牡丹燈籠
 


 
         
 

それを嫉妬と呼ぶのか、恐怖と呼ぶのか高耶にはわからなかった。
ただ一心に直江を取り返すことだけを考えた。

その夜、門から一番近くにある長秀の室で三人は息を潜めて直江の帰りを待っていた。
寅の刻あたりに、竹垣の隙間の向こうから小さな明かりが見えてきた。

「…直江かしら…」
「シッ、黙ってろ」

その明かりは徐々に屋敷の門まで近づいてきた。
明かりが照らす直江の顔が浮かんでは消え、とうとう門の前までやってきた。明かりはあの、牡丹燈籠であった。
門から直江が顔を出す。そして振り返り、明かりの主に向き直った。

「見えるか…?」
「いいや…」

その時である。直江の背にぼろ布のようなものが掛かった。よくよく見れば直江の正面からそれは巻き付くようになっている。
一番夜目がきく高耶が目を凝らして見てみると。
なんとそれは濃桃色の女の着物。そしてそこから出ている腕は、白骨の腕ではないか。

「…ヒ…ッ」
「景虎?」
「お、おまえら、あれ、見えるか?」
「ああ?…!!ありゃ、なんだ…?!」

直江が一歩後ずさる。女に迫られ困っているような素振りであった。
その直江の胸に寄り添っていたのは、ざんばら髪に銀の髪飾りをした髑髏である。

「きゃ…」
「晴!」

叫びだしそうになったお晴の口を高耶と長秀とで塞ぎ、皆冷たい汗をかきながらその光景を見守っていた。
直江が髑髏を引き離し、一礼をして挨拶を告げているようだった。
そして牡丹燈籠と髑髏は闇の中に消えて行った。

「あ、ありゃ、本物の亡霊だぜ…」
「直江…」

直江が足音を忍ばせて自室へ行こうと庭先を横切った時、突然絹を裂くような女の声が聞こえた。
お晴の口を押さえていた手をどけたのだった。

「お晴?!」

直江が驚き長秀の室へ走って来る。脇差に手をかけ、刀身を抜く。

「待て、直江!」

長秀の室の障子が開いて、立ちはだかったのは高耶。直江の方こそ驚いてしまった。

「高耶さん!今、お晴の声が!!」
「晴ならここにおる。直江、こちらへ来い」

直江に対するいつもの高耶のような甘えが微塵もなかった。切羽詰っているように見える。

「どう…したんですか?」
「いいから来い」

草履を脱いで縁側に上がり、長秀の室へ入った。長秀が行灯に火をともしており、お晴はといえば怪物を見るような目で直江を仰ぎ見ていた。

「座れ」
「はい」

高耶を上座にし、直江が正座で座った。長秀も直江に対して不審な目をしている。

「今、門のところで会っていたのはお船か?」
「え…ええ。申し訳ございません。主人であるあなたをたばかり、お船と会っており…」
「そんなのはどうでもいい。おまえ、あの女が何か知っているわけではなかろう」
「何か、とは…?」
「あれは、お船ではない。いや、お船だが、生き人ではない」

高耶が何を言っているのかわからない直江。高耶を呆然と見ることしかできなかった。

「ありゃーな、亡霊だ。おまえが逢瀬を重ねてた相手は亡霊だ。俺も、景虎も、お晴も見た。あの濃桃の着物から出ていた腕は、骨だった。そしておまえに寄り添うあの顔は、髑髏だったんだ」
「そんな馬鹿な」
「…じゃあなぜ晴は叫んだんだ?あれがお船であれば叫びなどしないだろう。おまえは晴にお船と会うと行って出かけたんだろう?」

高耶が畳み掛けるように直江に問うた。
長秀やお晴ならば直江を担ごうと冗談のひとつも言い出すであろうが、高耶がそんな真似をしたことは一度たりとてない。
そして高耶を生まれたばかりのころから見てきた直江には、高耶の目が嘘をついているようにも見えぬ。

戸惑う直江に、長秀が医師から聞かされた話を事細かに話してみせた。
それでも直江は信じられずにいた。あの体が亡霊であるはずがない。あの温かい女陰を、間違えるわけがない。

