翌日、大学構内のサークル棟に例の彼女、東堂遥がやってきた。メールでは何度かやりとりしていたが、ちゃんと話を聞くのはこれが初めてだった。
向かい合わせで千秋と高坂がメモを取りながら聞いている。
「そんで、東堂さんはその幽霊に心当たりはないんだな?アパートに住み始めたのはいつから?」
「二年前です。様子がおかしくなったのはつい最近のことで、二ヶ月前ぐらいに音がし始めたんです。ラップ音ていうんですか?」
「黒い影ってのは?」
「それはラップ音が続いてから……一週間ぐらいしてからでしょうか。勉強してたり、テレビを見てたり、何かしてる時に黒い影がスッと通り過ぎるような感じがして、最初は気のせいかと思ったんですけど、それが頻繁に起こるようになって、おかしいって思ったとたんに布団に乗ってくるようになりました」
これはどうやら直江が言っていた通りに深刻かもしれない。
「こんなこと誰に言っても信じてもらえないし、私の頭がおかしいって言われてしまいそうで怖かったんですけど……」
「大丈夫、俺ら、そーゆー話の専門家だから」
得意げに胸を反らした千秋を横目で見て、ほんの少し嘆きながら高坂が後を引き継いだ。
「それで、だ。話を聞いてるだけじゃ埒が明かないからアパートを見せてもらいたいんだが」
「あ、はいっ。いつでもかまいません」
「協力してくれる霊能者を連れて行ってもかまわないか?」
「ええ、もちろんです」
協力してくれる霊能者というのは当然直江のことだ。
昨夜のうちに直江の部屋に高坂と千秋で行き、必要ならば彼女の家へ行くかもしれないからついて来てくれと丁寧に頭を下げて頼んである。
直江は事情を知っているだけに快諾してくれた。
「なるべく早めがいいんだが、明日あたりでどうだろう?」
「授業が終わってからでしたらいつでも」
どうせ直江も昼食は高耶と過ごしているのだから、午後からの方がいいはずだ。もし楽しい昼食を邪魔するようなことになったら高耶の機嫌が悪くなるのと比例して居心地まで悪くなる。
さらに高耶の機嫌が悪いということは、直江を敵に回す可能性もなきにしも非ずだ。そうするとこの依頼を断らないといけなくなり、クラブは信用を失くし時間の経過と共に廃部へ。それだけは絶対に避けたい。
「じゃあ明日、授業が終わり次第電話して仰木荘に来てくれないか?案内頼むよ」
「はい。よろしくお願いします」
東堂が部室から出ると、高坂が小さな声で千秋に言った。
「かなり深刻だな」
「いたずらで済ませられる段階じゃねえな」
「呪い殺す気かもしれないから、慎重かつ迅速に解決しなければ」
東堂の部屋に出る幽霊らしきものの正体を予想しながら千秋と高坂も仰木荘に戻った。すぐに直江に今回の話をしに部屋を訪れると、パソコンに向かって仕事をしているところだった。
「てわけで、明日の午後、いいかな?」
「ええ、明日の午後でしたら予定はありませんし、大丈夫なんですが……」
「なんですが?何?」
「高耶さんも行くと言い張ってまして」
「はあ?」
「なぜあいつまで付いて来るんだ」
「言い分としては仰木荘の住人の安全を見守る義務があるとかで」
「直江に何かあったら心配でたまらない、ってところか?」
「まあ……そうだったらいいんですけどね」
ニヤけながら直江が言い放つ。下宿全員の公認だからと言ってノロケすぎじゃないかと二人はウンザリした。
高耶はともかく直江は平然とノロけるからいい切り返しも思い浮かばない。
「明日は見るだけにしておきましょう。様子がわからないと対策も出来ませんから。あとお二人は数珠はお持ちですか?」
「いや、持ってないけど」
「俺は持ってる」
「じゃあ千秋さんには私のを貸します。絶対に持参してください」
「おう」
引き出しから翡翠の数珠を出して千秋に渡した。きれいな珠が連なる数珠は、興味のなかった千秋でも目を輝かせるほど立派なものだった。元は母親が使っていたと聞いて普段は大雑把な千秋も緊張しながら手の中に入れた。
