか。

「え、じゃ……じゃあ……どうしたら……」
「警察も馬鹿ではありませんから、怪しい人物に中りをつけても隠密に調べます。そこからは担当した刑事の手腕ですから任せるしかないですね……」

頭を抱えた高耶の腕をそっと取り、顔を上げさせた。

「でも自分を強く持っていないと、負けますよ」
「……うん」
「あなたには味方がたくさんいます。私もその中の一人だ。少しずつでいいから解決していきましょう」

コクリと頷いた高耶を見てから直江はリビングにある棚から救急箱を出した。
そこから小さなガラス瓶を取り出して、2錠の錠剤を手のひらに乗せた。精神安定剤だ。

「仕事先に電話をしてからこれを飲んで。今は眠らないと体力が続きませんよ」
「ん……」

社員が出勤してきたころを見計らって、高耶が携帯から店に電話をかけた。出たのが千秋だったのが幸いして、事情を少し話しただけで理解してくれた。店長にも説明しておいてくれるらしい。
電話を切ってから水を貰って小さな錠剤を飲み込んだ。30分もすると薬が効いてきたのか、ソファでうとうとし始めた。

「立てますか?布団まで歩ける?」
「ちょっと……ダメ、かも」

高耶に肩を貸して、直江が和室まで運んだ。ゆっくり寝かせて布団をかけると、高耶はすぐに深い眠りに入った。

 

 

 

高耶が起きてきたのは夕方5時。安定剤で眠ったせいか頭がなかなか覚醒しなかった。
それでも起きなければ翌日のパートに響くだろうと無理して起きていた。
6時を過ぎたあたりで高耶の携帯電話が鳴った。画面には本屋の電話番号が出ている。

「はい、仰木です」
『仰木か?俺、千秋だけど』
「ああ、今日はごめんな。休んじまって……」
『えーと、それなんだけど……今から行っていいか?』
「今から?いいけど……あ、オレ、アパートにはいないんだ。橘さんとこに世話になってて」

いったい何の用があってわざわざ会いたいなどと言うのだろうか。高耶に不安の色が広がった。

『じゃあ橘さんちに行ってもいいか聞いてくれないか?』

ここまで食い下がるのなら何か大事な用なのだろう。直江に許可を得てから電話を切った。
直江に千秋がストーカーである可能性はどうかと聞かれたが、ゼロだ。もしそうなら携帯電話の明細票を盗む必要はないし、明け方に窓枠をドライバーで壊された時は、千秋は友人の家に泊まっていたのが明らかになっている。

数十分してから直江の部屋にインターフォンの音が響いた。
直江が出るとモニターには本屋でよく見かける青年が立っていた。
これが千秋だと高耶に言われ、出迎えにエントランスまで行って挨拶をした。

「あなたが千秋さんでしたか。いつも本屋さんにはお世話になっていて……」
「いや、そんな話はどうでもいいんだ。高耶は部屋にいんのか?」
「ええ。だいぶ憔悴してますけど……」

エレベーターに乗って階を上がり、部屋に千秋が入ると高耶の顔を見て驚いた。
真っ青な顔で何かにビクビクしている様子。強気な高耶っぽさが失われている。

「おい、大丈夫か?」
「なんとかな。疲れたけど、寝たから大丈夫。明日からは行けるから」
「あ……それなんだけど……。実はな……会社に脅迫状が来たんだ」
「え?」

不穏な響きの言葉に高耶が戸惑う。直江も眉間にシワを寄せて高耶の脇に立って聞いている。
高耶が座っている目の前のソファに腰を下ろし、千秋が封筒を内ポケットから出して見せた。

「読む前に俺の話を聞いてくれ。午前中に本屋あてにこの封筒が届いた。郵便屋が運んできたんじゃない。お客様ポストに投函されてたのを店長がみつけたんだ。店長はこれを読んで驚いて、地域営業所の連中に電話をした。そしたら営業所長は本社に相談したらしくて……おまえには申し訳ないが、パートを無期限で休んでもらうことにした。要するにクビだ」
「クビ……?」
「ああ。事件が収まったら戻ってくることはできるけどな。関わりたくないからクビにすることになったんだと」

高耶が生活の中心にしている本屋での仕事がなくなる。もちろん毎月の給料の宛ても今なくなったということだ。

「でもこの手紙を見ればおまえをクビにせざるを得ないんだ」

高耶が恐る恐る手にした手紙にはたった数文字でこう書いてあった。

『仰木高耶を辞めさせないと店内で殺す』

「こんなの誰も信じちゃいねーよ。白昼堂々店で殺すなんて、捕まえてくれって言ってるようなもんだ。ただ可能性がまったくないわけじゃない。店側としてはおまえを守るつもりもあり、店を守るためでもあり、クビって結果を出したまでだ。誰もおまえをクビにしたいなんて思ってないから、事件が収まれば優先的に戻れるし、今期の有給を金に代えて出してもいいって言ってる。俺も、おまえの安全を考えると店にはいない方がいいと思うんだ。犯人はおまえが店で働いてるのを知ってるわけだからな」

仕事をクビになることよりも、不気味さの方が先に立った。
殺されるようなことをした覚えはまったくない。

「高耶さんを他の誰にも渡したくない、そういう意味でしょうか」
「だって!そんなこと言ったってこれを出した犯人が誰かだかもわかんないのに!渡すも渡さないもない!」
「ストーカーというのは、そういう矛盾を平気でするんですよ」

息を詰まらせて青ざめる高耶に酷だとは思ったが、千秋がもう一件の話を始めた。

「嘉田の店も辞めろ。あそこで働いてるのももうバレてるはずだ。しかも深夜まで働いてるおまえを狙うのは本屋で働いてる時より簡単だ。危険度は本屋より高いんだ」

確かにそうだ。今まで「おかしい」と感じるのはだいたいバーで働いた帰りや、深夜家に戻った後だった。
もう今までのように高耶をつけるだけでは足りなくなっているのかもしれない。

「このまま姿をくらまして、別天地で働いて生きていくか、しばらく姿を隠して事件が解決するのを待つかだな」
「う……」
「このぶんじゃ嘉田の店にも似たような手紙が届いてるかもな。とにかくおまえは危険な状態にいるってことだ」

叫びたい衝動が込み上げてきた。あと少しで嗚咽が口から出る、そう思った時。

「私が、守ります」

直江の固い決意が現れるような低い声がした。

「あなたの家に石を投げ込ませたのは、私が原因に間違いないんです。そんな卑劣な輩に負けるのは悔しいでしょう?いくらだって協力します。警察へも何度だって足を運びます。高耶さんの身は私が守ります。危険からすべて。だから犯人に二度とそんな気を起こさせないようにしてやりましょう」
「……だけど」
「もちろん捕まえるのは警察です。だけどあなたがこんなことで屈しない人だというのを、犯人に知らしめてやりましょう」
「だって……でも、そんなの」
「あなたにその気があるなら、私はいくらでも力になります」
「俺もだ。こんな馬鹿げたやつのせいで友達が苦しんでるなんて、考えただけでも腹が立つ」
「どうしますか?考える時間が必要だったら、待ちますよ?」
「……少しだけ、時間をくれ……」

怯えるだけではなくなった高耶の目を見て、千秋は直江のマンションを出た。
最後に「アンタがストーカーじゃなくて安心したぜ」と直江に囁いてから。

 

 

 

つづく

 
         
   

直江犯人説解除。

   
         
   

8へススム