ストーカー



 
         
 

明け方近く、直江の執筆作業が落ち着いたのでいつものようにおやすみなさいを言ってから高耶は和室の布団へ、直江は寝室へ入った。
ようやく恋人同士になったとはいえ、まだ日も浅いしお互いを少しずつ理解していっているところなだけに、寝室まで一緒というわけにはいかなかった。

ところが直江がウトウトし始めたころに寝室のドアが開いた。

「……寝てた?」
「……ええ、少し……どうしたんですか?また怖くなりましたか?」
「それもちょっとだけあるんだけど……」

高耶がベッドに座って直江の顔を見つめる。この男の眠そうな顔を見たのは初めてかもしれない。

「エッチしなくていいのか?」
「……は?!」

直江の驚きようは半端ではなかった。まだお互いに知らないことが多すぎる。
名前や年齢、出身地など具体的なことなら知っているが、考え方や理想などは聞いたことがない。
そんな未熟な間柄で、どうしてセックスしようと言えるのか。真剣な交際を望んでいるのだからもっと知り合ってからでも遅くはないし、その方が後悔も少ないだろうに。

「……そのうちでいいと思ったんですけど……」
「オレは今がいい……」
「怖くないんですか?」

起き上がって片手で高耶の頬を包みながら怯えさせないように優しく話す。
手から高耶の緊張が伝わってきた。

「本意ではないんですね?だったらどうしてそんなこと言い出すんです?」
「……犯人、男か女かわかんないんだよな?」
「ええ……まだわかっていませんが」
「もし男だったら、オレ、襲われて、やられるかもしれないんだよな?」
「……だから……先に私と……?」
「うん」

考えはわからなくもない。初めての相手が好きな男か、見ず知らずのストーカーか。
それは高耶にとっても直江にとっても大きな問題だ。

「だけど、本当は怖いんですよね?そんな時にしてしまったら……」
「怖いけど!怖いけど、直江じゃないヤツはもっと怖い!」

真剣な目をして高耶が直江に縋りつく。
高耶の体温を感じて直江は優しく背中を撫で、何度も髪にキスをした。

「愛してます……あなたを守るためなら、あなたを傷つけるのも怖くない」

朝日が差し込む静かな寝室。高耶は静かに直江のベッドに入った。

 

 

 

あの脅迫状以来、高耶の身辺には何も起きていない。
高耶が篭りきりになったのが大きな原因だろうが、本格的に警察の捜査が入ったことがわかったのかもしれない。
本屋では千秋が、バーでは嘉田と中川が周囲に気を配ってストーカーらしき人物を探してみたが、そんな人物は見当たらなかった。
色部にも直江が何度か会いに行って捜査の動向を聞いてみたが、これといって目立つ人物も事件もないそうだ。

2ヶ月が過ぎて、直江との仲も安定し、ストーカーの気配もなくなった。
それでも警戒は怠らないようにしていたつもりだった。

いつものように直江が帰宅前に電話をかけ、そろそろタクシーでマンション前に着くと言った。
時間は夜の8時。大学での講義が終わってミーティング後に大学前からタクシーに乗り、その中から電話をかけた。

高耶は最近少しだけ夜型から昼型に変えた直江のために夕飯を作り終え、帰宅を待っていた。

家のドアが乱暴に開けられた音がした。
以前感じた恐怖が高耶を襲う。

「……だ……誰……?」

時間的には直江の帰宅時間ぴったりだった。
しかし直江はドアを開ける際には必ずインターフォンで確認を取ってから入ってくる。こんな開け方はしない。

防犯用の警棒代わりになるマグライトを持って玄関へ、おそるおそる出てみた。
そこにうずくまった直江の姿があった。

「なおえ……?」
「高耶さん……やられました……」

見ると腕から血が出ていた。

「直江!それ!」
「襲われました。申し訳ありません……」
「手当てしないと!救急車!」
「そんなにひどくありませんから、混乱しないで」
「んなわけにいくか!」

慌てて警察と救急車を呼んだ。直江の腕は服ごと深く切られていた。ナイフか包丁で切ったあとのようだ。
救急車が来る前に応急処置を。袖を縦にハサミで切り裂いて、患部よりも心臓に近い二の腕をきつめに包帯で締めた。
傷口にガーゼを当てて、その上からも傷を塞ぐために包帯をした。
恐ろしさと緊張で震える手指をどうにか叱咤しながら、応急手当てを済ませると警察よりも先に救急車のサイレンが聞こえてきた。