「それと用心のためにお守りを作っておきますから、それは明日ということで」
「ああ、頼んだぞ、直江」
お願いするはずの立場である千秋の横柄な態度にムッとしたのか、直江が突然口調を強くして釘を刺した。
「……言っておきますが、これはあなたたちの為ではありません。東堂さんのためと、高耶さんのためですからね」
「そりゃわかってるけど、高耶のためって?」
さらに直江は口調だけではなく表情も変えた。今までに見たこともないほどの怖い顔をして、千秋と高坂に迫る。
「これ以上、仰木荘に面倒事が起きないように、です。あの人は妖怪は大丈夫だけれど、幽霊は苦手なんです。万が一、今回の幽霊が仰木荘に来たら高耶さんが怖い思いをするでしょう。そのために協力するのであって、あなたたちの資金稼ぎを手伝うわけではありませんから、そのつもりでいてください」
「……わかった」
有無を言わせぬ直江の迫力に押されて強気な高坂ですら一瞬体を引いてしまった。
「では明日は私の言うことをしっかり聞いて従ってもらいますよ」
「はい……」
迫力負けした千秋が素直に返事をする。一緒に聞いていた高坂は直江の本心などお見通しだったのか、無表情のままだった。
直江の部屋を退出した二人は千秋の部屋で話すことにして廊下に出た。
「直江って案外おっかねえヤツかも」
「しょうがないだろう。恋に狂った男の性だ」
「高耶のためってか?」
「高耶のためなら鬼にでもなるだろうな。ああいう手合いは面倒でもあるが、使いようによってはこっちがどうにでも出来る。利用できるなら高耶を利用すればいいわけだ」
「……おまえも案外おっかねえな、高坂」
「今頃知ったのか?」
「いや、知ってたけど」
とにかく直江が動いてくれるのなら問題ないと、二人は共同冷蔵庫から缶コーヒーを出して部屋で雑談をすることにした。
管理人室を訪ねた直江が明日のことを高耶に話した。明日の午後に千秋たちと一緒に東堂のアパートに行くことになった、と。
「オレも行っていいんだろ?」
「ええ、千秋さんたちに許可は取りましたが、私としては高耶さんには留守番を頼みたいんです」
「危ないかもしれないからってんだろ?でもそんな危ないとこに直江だけやれるわけないじゃん。オレだって心配だもん。行くからな」
こうなった高耶には何を言っても無駄だとわかっている直江。きつい目つきで言われたら諦めるしかない。しかしそのきつい目の光の奥には幼い甘えも少しだけ見える。
「私があなたを守れるぐらいにそばにいるって約束してくれるなら、いいですよ」
「ずっと直江の横にいればいいってこと?」
「そうです。勝手に何かを触ったり、一人でウロウロしないなら」
「うん、わかった。そばにいる」
横目でカーテンがかかっているのとドアの鍵がかかっているのを確認して、直江がゆっくり顔を寄せてキスをした。
「明日の午前中に全員分のお守りを作っておきますから、高耶さんもちゃんと身に付けてくださいね?数珠も持ってて。それと、あなたには特別におまじないをしてあげますから」
「おまじない?」
「バリアみたいな感じのものを作ってあげます。誰も高耶さんに害を加えないように、しっかりしたものを」
そんな技を直江が使えるのかと聞いてみたら、もう一度キスをされた。
「私の唇から、あなたの唇に、呪文を入れるんです」
「……それって、キスってこと?」
「そうですね、やり方としては同じです。長くて心のこもったキスみたいなもので」
しばらく直江の目を覗き込んでいた高耶が笑った。
「それ、さては自分のオリジナルの方法だろ。キスしたいだけなんじゃないの?」
「そうとも言います」
「ははっ」
甘えながら抱きついて、高耶からキスをした。
「オレも直江におまじないしてやる」
「それは嬉しいですね」
「なあ……今夜、ここに泊まってけば?」
