牡丹燈籠
 


 
         
 

翌朝、誰かの騒々しい足音で目が覚めた。お船はいつの間にやら消えていた。直江が眠っていた間に帰ったのであろうか。
騒がしい足音は直江の寝所の前で止まった。

「起きろ、直江!景虎が!景虎が!」

その名を聞いて飛び起きた。

「どうした!景虎様がいかがした!」
「血を吐いた!起こしに行ったら血を吐きながら咳をしてたんだ!」
「なんだと!!」

寝間着を急いで正し、走って高耶の寝所まで長秀とともに向かった。開け放した障子の向こうで真白い布団が喀血で染まっていた。
背を丸めて高耶が咳をしている。その背をお晴がさすっている。

「どうしたんだ?!喀血など今までなかったではないか!」
「わからないのよ!どうしてこんなことになったのかなんて!」

血に染まった口元が歪んでいる。まだ咳は収まらないようだった。
とにかく薬を飲ませようとしたが、咳が止まらないのでそれも無駄なこと。

「…長秀、あれはあるか?」
「アレ?ああ、待ってろ、すぐ持ってくる」

使いたくはなかったが、最後の手段にと主治医から受け取っていた薬があった。ケシから取れる樹液を精製した薬で、神経を麻痺させる作用のある粉薬だった。
それを小さな筒に入れ、息を吸い込む時に高耶の口にあてがう。何度かそれを繰り返すと、高耶の咳が収まってきた。
常用すると中毒になる恐れがあると注意されていたため、今まで使ったことはなかったがたいした効き目があった。

「落ち着きましたか…?少し、口の中を見せてください」

指で高耶の口をこじ開ける。覗いてみると喉のあたりから血が出ている。どうやら咳のしすぎで切れてしまったらしい。
臓腑からの血ではなかったことに安堵し、指を戻すと、高耶の唇が弾力を伝えるように揺れた。
その瞬間、直江は昨日の朝にこの場所で起きたあの行為を思い出した。

この唇が、私を。

「長秀、景虎様を私の寝所へ運んでおくから、おまえはこの部屋の掃除をしておいてくれ。お晴は薬湯を頼む」
「わかったわ」
「おう」

高耶を抱き上げ、自室に運んで行く。力なく抱かれていた高耶が直江の胸に顔をつけた。

「直江…」
「喋らないでください。また血が出ますよ」
「昨夜、誰か来ていたのか…?」
「え…いえ、誰も来ませんでしたが」
「そうか…だったらいいんだ…嫌な夢を見たんだ」
「嫌な?」
「そうだ…骸骨が、直江の寝所へ入っていく夢…」

きっと具合が悪くてそんな夢を見たのだろうと宥めた。少し腕に力を込め、引き寄せるように抱くと安心したように高耶は目を閉じた。
直江の寝所に着き、乱れたままの布団の上に寝かせようかとして気付いた。匂いでわかってしまうかもしれないと。
高耶をいったん畳の上に座らせ、押入れから新しい敷布を出し、敷き直してから寝かせた。

「掃除が済むまでここで我慢なさってください。ごゆっくり寝ていてかまいませんから」
「うん。済まないな」
「いいんですよ。あなたをお守りするのが、私の役目なんですから」

直江の匂いがする敷布に顔を埋め、横目で直江を見る。

「あ…」

まただ。直江の肩に靄がかかっている。具合が悪いから目が霞んでいるのだろうか。

「直江…こっちに来い…」
「はい」

高耶のすぐそばに座り、布団から出た手を握る。優しく、包み込むように。

「おまえの手は、大きいんだな。いつもこの手に守られてきた。これからも、そうしてくれるか?」
「ええ。もちろんです」
「そうか…」

そのまま手を握っているうちに、疲れたのであろうか高耶は眠りについた。
そっと手を外し、黒髪を撫で、さきほど触った唇を指でなぞる。お晴が血を拭いてやっていたが、まだ口端に固まって残っていた。
直江はそれをゆっくり舌で舐め取った。そして、唇を合わせる。
暖かく、柔らかい、甘美な唇だった。

 

 

 

一日、高耶の看病をして過ごし、直江は夜も高耶のそばについていた。
万が一、また咳をし始めたらあの粉薬を使うつもりもあり、誰かがそばにいなくてはならない。景虎のお守役として長年付き添っていただけに、高耶は直江を放そうとしなかった。
しかし直江の顔色もだいぶ優れないと長秀もお晴も心配した。が、直江も頑として高耶のそばを離れないつもりのようである。

高耶の横でうつらうつらしていた直江に、声がかかった。
お船である。

「直江様」
「…また来たのか…」

障子を開け、すぐに閉めて縁側に立っているお船をいざない屋敷の端に向かう。

「今夜は景虎様のお加減が悪いのだ。そなたの相手はしておられん」
「そうですか…では帰ります。でも、明日は夕刻からいらしてもらえませぬか?直江様のために少々ではございますが高価なお酒を買っておきました。ぜひお願いいたします」

いささかしつこいとは少しながら思うが、お船には負い目がある直江。その申し出を断らず、約束をしてしまった。

翌日の昼間に、お晴だけには行く先を話しておこうと思い立ち、先日の外出の際に景虎を休ませてもらった家がお船の家であることを話し、承諾を得た。
本当ならば長秀にも話しておきたかったが、あいにく粉薬を主治医から貰うため下山しており不在だった。

