夕飯の後に高耶が管理人室にいると、タヌキがやってきた。
「キツネとは話せたか?」
「少しな。他の三人もそろそろ来るから、来たら話す」
「おう」
「それにしてもこの部屋、直江さんの匂いで充満してるなあ」
部屋を見回してタヌキがボソリと呟いた。直江の匂いとは香水や体臭ではないらしい。
「わかりやすく言うと気持ちだな」
「気持ち?」
「高耶を守ろうとか、大好きだとか、とにかくそんな気持ちで充満してるんだ。この部屋に入り浸りだからだろうな。まあしっかりとあの香水やら体臭やらもするが」
直江の気持ちをタヌキから聞かされていきなり恥ずかしくなった。自分たちで理解していることも、他人から言われると恥ずかしくてくすぐったい。
「あいつを一生離すなよ」
「そりゃそうしたいけど……たまに自信がなくなったりもする」
「いや、大丈夫だろう。あの男は高耶が思ってる以上に、高耶を好きでたまらんらしいからな。ここに直江さんがいなくてもおまえに対する愛情がビシバシ伝わってくるわ」
「マジで?」
「ああ、もう気持ち悪いぐらいだ」
自分が思うよりも直江に大事にされて愛されているのを知って、高耶は安心すると同時に少しだけ怖くなる。直江に愛されているぶん、自分は直江を愛してやっているのか、と。
「オレの匂いはする?」
「この部屋か?おまえの部屋だから当然だろう。それとも、自分がどの程度直江さんを好きか知りたいわけか?」
「そんな感じ……」
「気にするな。どっちもどっちだ。よくこんな部屋に他人を入れて平気な顔してるのかこっちが知りたい」
どうやら部屋の中は二人の愛情が充満しているようだ。しかも他人の迷惑になるほどに。だとしたら無線LAN導入は大正解だったのかもしれないが、確かにそんな部屋に他人を入れていたとなると恥ずかしさも倍増になる。
「よう、タヌキのじーさん、話せたんだって?」
複雑な気持ちの高耶のもとへ、残りの三人がやってきた。直江は高耶の顔を見るなりニッコリ笑って隣に座ろうとする。
これでまた部屋の中に直江と自分の匂いが増えたに違いない。
昼寝の前に直江に言われた話を思い出して顔が真っ赤になる。
全員が座るとタヌキが話し始めた。
「キツネの言うことには、東堂って子が誰だかすらわかってなかったらしい。あのアパートの東堂の部屋あたりに前のご主人の部屋があったってことだ」
「へ?それだけ?」
「目が老眼で見えにくくなってるそうでな、ご主人と間違えたんだと」
「ええ〜?」
深刻に考えてしまっていた自分たちがバカみたいだと千秋が呟いた。当然それは全員が思っていることだ。
「それでどうして急に脅すような真似をしたんですか?」
「お供えの稲荷寿司が変わったとかで」
「は?」
「それだけだそうだ」
たかがお供えの稲荷寿司が変わっただけなのに、あんなに他人を困らせて、しかも命まで奪おうとするなんて、と高耶が怒り出した。それを直江が宥めて説明する。
「怒った神様というのは、そういうものなんですよ。特に動物の神様には人間の常識が通用しませんから」
「んじゃどうしたらいいんだよ。稲荷寿司を元に戻せばいいわけか?」
「そうらしい。あの裏道にある『花寿司』のじゃないと満足しないそうだ」
花寿司は醤油と砂糖で濃い茶色になった油揚げが特徴の、持ち帰り稲荷寿司専門の店だ。
「そこだったらご主人が入院してて無期休業だぞ」
「マジか?」
「ああ、オレ、お見舞いに行ったもん。ウチのじいさんと友達だったからオレも可愛がってもらったし」
「そんじゃ稲荷寿司どーすんだよ〜」
「部費が稼げんじゃないか……」
千秋と高坂が頭を抱えたところで、タヌキがひとつの案を出した。
「作ればいいんじゃないか?」
「誰がだよ」
「おまえらに決まってるだろう」
タヌキが言うことには、週に一度のお供えの日に『花寿司』と同じ味の稲荷寿司を作ってお供えすればいいだけだと言う。あれさえあればアパートに祟るのをやめるとキツネから確約を取っているそうだ。