「幽霊が怖いから?」
「うん、そう。幽霊が怖いから。あと、オレのおまじないは一晩中かかるから」
可愛らしい冗談に小さく笑ってさらに強く抱きしめた。
「じゃあ、おまじない、お願いします」
「うんっ」
直江用に買った布団を出して、寝室に二組の布団が敷かれた。いまだにプラトニックな関係を続けている最大の理由は「そばにいるだけで満足」だからだ。いつだって踏み出せる一歩だったらもう少し純愛を楽しんでいたい。そんな二人。
翌日の午後に東堂から電話が入り、出かける準備をしているうちに仰木荘に東堂がやってきた。東堂のアパートはここから数分の場所にあるらしい。
「紹介しとく。直江だ。今回手伝ってくれる霊能者」
「よろしくお願いします」
「あ、よ、よろしくお願いします……」
どう見ても直江に見とれているらしき女学生に妬いて高耶が千秋の背中をつついた。その意味を悟ったのか、すぐに千秋が高耶の紹介もした。
「で、こっちが下宿の管理人の高耶。直江の……助手、みたいな感じで手伝うことになったんだ」
「よろしくな」
「はい」
どうも直江は女の目を引き付ける魅力があるらしい。これまで何度かデートと称して出かけたことがあるが、すれ違う女が直江を振り返っている場面に遭遇したことは一度や二度ではない。今回も東堂の目は直江に釘付けだった。
「さっそく行こうか」
「あ、待ってください。先にこれを」
直江が一人一人に手渡したのは小さな和紙の包みだった。
「何、これ」
「簡単なお守りです。真言が書いてある紙と、念を入れた塩が包んでありますから、これだけでも充分強力なお守りなんですけど、何かあったら中の塩を使って霊を遠ざけることもできます」
「へえ。すげーな」
高耶の手の中にも同じものがある。しかし高耶だけは特別で、昨夜のうちに直江がおまじないをしてあった。
おまじないというと拙い言い方だが、実際に直江が施したのは本格的なもので、長いキスをしている気分の高耶に強い護法をかけた。
まず直江の体内に真言で大日如来を宿らせる。如来という存在の気だと思ってもらうとわかりやすいかもしれない。それを時間をかけてゆっくり自分の体から高耶の体に移動させる。単にキスをしていると思われては効果がないので、高耶にはちゃんと説明した。
「行きましょうか」
「はい」
東堂に案内されて向かったのは、商店街の外れにある新しめのアパートだった。その前に立ったとたんに直江の足が止まった。
「これは……私では無理かもしれませんね」
「え?そんなにひどいのか?」
「ひどいと言うか何と言うか……入れないんです」
「入れない?」
「ええ、私だけが、でしょうね」
直江が立ち止まった理由は「入れない」だけらしい。足を踏み出せば敷地に入れることは入れる。しかし入ったが最後、どうなってしまうのか自分でも見当がつかないと言う。
「結界みたいなもの?」
「それとはまた違うんです。宗教の違いのせいで拒否されている感じです」
その程度だったら神社や教会に入る時に感じる拒否感と同じだが、今回ばかりはわけが違う。入れる入れないの問題ではない。実際は入れるのに、入ってからどうなるかがわからない。
神社や教会では初めは拒否される感じがあるものの、入って礼を尽くせばそれが薄れる。薄れるとわかっているから入れる。
しかしここは薄れる予感がしない上、絶対的な拒否が漂っている。
「私はここで待っていますから、高坂さんと千秋さんだけで見て来てもらえますか?お二人だったら霊視能力は高いんですから、どんなものがいたかぐらいはわかるでしょう」
「ああ、祓えるのが直江しかいないってだけだからな。いいぜ、行ってくる」
不安そうな顔を東堂にさせてしまったが、入れないのでは仕方がない。高耶は相変わらず直江のそばについている。手を振って千秋たちが敷地内に入り、アパートの建物の中に消えた。
「入ったら何がありそうなわけ?」