「景虎様には黙っててくれないか。もし私がいないことで機嫌を害されたら迎えに来てくれ」
「わかったわ。景虎にはお殿様の所用で、とか言っておけば大丈夫よ」

そして直江は夕刻すぎにこっそりと迎えに来た侍女に付き従い、出掛けていった。
お船の家で美味な酒を飲み、褥を共にした。
高耶を想い、狂ったように猛る直江の男根から精を吐き出させるお船の性技は格別に良かった。このままいっそ、高耶を忘れてしまおうかとも考えるほどに。
しかし直江の方寸に住み着いた高耶の媚態は直江のすべてを根こそぎ奪っていく。お船を抱けば抱くほど、高耶が愛おしくてたまらなくなる。

丑三つ刻になり、直江は衣を直してお船の屋敷を出て行った。
翌朝になって直江がいないことに高耶が不安を覚えるといけないと思ってのことだ。
お船と侍女に送られ、屋敷へ。

 


遡ること数刻。長秀は町にいた。
長秀の元主人である高耶の父に喀血の報告をし、病気平癒のお守りと、菩提寺で祈祷を済ませてもらったばかりの大刀を受け取ってから、高耶の主治医、玄庵医師の薬所で粉薬をもらい、世間話をしていた。

「そうですか、直江様もご一緒に行かれているのですね。ああ、そういえば」
「なんだ?」
「直江様との縁談があったおなごを覚えておられますか?」
「縁談…ああ、あのお船とかいう女だろう?景虎が拗ねて破談にさせたってやつ」

長秀にしてもそうだが、高耶の我が侭ぶりは家臣一同知っており、直江の縁談を破談にさせたことは有名な話だった。
特にお船の縁談はまとまりかけていたゆえに、いきなりの破談で面食らったのは当人たちだけではなく、家臣から侍医からすべての者の耳に入っていた。

「そうです、そのお船どの。先日、侍女が骨になって見つかったんですよ」
「骨に?」
「ええ。着物の柄でわかったそうです。安田様がたがおられる山の、反対側あたりにお船どのの別邸がありましてね。そこで見つかったんです。すでに朽ちた屋敷から。骨に刃物の傷があって、自刃か、殺されたのか、お役所から調べてくれと頼まれまして」
「…あの山に…?」
「お船どのをたいそう大事になさっておられましたからな。どうやらお船どのの後を追っての自刃のようでした」
「自刃?!」
「ええ。骨の下側に傷がついてましたから、逆手に短刀を持って、腹を刺して自刃したようです。お船どののご遺体は見つかっておりませんが、たぶんもう…」
「そんなことが…。なあ、あの山には俺たちがいる屋敷の他に、まだあるのか?」
「いえ、あとはお船どのの屋敷だけだったはずです。医者ですから、誰がどこに住まうかは把握しているつもりですよ」

じゃあ、直江が先日、景虎を休ませてもらったと言っていた屋敷とは一体どこだ?

妙な胸騒ぎを起こした長秀は急ぎ屋敷へ走った。山道もなんのその、必死で駆けた。
夕刻に屋敷に着いた時、直江が出かけて行く姿を見かけた。大声で呼んでみたが届かないようだった。閑散とした山の中、声が届かないなどということは有り得ぬはずだ。
追ってみたがどこをどう歩いているのか、いくら走ってみても追いつかない。

そして長秀はおかしなものを見たのだ。直江の両手は下に下がっているのに、なぜか燈籠の明かりが直江の前を照らしている。
誰もいないそこに、燈籠だけが光っている。

「あいつ…!!」

急ぎ屋敷に戻り、お晴に医者から聞いた事情を話してみた。するとどうであろう。直江はお船の屋敷へ呼ばれて行ったと言うではないか。

「そんなわけねーんだ!お船は…もう死んでるはずだ!!」
「なんですって?!」
「さっき見た直江がおかしかったのもそのせいに違いない!まずいぞ、お晴!あいつ、お船の亡霊に取っ憑かれやがった!」

二人の顔から血の気が失せる。

「お船っていやあ、直江にさんざん惚れた腫れたって言ってた女だ。手練手管で直江を落として、色気でモノにしたって噂があったほど…あいつ、亡霊と交わったんじゃねーだろうな!」
「だとしたら…あの直江の顔色の悪さって…」
「精気を吸い取られてやがるんだよ」
「だって直江は!」
「ああ、今じゃもう景虎…いや高耶に恋慕してるが、あいつだって男だからな」

その時、カタンと障子が音を立てた。

「その話は本当か?」
「景虎!!」
「直江はあの女の屋敷へ行ったのか?」

最初から話を聞いていたようである。

「…あの女って…もしかしておまえも会ったのか?!」
「ああ。会った。翌朝の直江の様子がおかしかったのは、あの女と交わったからなんだな」
「景虎…どうするの?あんたも直江が好きなんでしょう?!取り返さないと大変なことになるわよ!」
「わかってる。取り返すさ。亡霊なんかに直江を好きにさせてたまるか」
「どうすんだよ」
「…あいつを、退治する」

直江の寝所に入って行った骸骨を。






 
         
   
つづく
   
         
   

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