すでに東堂の命はキツネの勘違いということで保証されはしたが、まだお供えの件では不満なのでいたずらは続けるらしい。キツネなりの警告のつもりだろう。
「俺たちがか?料理なんかしたこともねーのに。なあ、高坂」
「言っておくが生まれてこのかた包丁を持ったのは小学校の調理実習だけだ」
「胸張って言うな」
作る気のまったくない二人に軽蔑の目を向けて、それから脅すように直江が言い放った。
「じゃあ部は解散ですね。ついでに探偵舎も解散ですか。最初のお客さんの依頼もまともに解決できないなら解散するしかありませんねえ」
「うッ」
「それだけはまずい。部を解散させたとなったら怖い先輩たちになんて顔向けをしたらいいか」
「それに探偵舎だってマジでやってるっつーのに!俺と高坂じゃまともな就職出来ねえだろうから、これを発展させて心霊探偵になる予定でもあるのに!」
知ったことかと高耶が呆れた。そもそもそんな会社を作っても下宿の妖怪や直江の手を借りなければならないのだ。だったら解散してくれた方が高耶にとってはありがたい。
「高耶!おまえが作れ!おまえと花寿司のご主人は知り合いなんだろ!事情を話せばきっとレシピのひとつやふたつ教えてもらえるはずだ!」
「なんでオレが。そもそもそんな老舗の味なんか作れるわけねーだろっ」
なんでもかんでも他人に頼ろうとする二人に腹が立つ。しかも出来ないことまでやれと言う。
「最初は直江頼み、次はタヌキ、そん次はオレか?そんな探偵聞いたことねーぞ」
直江もタヌキも同感らしく、白けた目で千秋と高坂を見ている。いくら東堂のためだからと言っても、ここまで怠慢な探偵を助けるのはバカバカしい。
突き放されて絶望的に青ざめている二人を見て、高耶がこのまま悩んでいても仕方がないと、二人を無視してタヌキと直江と相談を始めた。
「レシピはオレから事情を話せば教えてくれると思うけど、味までは保証できねーな。あそこの稲荷寿司は絶品だから、素人が作って真似できるとも思えないし」
「レシピを教わって作るよりも、キツネさんに事情を話した方が早いかもしれませんよ?」
「それはわたしも考えたんだが、あそこのキツネはグルメで有名なんだ。だから話を聞いただけじゃ納得してくれるとも思えない。まあ……事情を話す人間にもよるが、な」
含みのある言い方に全員がタヌキをいっせいに見た。事情を話して納得させられる方法があるならそれに縋りたい。
「話す人間て、誰だよ」
「前田のご主人の友達で、キツネと話せた唯一の人間がいるんだ」
「誰?」
「仰木のじいさんだ」
「じいさん?」
言われてみれば高耶の祖父は仰木荘の妖怪たちと渡り合ってきた強者だ。今現在、高耶たちが付き合っている妖怪たちの他にも、今は姿を見せない妖怪や、幽霊などとも知り合いだった。灯台下暗しとはまさにこれだ。しかし。
「……あのじいさんがそのために老人ホームから来てくれると思うか?」
「東堂さんの被害を話せば来てくれるんじゃないでしょうか?」
そうかもしれないと全員が期待して、明日にでも老人ホームに電話しようと決定した。肩の荷が少しだけ下りて、その夜は解散となり、もう夜も遅いからと直江も部屋に戻って停滞の危機にある仕事を始めた。
パソコンの電源を入れて仕事の続きを始めてから一時間半。部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「ごめん、仕事の邪魔して」
パジャマに綿入り半纏姿の高耶が入ってきた。お盆を持って、その上にホットココアが二つ載っている。
「差し入れですか?ありがとう」
部屋の中に高耶を招き入れて、小さなお膳で一休みした。直江専用のカップのココアは甘すぎなくてほろ苦い。
「なんかさ」
「はい?」
「オレって何も出来ないのな」
「……どうしたんですか?」
少し寂しそうに下を向いて、半纏の裾をいじっている。高耶のこんな姿を見るのは初めてかもしれない。