「さあ。でも危険だってことはわかります。こんなに怖いと感じたのは久しぶりです」
「無理すんなよ?出来ないんだったら出来ないんでいいんだからな」
「……ありがとう、高耶さん。でもそうも行かないでしょう。東堂さん、大変なことになってるんですから」
「そうだったっけ……」
東堂の命の火があと少ししかないのを高耶も知っている。これをどうにか元に戻さないといけないのだ。
「必要であれば他の誰かを紹介するしかないですね」
「知り合いにこういうの出来る人いんの?」
「出版社のコネを使いますよ」
じっとしても仕方がないと思い、高耶を連れてアパート周囲を歩いてみた。敷地内に入れないだけで、周囲はなんともない。これはやっぱり宗教上の問題だろうとわかった。
「宗教って、直江は仏教だよな。じゃあ他の何か?キリスト教とか?」
「キリスト教はそうでもないんです。イタリアなどの強い信仰の地のカタコンベなんかは無理だと思いますが、普通の教会なら平気なんですよ。日本の神社でもイスラムのモスクでも大丈夫です。神様と呼ばれるものが支配している所はほぼ平気ですから、たぶんここはそうじゃないものが支配してるんでしょうね」
「そうじゃないもの?」
「ええ、カタコンベは教会ですが、要は聖職者の墓場でしょう。人間の霊が支配してるんです。そういう場所は……」
何か思いついたらしく言葉を切った。
「どうした?」
「もしかしたら……」
高耶の手を取って離れないようにと言いながら裏庭が見える場所に回った。さきほど歩いている時は気が付かなかったが植木に隠れて小さな祠が見えた。
「やっぱり」
「何?何があんの?」
「お稲荷さんですよ」
「お稲荷さん?」
高耶の頭に浮かんだのは油揚げと酢飯の稲荷寿司だったが、そうじゃないだろと頭を切り替えてようやく稲荷神社だと気付いた。
「お稲荷さんはキツネですからね。神様ではありますが動物です。動物を神様にしてる場所だと入りにくいんです」
「なるほどな」
「普通のお稲荷さんには入れますけど、やっぱり他と比べて入りにくいのは確かです。しかも今回は普通じゃないみたいで」
難しい顔をして考え込んでしまった直江に何かしてやりたいと思う気持ちから、高耶がひとつ思っていたことを話した。お稲荷さんに対抗できるかどうかはわからないが、多少の縁を持つもの。
「キツネかぁ。んじゃタヌキに話通してもらうこと、できないかな?」
困惑していた直江の顔がみるみるうちに明るくなる。高耶の両手を握って上下に振りながら半分叫ぶような声音で言う。
「……高耶さん!あなたはなんて素晴らしい人でしょう!そうですね!その手がありますね!」
「そんなに褒めるようなことじゃ……」
「帰ったら聞いてみましょう!」
「う、うん」
名案かもしれないと思いながらアパートの玄関に戻った。ちょうど千秋たちが出てきたところだった。
「どうだった?」
「なんとなくしかわからなかったけど、幽霊って感じじゃなかったな。狐狸の類じゃねえか?」
「直江、やっぱそうみたい」
高耶が言った一言に高坂が何か見つけたのかと聞いてきた。
「裏庭にお稲荷さんがあったんだ。直江はそれじゃないかって言ってるんだけど……えーと」
急に口ごもって東堂を見た高耶の様子からして、これ以上は東堂の前で話せないんだろうと察知した二人は、今日のところは下宿に戻って対策を練るべしと提案した。
東堂が何もしないまま帰ってしまうのかと千秋に詰め寄り、それをいつもの口調でうまくかわしている。千秋本人としては安心させるために出来るだけ軽く言っているのだろう。
「今日は元々下見のつもりで何も用意してねえんだよ。だから明日か明後日、対策が出来たら来るから」
それでも不満そうな東堂の心境は複雑なのだろう。霊現象も怖い、しかしもっと別の意味もある。直江だ。
