同じ世界で一緒に歩こう それから番外


クロスロード

直江編

 
   

 


思ったより長く住んでいたパリから帰って1年半。
不動産業の兄が新築マンションを買わないかと持ちかけてきた。値段は兄弟価格で1億円強。
兄の不動産会社が1億円で買ったのだが他人に売るのは惜しいほどのいいマンションで、兄の個人資産で買おうとしたが義姉が反対して保留になっている物件だった。
そこで兄は1億円をしっかり支払えて、しかも融通が利く身内の人間に売ろうと考えた。
それが俺だった。

山手線の内側に住むというステータスも欲しかったし、マンションのグレードも気に入ったので長く住むつもりで買った。
モデルで売れているうちにマンションを買えば、後になって別の仕事をして収入が落ちても家という財産が残る。
ローンを組むとは言え現在の貯金で完済できるわけだから、いざとなったら残金を一括で支払ってしまえばいい。
たとえマンションを売却する事態になったとしても、兄弟価格で売るのだから、ということで売却権は兄が強奪した。
しかし裏を返せばローンを支払えなくなったら兄が肩代わりしてくれる、ということだ。

19歳の頃からモデルという仕事をしてきて約8年。
自分にしてはずいぶん長くやっていると思う。
最初は日本で活動していたのだが修行を兼ねてヨーロッパに3年半行かされ、1年半前に日本に帰ってきた。
ヨーロッパでは日本にいた時以上に名前が売れて、いきなりギャラが大幅に上がって特別待遇になった。
気分は悪くなかった。でもなぜか胸にぽっかり穴が開いたような感覚がしていた。

その穴がどんどん大きくなっていって、仕事で日本に1週間戻ったら堰を切ったようにしてホームシックになった。
このままパリにいたら心を病むだろうと思い至って、在籍しているモデル事務所の所長に懇願して日本に帰ってきた。
ようやく落ち着ける、仕事も少し減らしたい、と安心したのもつかの間、日本での待遇が以前とはまったく違った。

仕事場のスタッフもそうだし、ファンもそうだし、モデル仲間もそうだし。

パリから帰ってきた『タチバナヨシアキ』は特別扱いだった。
頼んでもいないのにステージ裏のフィッティングルームには専用スペースがあった。
ショーのスタッフたちは引きつった笑顔で気を使い、機嫌を伺う。
仕事先や自宅前にまで追いかけてきて居座るファンがいる。
嘘くさい笑顔で親しそうに話しかけて、裏でさんざん文句を言っているモデル仲間がいる。
ヨーロッパで活動していた時のような自由さはなくなり、いつも他人の目に縛られている気がする。

モデルになりたくてなったわけではないから楽しいか楽しくないかを考えたことはないが、それでもオファーが来たり、事務所の指示でオーディションに出たりして、自分がやれる、出来ることを仕事にしているのだから誇りには思う。
あくまで服を着るのがメインの仕事であって、自分自身をキャラクターとして売っているつもりはない。

でもそうさせてくれないのが今の現状だ。
俺という人間を商品としか見ない人が多くて、正直、疲れた。

「直江?聞いてる?」

事務所でのミーティング中、そんなことを考えていて内容を聞き逃した。
所長秘書とトータルバイザーを兼務している綾子が訝しげに俺を見た。

「ああ、済まない。聞いてなかった」
「もう。ちゃんと聞きなさいよ。アンタの仕事の話なんだからね」

今日のミーティングは横浜のショッピングモールで開催する小さいショーを引き受けるかどうかの決定だ。
所長であり長年の友人でもある鮎川は、俺のスケジュールを詰めてまで小さいショーに出ることはない、と言っている。
反して綾子は小さいショーにも出来る限り出て、常にファッション業界と繋ぎを作っておくことが直江のためになる、と言う。

「大きいショーにしか出ないでいたら、一気に落ちぶれた時に小さいショーにも呼ばれないってことになるとアタシは思うの」

今回の議題のショーはショッピングモールの中の1店舗であるイタリアンメンズファッションのショーだ。
規模的には最小の部類に入る。ギャラも少ない。

「直江はどうしたい?」

誰が見ても美女だと言う綾子の目が俺の目を覗き込む。
綾子は10代の頃からこの事務所でモデルとして働いていた。大学を卒業してモデルをやめて正社員になり、それからずっと所長秘書と俺のマネージャーをしていた。
綾子のおかげで嫌いな仕事、例えばタレントのようにバラエティ番組に出るような、そんな仕事をせずに済んでいたし、規模は小さいものから大きいものまで、何年も続けてカタログやポスターで使ってくれるメーカーとの繋がりを作ってくれた。
だから俺は綾子が押す仕事ならひとつ残らずやろうと思っている。