「さっき稲荷寿司作れって言われたけど、そんなの無理じゃん。せめてオレが作れたら直江だって楽できるのに。じいさんだって千葉の老人ホームからわざわざ出てくることないだろ。そうやって考えてたらどんどん情けなくなってきてさ……。直江は小説書けて、幽霊も追っ払えるし、神様のことも知ってるし、頭も良くてすげー頼りになるのに、オレ何も出来なくて……」
高耶なりに真剣に考えた末なのだろう。
今回は千秋たちが持ち込んだ事件だが、やはり下宿に住む直江やタヌキ、老人ホームで楽しい老後を悠々自適に送っている祖父に苦労をかけるのを黙っていられるはずがない。
そんな純粋な思いを持っている高耶を心の底から素晴らしいと思う直江だった。
「そんなことないですよ、高耶さん。あなただって色々やってるじゃないですか」
「どこが?」
「下宿の管理してるでしょう?まだ若いのにこれだけしっかり下宿を切り盛りしているのだからたいしたものです。それに私にとっては高耶さんは万能なんですよ」
高耶の頬に手を伸ばして、熱を伝えるように撫でる。そこからどれだけ大切に思っているかを注ぎ込むように。
「高耶さんがいるから、何かしたいと思うようになれるんです。今連載してる小説だって、今回の東堂さんの件だって、あなたがいるからやっていることです。私を動かしているのがあなたなんですから、あなたが万能なんですよ」
「直江……」
やっと顔を上げた高耶を抱きしめて優しくキスをする。直江の腕の中でまたこの部屋にも二人の気持ちが充満し始めているのを感じた。
「それに……私よりもあなたの方が向いていることがあるようですよ?」
「え?」
「猫村さんが言ってたでしょう?高耶さんの方が向いてるって」
東堂が初めて仰木荘にやって来た日に猫村さんに言われた。幽霊を祓えるのが直江しかいないという話をした時に、高耶の方が向いていると言われたことだった。
「でもやったことないじゃん」
「やれば出来るんじゃないですか?私にもなんとなくわかるんです。高耶さんはおじいさんの孫ってこともありますけど、そうではなくて……私のような法力を使うのではなく……あなたの心が、何かを祓うのではなく救う、そういう力があるように思います」
「ん〜?」
「近いうちにわかるんじゃないでしょうか。そんな気がします」
トクトクと音をさせている直江の胸に顔を埋めて甘えながら考えたが、いったいなんのことだかわからない。わからないならそれでいいやと勝手に納得してさらに甘える。
「今夜、ここに泊まっていい?」
「布団、一組しかないですよ?」
「くっついて寝る。……ダメ?」
「ダメなわけないでしょう。いつでも歓迎しますよ。私の隣には常に高耶さんのためのスペースを空けてあるんですから」
「うん」
仕事が途中だったのを高耶が思い出して、いったん直江から離れた。気遣いは嬉しいが離れてしまうのを惜しいと直江は思う。今この時間を仕事なんて無粋なものに邪魔されたくない。
「今日はもう仕事しません。高耶さんと過ごせるのにもったいないですよ」
「締め切りに間に合わなくなったら大変じゃん。いいから続けろよ」
「嫌です」
作成途中だった小説のデータはもう保存してあるし、締め切りだってまだ少しの余裕はある。せっかく甘えてくれた高耶を離すぐらいなら編集者に怒られた方がマシだとさえ思う。
「だって高耶さんを愛してるんですから。何よりも大切なあなたを放って仕事なんかしてられません」
「子供みたい」
諌められたのはわかっているが、それでも。
「大好きです」
「ん……オレも」
もう一度抱きしめて高耶の清潔な髪の匂いを嗅ぐ。この人のすべてが自分の物なのかと思うと甘酸っぱい思いが胸に広がる。まるで少年に戻ってしまったかのように。
「好きな人がいるって、いいものですね」
「うん、なんか……気持ちがあったかくなる」
「ええ」
満足するまで抱き合ってキスをして、それから二人で布団を敷いた。暖かな羽毛布団の中でも抱かれて髪を撫でてもらっているうちに眠くなり、直江の体温を何よりも心地いいと思いながら眠りに落ちた。
つづく |