直江は見た目ほどひどくはないと言うが、手当てをした時の傷からは真っ赤な筋肉組織が見えていた。
ひどくないわけがない。

インターフォンが部屋に鳴り響いた。外からは数人の足音と、救急隊員とマンション管理人の声がしている。
目の前の玄関を開けると救急隊員が玄関先に座り込んでいる怪我人を見て冷静に対応しはじめた。
血圧、体温を測って、電話でベッドが空いている病院を探した。
救急隊員は警察も来ると知って高耶に残るように言ったが、直江が事情を話すと残しておけないとわかったらしく高耶も連れてマンションを出た。
警察には病院へ来てもらうことにして、高耶が色部に直接電話をかけた。

直江はすぐに治療を受け、何針か縫われて感染症のための点滴をするため、診療室の長椅子に寝かされている時に色部が病院に到着した。

「……いったいどうしたんだ……」

直江の腕に巻かれた包帯と、刺さっている点滴針を見て色部が息を飲んだ。

「たぶん高耶さんのストーカーでしょう……タクシーを出てマンションに入る時にやられました。走ってきて体当たりされそうになったので、避けたんですけど……腕をやられました」
「避けなかったら腹に刺さってたわけか」
「でしょうね……」
「見た目はどんなだ?」
「それが、突然すぎて……」
「男か女かぐらいはわかっただろう?」
「……小柄な男か、大柄な女か……服装は男性でしたけど、中身まではわかりません」

直江の腕を切ったのを手ごたえと感じたのか、すぐに逃げてしまった。追いかけようとしたが思ったよりも血が多く出ていたし、相手が離れているうちにマンションに入ってしまわないと部屋番号までつきとめられてしまう可能性が高いと判断して、直江はすぐに部屋に行ったのだ。
それに何より、追いついたとしても片腕が利かない状況では殺される場合もある。殺されてはこの先高耶を守る人間がいなくなる。
そう思って追いかけるのを諦めた。

「一般市民にはそれが一番正しい行動だな」
「これでも教育者の端くれです。非常識なことはしませんよ」

直江の脇で小刻みに震えている高耶に、色部は今以上怯えさせないよう気を使いながら話し出す。

「マンションをつきとめられたね。どこかで君の動向を探っていたということになる。直江さんや他の人と出かけたときに違和感は感じなかったかい?」
「……それは……全然……」
「では誰かが直江さんの家に君がいることを他言した可能性は?」
「……ないと……思います」

高耶が直江の家にいることを知っているのは綾子と千秋、嘉田、中川、実家の家族だけだ。
その中の誰もが他言するような人間ではない。
そうなると直江か千秋が尾行されたことになる。

「しくじりましたね」
「まあ、向こうは直江さんの顔も知っているんだ。仕方ない」
「ここ2ヶ月間、私をつけるとなると大学と出版社への往復と、買い物と警察署ぐらいでしたが……。なるべく私も外出は控えるようにしてましたから」

色部は調書の他にも直江がでかけた先を事細かに聞いてメモを取った。
そこから浮かび上がるものがあるらしく、書いたメモを読みながら一心に考え込んでいる。
しかし直江が出かけた先は本当に数箇所しかない。諦め顔で手帳を内ポケットにしまった。

「今頃はマンションに鑑識が行っているだろう。治療が終わったら戻ろう」
「はい」

深い傷ではなかったので入院にはならずに済んだ。高耶は心配していたが、直江にとっては一人で高耶をマンションに残しておかなくて良いので安心した。
通院はしなくてはならないが、それでもずっと高耶を一人にさせるよりもいい。

点滴が終わってから色部と供にパトカーに乗ってマンションに戻った。
マンション玄関前では鑑識が地面に蹲って調査をしていた。
高耶の興奮状態は治まらず、直江は病院を出る時からずっと高耶の肩を抱いている。鑑識や色部と話す間もずっとだ。