「出る。話を進めてくれ」

鮎川は呆れたように笑って「やっぱりな」と言った。

「今回はメンズだけだから出番多いわよ?」
「ああ、いいんじゃないか」
「会場もショッピングモールだからいつもみたくタチバナスペースもないけどいい?」
「なくて当たり前なんだ。今までがおかしい」

しかし綾子や鮎川がこうして色々と俺をサポートしてくれていても、自分の中に生まれた不安がいつもある。
俺を喜怒哀楽のある一個人として見てくれる人がいない。
鮎川も綾子も友人ではあるが、仕事が絡んでくるとある程度は『タチバナヨシアキ』を望む。
男女の関係になっている女性も複数いるが、彼女たちも『タチバナヨシアキ』というステータスがあるから俺と付き合っているのだとわかる。
そうではなく、『モデルを仕事にしている直江信綱』をすべて受け入れようとしてくれる人がいつもそばにいて欲しい。
理解して欲しいのではない。ただ受け入れるだけ、であって欲しい。

「直江は今日もう仕事終わりでしょ?夕飯みんなで食べる?」
「いや、マンションの鍵をもらうから兄と会って食事するんだ。そろそろ時間だから行かないと」
「あ〜、あの物凄い値段のマンションね。引っ越したらお祝いしましょうよ。直江の全額負担で」
「そのうちな」

事務所から一歩外へ出れば俺はもう完全に『直江』ではなくなる。『タチバナヨシアキ』だ。
この2人の間のギャップは自分では埋められないのだろうか。

事務所前でタクシーを拾って渋谷へ行くつもりが、道路工事のせいでなかなか来なかった。
仕方がないので六本木の交差点から少し離れたタクシー乗り場へ向かうと、そこまでたった5分というのに何人もが『タチバナヨシアキ』を凝視したり振り返ったりしていた。

慣れてはいるが今の自分の心境でこういう目に晒されると、心がバラバラになって行く感覚が生まれる。
モデルをやめたい。本当の自分に戻りたい。
そう言う声が内側から聞こえてくるような。

でもせっかくマンションを買ったのだから、最低でもあと1年は続けるか。
それとも兄の不動産会社に重役待遇で就職して、適当な女を見つけて結婚するか。
ただ自分がサラリーマンになって毎日出勤して、温かい家庭を築けるビジョンは微塵ほども想像できなかった。

タクシーに乗って渋谷へ到着したはいいものの、渋谷駅前は常に渋滞だ。もう兄との待ち合わせ時間に間に合わない。
だから宮益坂口でタクシーを降りて、駅ビルの中を突っ切ってむせ返るほど暑いハチ公口に出た。
人いきれでやけに暑いと思ったら、今日は大暑だと電光掲示板のニュースでやっていた。
暑くても仕方がないのか。

ここは相変わらず様々な人で埋め尽くされている。若者から会社帰りの年配者まで、駅前交差点で信号が変わるのを待っている。

腕時計を見るともう待ち合わせの時間を過ぎている。また遅刻だ、と嫌味を言う兄の顔が思い浮かぶ。
とことん嫌味を聞いてからでないと新居の鍵をもらえないかもしれない。
スクランブル交差点の信号が青に変わって、百人を超えそうな人の群れの最後尾で信号を渡った。

マンションの鍵か。

なんとなくジャケットの右ポケットに入っているキーホルダーを、取り出すつもりはなかったが触ってみた。
その時、向こう側から来た男の子と肩がぶつかった。
勢いでキーホルダーがポケットから出て、交差点の真ん中に落ちた。

「あ、すんません!」

彼は急いで拾って俺に差し出した。落としたことに驚いていた俺にキーホルダーを差し出して、ちょっと会釈をしてから俺の手に乗せた。

「いえ、こちらこそすみませんでした」

もう点滅し始めた信号機に目を奪われて彼の顔を見ずにまた歩き出した。
渡りきってから振り返ると彼のカバンから見覚えのある定規がはみ出ていた。ファッションデザイン専門学校の生徒がよく持っている定規だ。

背の高い、黒髪の、まだ少年ぽい細身の体。

俺がモデルの仕事を続けていたらいつかどこかで会うのかもしれない。
でもやめたら二度と会わないんだろう。
こんなに多くの人が行き交う交差点でたった一言声を交わしただけなのに、カバンの定規を見て自分の仕事をどうするか考えるなんて。
つい鼻で笑ってしまった。

「おかしなもんだな」

今日は少し兄と話してみよう。
自分がどうすべきか、あの兄ならきっといいアドバイスをくれる。
もう少しだけ、本気でモデルをやってから答えを出せばいい。

 

高耶編

 

   
   
約2ヵ月後に再会するわけで。
   
         
   
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