「オレたちが世話になったあの屋敷は、もう廃屋になっておるそうな。なんなら明るくなってからでも見に行ってみるか?」
「そうだな。ここまで話しても信じないって野郎は、いっぺんてめえの目で確かめないとわかんねーみたいだしな」
「わかりました。景虎様がそこまで仰るなら」

夜が明けると四人は直江が先刻までいた屋敷へと向かった。途中高耶が息切れを起こしたため、直江が背負おうとしたが頑なに拒み、長秀の背に負われた。
そうして半刻ほど歩いたそこには。
すでに朽ち果て、柱も腐った廃屋が。

「そんなはずは!高耶さん!あなたもこの屋敷にいたじゃないですか!」
「化かされたってわけだな。あの亡霊に」
「そんな…」

庭を見れば腐って落ちた鹿おどし。枯れた井戸。荒れ果てた囲いの林。しかしそこは紛れもなくお船の屋敷であった。

「まさか…」
「これが真実らしーな。直江、おまえあの女に取り憑かれて、精気を絞り取られてるんだ」
「…嘘だ…」
「もしかしたら、景虎の喀血もあの女の仕業かもしれねーな。あれは異常だったもんな」

そうかもしれない。高耶はあの時、骸骨が直江の寝所へ入っていく夢を見たと言っていた。そのせいで。
誰よりも早く、直江の異変を察知していた高耶。その高耶を疑えるはずがない。

「どうするんだ?俺はおまえが取り憑かれて死のうが知ったこっちゃねーけど、主人を巻き添えにするわけにはいかねーんじゃねーのかよ」
「ああ。…それだけは、させん。高耶さんは、私が…私が守らなければ」

直江の双眸に生気が漲る。琥珀の炎のような、触れば火傷をしてしまいそうな。

それから長秀とお晴は麓の寺の住職に魔除けのお札を頂きに山を下り、高耶と直江は屋敷へ戻った。
座敷へ入るとすぐに直江は土下座をした。

「申し訳ございません…景虎様。とんだ目に合わせてしまい、家臣として恥ずかしく思います」
「そうだな…だが、いい。おまえが無事ならそれでいいんだ」
「このお詫びはなんとしてでも」
「…それは、家臣だから言うのか?」
「え…」
「おまえは何に対して詫びているんだ?主人をたばかったことか?主人に迷惑をかけたことか?それとも」
「…あなたを、裏切ったことです」

直江が顔を上げ、高耶を見つめる。

「あなたを、愛しています。あなたの代わりに、あの女を抱きました。そのことを詫びています」
「なお…」
「もうこれで最期になるかもしれません。あなたをずっとお慕いしていた私の心を、あなたにお知らせする無礼をお許しください」
「無礼などとは…思っていない」
「高耶さん…」
「こっちへ来い」

直江が膝で進んで高耶の正面に座った。その直江に高耶が抱きついた。

「おまえを、愛している」
「かげ…」
「景虎じゃない。高耶だ。何度言えばわかる。あんなこと、おまえでなければしない」
「高耶さん…!」

思う様、高耶の唇を貪った。高耶も直江の頭を抱え、何度も唇を合わせる。袷から覗く高耶の鎖骨に赤い痣をつけ、手を滑り込ませる。

「私もあなたを味わいたい…」
「ん…来い、直江…」

高耶を裸にして、直江の両手が足を大きく開かせた。その中心にある高耶の男根を直江が咥え込む。

「んん!」
「何度もこれを咥える夢を見ていました。そのたびに私は己の摩羅を握り扱いて、あなたを穢していた」
「ん…オレも、だ…。直江に穢されるのを、夢に見ては…ああ、ん」

高耶が夢で見ていたよりも、直江の口はしつこかった。人間技ではないような気がするほどに。

 

 