「どのへんで襲われたんだ?」
「玄関に入る直前ですから、ちょうどこの階段の上あたりですね」

直江の血がまだ点々と残っている玄関前の一部分だけに、血が大量に落ちていた。そこで腕を切られた。
高耶が直江の肩に顔を埋めて、血溜まりを見ないようにしながら怯えた。

「何か見つかったか?」

色部が鑑識に声をかけると、血のついた靴跡が数人分残っていたと言う。
靴底の模様で直江のもの、高耶のもの、救急隊員のもの、マンション管理人のものと分けられる。
その中で一人分だけ誰のものとも合致しない靴跡があった。

マンションの住人であれば最低でも2人分の不合があるはずだが、1人分だとすると犯人のものとしか考えられない。
その靴跡の写真を撮り、サイズを測ってあるそうだ。

「サイズは24,5センチ。有名メーカーのスニーカーです。老若男女、どれとも判断はつきかねますね」
「そうか……直江さんの言ったとおりだな……こりゃちょっと困難だなあ」
「足跡を追いましたが、少し離れた道路で途切れました。壁に向かって消えていたので自転車かバイクに乗ったと思われます」
「そうか……自転車かバイク、どちらかがそこに停めたのを見ている人がいるかもしれない。一帯の家を一件ずつ当たってみるしかないな。それと高耶くんのアパートで採取した靴跡との照合を頼む」

鑑識の調査が終わり、直江と高耶の調書を取り終わってから警察は戻っていった。
マンションの警戒は今までよりもパトロールを強化する上で、直江にも一週間ばかりは外出しないように警告した。
講義は休講になってしまうが、これでまた何かされたら今度は怪我だけで済む保証はない。

部屋に戻ると高耶が直江の血の残る玄関を掃除し、ダイニングに出しっぱなしになっている食事を片付けた。
食欲などカケラも残っていない。
ずっと興奮状態だった高耶がようやくソファに座って震える大きな溜息をついた。

「誰か雇いましょうか」
「誰かって……?」
「警備員やボディガードを。今の私では役に立たないでしょう」
「いや……大丈夫……。直江の怪我を見て、ずっと考えてたんだ。確かに怖いけど、だけどもうこんなことされて大人しくしてるのはイヤだ。警察だってずっと見張っててくれるわけじゃないんだってわかった。オレがどうにかしなきゃ、直江も、オレも、殺されるかもしれない」
「でも危険なんですよ?」
「それでもだ!直江がもうこんな目に遭わないためなら、何だってするよ!」

止めても無駄だと高耶の目が直江を見つめる。
それでも犠牲になる覚悟をつけるなんてとんでもないと、直江は必死で高耶を止めた。

「だったらどうすりゃいいんだよ!」
「まだ警察だって動いてくれてます!あなたをわざわざ危険に晒してまで私など守る必要はないんです!いいからあなたは大人しく部屋の中にいなさい!」
「いくら厳重にしてたって相手は頭のおかしいヤツなんだぞ!部屋にいたって危険かもしれない!現にオレのアパートだって合鍵作られて侵入された!部屋の中にまで入り込んで荒らして、石まで投げてきたんだ!警察が調べてるつっても直江は襲われて切られた!殺されそうになってんだぞ!なんでオレが狙われてるのに直江がこんな目に遭うんだよ!そうだろう?!おかしいじゃねえか!」
「私とあなたは一心同体なんです!あなたが狙われるのなら、私が襲われても当然なんです!」
「そんなのイヤだ!」

とうとう高耶が大粒の涙を零した。しゃくりあげる声の中で途切れがちに漏らす。

「オレがっ……怪我したら……直江だってオレと同じように思うだろう?!もう、怪我なんかさせたくないって!」
「高耶さん……」
「オレがそんな目に遭うなら、自分がいくらでも……傷付こうって思うだろうっ……!」

顎を震わせて涙を零す高耶の腕を引き寄せて、自分の胸に押し付けた。
同じぐらい、相手を想って、同じぐらい、相手を愛して、大切にしている。
それが嬉しくて仕方なかった。

「それなら……二人で捕まえましょう……徹底的に調べて、追い込んでしまいましょうか」
「ん……」
「私たち二人のために」
「直江……」

直江と高耶の鼓動がその時同じになった。

 

つづく

 
         
   

怪我した。

   
         
   

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