こんな状況だからこそ、一目惚れをした直江に頼りたい。もう少し直江のことを知りたい。どこかで縋ってみたいと思っているようだった。
しかし直江は隣に立つ高耶は気になるものの、他の人間の好意など感づくわけもなく、あっさりと千秋の意見を取り入れた。
「ええ、そうですね。東堂さんにさっきお渡ししたお守りがあるでしょう。あれでしばらくは大人しくしてくれるはずですから大丈夫ですよ。何かあったら千秋さんか高坂さんに電話をしてください」
「……はい」
不安そうな東堂を置いて帰るのは直江としても申し訳なかったが、何も対策がないのでは仕方がない。手を振って元来た道を歩き始めた。
歩きながらアパートに入れなかった理由をさっき高耶にしたのと同じように話した。直江の説明を聞いてそんなこともあるんだな、と千秋が関心を示した。
「根っからの仏教徒と判断されたんでしょう。自分ではそんな自覚はないんですが、僧侶の資格もあって、お守りを作ったりお札を作ったり、そういうことが出来るとなればガチガチの仏教徒だと思われても仕方ないんでしょうね」
「なるほどな。俺たちは宗教関係者でもなんでもない、ただの霊感青年てだけだから拒否されなかったわけか」
「だと思います。どうして東堂さんに出るのかわかりませんが、あのアパート全体がキツネに憑かれてるんでしょう」
仰木荘に着き、高耶の部屋に集まってお茶を飲みながら話の続きになった。千秋も責任感や不安は人並みにあるらしく、全員に向かって言った。
「直江が拒否られてるんだったら、どうやって祓えばいいんだ?たぶんその裏庭にあったとかいうお稲荷さんが原因なんだよな?キツネなんか相手にしたことねえから俺たちじゃダメかもしんねえじゃん」
「ええ、私たちではどうしようもないかもしれません」
頼りにしていた直江から諦めモードの言葉が出て、切羽詰った状態の千秋がイライラし始めた。
「じゃあどうしたらいいんだよ」
「さっき千秋さんが『狐狸の類』って言ったじゃないですか。だったら適任者がいるとは思いませんか?」
「適任者ぁ?」
考え込んだ千秋に呆れて、高坂がその質問を受け取って答えた。
「タヌキだな」
「あ、そうか!タヌキか!」
「そうです、タヌキさんに話をしてもらえるかもしれません。ちょっと頼んでみましょうか」
パチンコ代をせびられてしまうかもしれないが、そこは必要経費ということで東堂から貰うギャラから出せばいい。
「高耶。おまえタヌキ呼ぶの得意だろ。いっちょ呼び出してくんねえ?」
「得意じゃねえよ!」
「直江のためだろ?」
渋々といった感はあったが直江のためと言われてしまっては高耶も悪い気持ちはしない。廊下に出て大声でタヌキを呼んだ。いつもの如くパチンコ代をやるぞ、と。
しばらくしてお爺さんの姿をしたタヌキがやってきた。とにかく部屋に入れとせかされて心持高耶を疑ったが、強引に背中を押されて諦め、直江たちの待つ部屋に入った。そこには予想もしなかった千秋と高坂の姿があった。
「嫌な予感がするんだが」
「おお、大正解。さっすが妖怪は勘がいいね〜」
ニヤニヤ笑っている千秋と高坂に背筋の寒い思いをしながら座ると、横にその二人が座り、まるで逃がさないとばかりに周囲を占拠されてしまった。
「……今まで生きてきた中で一番嫌な予感なんだが……」
「まあ、そう言わずに聞いてみろって。パチンコ代はちゃんとやるからさあ。その代わりちょっと協力してくんねえ?」
「きょ……」
「嫌だと言ったらパチンコはこの先三十年以上出来ないと思え」
高坂が有無を言わせる隙すら与えずに脅しをかけてきた。とうとう二人の気迫に押されて嫌々話を聞くはめになった。
「おまえ、キツネとは話せるか?」
「キツネ?」
「正確にはお稲荷さんだ。どうだ?」
「……話せないこともないが、あいつらはケチで有名だから何か持っていかないと蹴られるんだ」
「何かって?」
「油揚げとか」
ベタな話に真剣になっていた人間四人は力が抜けてしまった。キツネといえば油揚げなのか、と。