長秀は住職を連れて帰ってきた。事情を話したところ、若様の御為と取るものも取りあえず出向いてきてくれ、心強い味方になってくれたのである。

皆で直江の寝所にありったけの札を貼った。柱、襖、天井、壁、畳、鴨居、どこを向いても札ばかり。
夕刻になり、高耶と直江が部屋に残り、中から障子の合わせ目に一枚、最後の札を貼る。
外から長秀が声をかけた。

「俺たちは用心のために外にいる。おまえら絶対中から開けるなよ。開ける時は、俺がこの手で開けるから、何があっても自分たちでは開けるな」
「わかった。すまんな、長秀」
「ただ耐えろ。何があっても、何が来ても、二人で耐えろ。できるな?」
「ああ」
「あいつが来たら住職が経文を読んで、弱らせたところで除霊するそうだ。庭で待機してるから、おまえらは動くんじゃねーぞ」

高耶も長秀が持ち帰った大刀を脇に差している。この大刀は父から譲り受けたもので、病魔からの護身のためにと刀身に般若心経が刻まれている聖器でもあった。

「私のそばを離れぬよう」
「離れない。何があっても。それに、おまえに守られてばかりでは面目も立たん。おまえの危機はオレが守る」

病身の高耶に無理をさせてはいけないと思うが、高耶の心遣いが身に沁みる。
傍らの高耶を抱き寄せて、ひとつ、接吻をした。

「愛しています。二度と惑わされません。あなたに忠誠も、心も、私のすべてを捧げます」
「オレも、おまえにすべて預ける…」

お互いの体を抱きながら、正面にある障子を見つめた。ここから先は死線である。

手を重ね、行灯の元で身を寄せ合い座っていると、すうっと火が消えた。
山の清浄な気が一瞬で冷め、冷たく湿った、纏わり付くような風がどこも開け放たれてもいない寝所に流れこんできた。
さらに直江に身を寄せ、直江の袂を強く握った高耶がぶるりと震える。

「来たぞ」
「ええ、そのようです…」

きつく高耶を抱き、恐怖に縮こまる己の心を叱咤する。

誰のためにこの人が大刀まで差して守ろうとしてくれているんだ?俺のためではないのか?

覚悟を決めて、外の気配に立ち向かう。白い障子紙の向こうに、ぼうっと明かりが浮かび上がった。

「直江様、直江様」

細くか弱い声が、障子の向こうから聞こえてきた。お船。

「そこにいらっしゃりますか?直江様」

どうやら札の力で直江の気配が掴めぬようであった。寝所の前をうろうろと明かりが右往左往している。
腕の中の高耶はもう震えてはいない。毅然と障子の向こうを見つめ、直江を守るようにしっかと抱きついていた。
その高耶に励まされたか直江は、呼吸を整え高耶の髪に唇をつけた。

「大丈夫」
「ああ…信じている」

お船の声はまだ外で直江を呼んでいる。そのうちだんだんと声は掠れ、とうとうお船の細い声ではなくなった。
それはまるで地獄の底からでも響き渡る、牛頭馬頭のようであった。

「直江様!」

地響きが起きたかと錯覚するような、屋敷も山も揺さぶる声だった。
そこに。

「悪霊退散!」

一喝の声が上がり、住職の張りのある声が般若心経を読み始めた。息を飲む牛頭の声がし、地響きは細かく、しかし連続的に直江たちを揺らす。
苦しむ断末魔の声なのか、お船はのたうちまわり、周りの木々や草花を巻き込み風を起こした。
般若心経は刃のようにお船の体に雷電を加える。娘の姿からしだいに皮膚が焼けただれ、剥がれ、髪が抜け、纏っていた濃桃の錦がいつのまにやら襤褸になり、骸骨が現れた。

「とうとう正体を現したか、悪霊よ!」
「おのれ…貴様か、私と直江様の邪魔をするのは!」
「貴様はもう生き人ではない!己の姿を知り成仏するがいい!」

住職が数珠を出し、最後の祈祷に入った。住職の身体からゆらりとかげろうが立ち上った。

「あびらうんけんそわか!」

手にした数珠を気合とともにお船に投げつけた。

「ぎゃあああああ!」






 
         
   
つづく
   
         
   

3へモドル / 5へススム