「どこのキツネだ?そこの神社のか?あそこの神社のキツネはプライドが高くて好きじゃないんだが」
「ああ、そこのじゃない。近所の家の小さいやつ」
「近所の?だとするとここらへんは前田さんのとこだな」
「前田さん?」
「ほれ、数年前まで古いお屋敷があっただろう。あそこが前田さんだ。今は取り壊してアパートになっているはずだ」
「ああ!あの屋敷な!」
この下宿に来た年数がまだ浅い高耶と直江だけがどの屋敷なのかわからないでいるが、古株の千秋たちにはわかったらしい。
「あれ、前田さんのアパートか。なるほどな」
「前田のご主人が亡くなって相続税対策とやらでアパートにしたらしい。そこか?」
数年前まであった屋敷を相続したはいいが、相続税が思ったよりも高額だったため、古い屋敷を壊してアパートに建て替え、家賃収入で相続税を払っているんだとタヌキは事情を話した。
「それだそれだ!どうだ?もしかして知り合いか?」
「古い付き合いだから話すのはなんてことはないが……しばらく音沙汰なしだからなあ。どうなっているのかわからんなあ」
お屋敷があったころはちょくちょく会っていたそうだが、あそこがアパートになってからは全然出てこなくなってしまったらしい。妖怪や狐狸仲間でも、今流行の引きこもりになったんじゃないかと噂されているそうだ。
「天岩戸じゃあるまいし、神様が引きこもりってこたぁないと思うけど」
「タヌキ、今から行って話してこい」
「……高坂は相変わらず妖怪使いが荒いな」
「やかましい」
高坂の迫力、千秋の小馬鹿にした態度、直江の嘆願の目、高耶の好奇心に押されてタヌキは下宿を出て行った。
「あとは情報待ちかな」
「タヌキが帰ってくるまで俺たちは一休みするか」
とっとと管理人室からいなくなってしまった高坂と千秋の態度を見て、高耶も直江も悟った。あの二人は基本的に他力本願なのだと。
「もしこれでタヌキが何も話してこれなかったらどうするつもりなんだろ」
「猫村さんや他の妖怪の皆さんに頼むか……とにかく自分たちだけでどうにかしようなんて思ってないことは確かでしょうね」
「まったくもう」
大きな溜息をついて高耶が寝転んだ。何かしたわけじゃないのに疲れたと言いながら。
「高耶さんは元々感じる能力が高いから、あのお稲荷さんの気に当てられたんでしょう。少し昼寝したらいいんじゃないですか?」
「直江は部屋に戻るのか?」
「ええ、仕事をしないといけないから」
「……直江の部屋で昼寝する」
「いいですよ、行きましょうか」
どうせ客なんか来ないから管理人室に居付く必要もないか、と適当な言い訳を作って直江の部屋に移動した。
毛布を出してもらってそれにくるまって畳の床に寝転ぶ。借りた枕と毛布は直江の匂いがする。高耶の視線の先には直江の背中。パソコンに向かって小説を書いている。
「直江」
「寝てなかったんですか?」
「うん」
パソコンから目を離さずに直江が返事をする。仕事の邪魔をしてはいけないと思うが、心配事が高耶の頭に浮かんでいた。
「東堂さんて、可愛かったな」
東堂が直江に見蕩れていたことや、直江を頼りきっていた様子を思い出す。この男は容姿はいいし、物腰は柔らかいし、もてるだろうと予想はしていたが、まさか目の前で女性が直江を好きになっていく様を見るのは予想外だった。
「……気になります?」
「なるよ」
カタカタといい音を響かせていたキーボードの音が止まった。それから振り向いた直江の表情がやけに険しい。
「どうして気になるんですか。可愛かったから?」
「……だってあんなに可愛くて、上品そうで、守ってあげたい感じがするんだもん。気にならない男がいるか?」
さらに直江の顔が強張って、唇が震えている。
「それでどうしたいんですか?」
「どうって……心配だから……」
「ずっとそばにいたい、と」
「そんな感じ」
珍しく直江がこめかみに血管を浮かせていた。やっと直江のそれに気が付いた高耶が不安そうな顔をする。
「やっぱり私が甘かったんでしょうか」
「直江が甘いわけじゃないと思うけど……仕方ないっつーかさ」
「ああ、やっぱり私のせいでしょうね。こんなことなら抱いてしまえば良かった」
直江から聞くいつにない性的な言葉に意味もわからず高耶は戸惑う。戸惑っているうちに直江が覆いかぶさってきてキスをした。
「な、なんでキスなんかするんだよ……」
「嫌ですか?私とじゃもうしたくないですか?」
見たことのない直江の悲痛な顔。それといつもとは違う目的らしきキスと強引な体。さらに戸惑いが大きくなる。
「どうしたんだよ……」
「あなたを誰かに奪われるぐらいなら、さっさと抱いておけば良かったと思ったんです」
「……なんの話?」
「そうしたら高耶さんを離さないでいられる自信が出来たかもしれないのに」
「……ちょっと待って、直江」
強引に抱きしめてくる直江の肩を押しやって留めた。それでもその手を掴まれて、床に押し付けられた。
「直江?」
「私はそんなにいい人じゃありませんよ?」
「なんか……話が食い違ってるみたいなんだけど」
「え?」
力が弱まったところで直江の拘束から逃れて、今度は高耶が直江を拘束した。両腕で直江を抱きしめて、肩に顔を埋めた。
「オレが言ったのは、直江が東堂さんに少し気があるんじゃないかってこと。あんなふうに可愛く見つめられたら、直江だって男なんだし、グラッとしちゃったんじゃないかなって。だから、心配だから、直江のそばにずっといたいって、そんな話だったんだけど」
「あ!」
「勘違いしたのか?」
今までの会話を振り返ってみて、直江に誤解を与えるような言い方をしたかと探ってみた。したかもしれない。あれでは「東堂さんを好きになりそうなんだけど」と言っていたも同然だ。
一方、直江も抽象的な言い方ばかりをしていたのを思い出した。
「……勘違い、してました……てっきり高耶さんが東堂さんを気に入ったのだとばかり思っていて……」
「そんなわけないじゃん……直江だけしか好きにならないのに」
「私も、高耶さんだけが好きですよ」
「……だ、抱きたいぐらい……?」
「え?ああ、まあ、それは言葉のあやというやつでして……」
下手なことを口走ってしまったと後悔したが後の祭り。自分の欲求を高耶に向けて告白したのも同然だ。いつもこんなことばかり考えているわけではないと言い訳をしようとしていたところに高耶の純朴な言葉が囁かれた。
「もうちょっと、このままじゃダメかな……?直江のことは好きだけど、は、恥ずかしいし……今の関係、すごく心地いいんだ。あ、別に嫌だってわけじゃなくて……その、心の準備ってゆうか、んんと、まあ、そんな感じで……」
恥らう高耶が愛しくて、優しく髪を撫でてやった。嫌ではないと聞かされてさらに愛しさが募る。
「すみませんでした……おかしなことを言ってしまって……私も、今の高耶さんとの関係は心地よくて、とても安心するし、楽しいんです……」
「そ、そっか。うん、わかった。じゃあ、もうちょっと、このまま……そばにいるだけ……に、しよう?」
少し弱気な高耶の目は懇願しているようで、直江はそれ以上の欲求を抑えるしかなくなった。だがこの関係は本当に楽しいと思うし、キスだけで胸が一杯になって満足してしまう自分が可愛いとも思う。相手が高耶だからこそのものなのかもしれない。
「仕事、するんだろ?」
「少しだけ」
毛布にくるまっている高耶の額にキスをして、起き上がってまたパソコンに向かった。胡坐をかいて座っているのを見た高耶が、芋虫のように移動して直江の膝を枕にしてきた。
「いい?」
「ええ、どうぞ。ゆっくり寝てください」
「うん。おやすみ」
甘えて眠る高耶を起こさないように、直江は足が痺れて泣き笑いになるまでじっと座っていた。
つづく |