その物体は、オレには重すぎた。
直江は高耶が座っているベッドに腰かけ、丁寧に話し出した。
「あなたに殺してもらいたいのは3人。それぞれ私が細かく指示を出します。武器もその時に応じてあなたの手に渡るようにします。
あなたは私の手足となって動けばいいだけだ。それさえうまくやれば仕事はすぐに終わります」
「3人…誰?」
「それは知らなくてよろしい。その携帯で場所から時間から何から何まで指示を入れます。ああ、携帯はGPSですからね、PCと繋がっていて、私のモバイル機器にも対応させてあります。あなたがどこにいて、どう動いているかもわかりますから、安心して動けますよ」
それのどこが安心なんだと言いたかったが飲み込んだ。四六時中監視されてるってことじゃないか。
「まだ計画は立てられませんから、しばらくは訓練してもらいましょうか。私が通っているジムがありますから、そこへ一緒に行って体力づくりと格闘技を習ってください。もしも相手に武器を取り上げられた場合、徒手空拳になりますからね。何か格闘技はやったことありますか?」
「ねえよ、そんなもん」
「ケンカは?」
「それなりだな」
「でしたら…空手かカンフーあたりがいいですね。腕も足も使って、かつ全身を武器にできる格闘技ですから。本格的に習う必要はありません。体がそのように動く、というだけでいいです」
ずいぶんと大雑把な訓練だがないよりはマシなのだろう。体がそのように動く、とは言いえて妙だ。
「ではさっそくですが出かけましょうか。ウェアはこちらで用意しますよ。着替えて」
「待てよ。その前に何か食わせろ。一昨日から何も食ってないんだ。腹ペコでしょうがねえ」
忘れてました、と笑ってドアを開ける。後を付いて来いと無言の合図を残し。
リビングを抜けてダイニングへ向かう時にこのマンションの広さを実感した。さっきは直江のやったことに驚いて部屋を見回す余裕もなかったが、腹を据えてしまえば多少の余裕が出る。
広いマンション。闇賭博とはこんなに儲かるものなのだろうか。
よくよく考えれば一昨夜で高耶が稼いだ金は300万。あのカジノで動く金は自分の他にいた客の数を入れ替え3時間と仮定して、その3倍であろう。あの場にいたのは約10人。3倍で30人。レートは5万からで、一人が最低でも5万使えばすでに150万だ。
しかしあのカジノは5万で遊ぼうという和やかな連中ではない。高耶ですら15万持って来ていたのだから平均しても一人30万は
使う計算で、900万。プラスマイナスして、さらにマイナスが出たとしても胴元は損が少ないため700万ぐらいに換算してもいいかもしれない。
「あんたが経営してるのって、あそこだけか?」
「いいえ、あと3軒。池袋、新宿、渋谷です」
とすると全部で4軒だから一晩で2800万の儲けが平均で出ている。
一ヶ月で8億4000万。3割をヤクザに上納したって5億6000万だ。経営費もあるだろうが概算で少なくとも一ヶ月4億。
「そこまで稼いでて、どうして口の固いプロを雇わないんだ?仕事だって正確だろうによ」
「さきほども話したでしょう?プロはそれで強請ることがあるって」
「オレだって強請るかもしれない」
「あなたは強請りませんよ。妹さんがいつどこで攫われてもおかしくないことを知ってますからね」
そういうわけか。
仕事の正確さには欠けるが身元のわからない、かつ、絶対的な弱味を握られている自分と、金でしか信用取引ができないプロだったら捨て駒として高耶が選ばれるのは自然の摂理だ。
「マジで最悪な奴だな」
「みなそう言います」
ダイニングテーブルに座っていると直江のボディガードとおぼしき男性が高耶の前に色々と乗った皿を持ってきた。
「よく噛んで食えよ」
「あ、ああ」
長髪を後ろでまとめたやさ男だった。身長は直江より低く、高耶よりも高い。
高耶が皿の上のベーコンを口に入れた時、その男が正面の椅子を引き、座って話しかけた。
「よろしくな。俺、千秋ってんだ。ここに住んでる。直江のガード兼世話してるんだ」
「どうも。あんまりよろしくはできねえけどな」
「可愛げのねえガキだな」
直江とは違って威圧的な雰囲気は持っていない。どちらかといえば軽薄にも見える。
「直江から話は聞いてる。おまえが仕事をするんだってな。ま、がんばれよ」
「がんばりたくねえよ」
「おい、直江。こんな奴雇って平気なのか?」
「大丈夫だろう。高耶さんは妹思いのいいお兄さんだからな」
「相変わらず汚ねえやり口だぜ」
「黙れ」
さっき美弥に電話を繋いだ人間はたぶん千秋だろうと予想をつけて、高耶はそれに加担した千秋に内心舌打ちした。
どうせ同じ穴のムジナだろうに。
「千秋、俺は着替えてくるから、高耶さんを頼んだぞ」
「まかしとけ」
直江が自室に消えてしまうと千秋はテーブルについて高耶の皿から冷えたペンネをつまんだ。
「イカサマしたんだってな。あいつの店でイカサマは通じねえぞ。あっちこっちに監視カメラがあったの気付かなかったのか?」
「まったくな」
「たった300万のイカサマで殺人強要とはおまえもツイてねえよな」
「あんたこそ、どうしてあんな汚い男とつるんでるんだ?」
「俺?俺は、あいつの…なんつーか、まあ、おまえと似たような感じだな。あいつに拾われたんだ」
「拾われた?」
千秋は直江が消えた廊下を一度振り向いて、それから話し出した。
「直江はな、元々はヤクザ。関東上杉会の幹部だったんだよ。そんで、俺がその一派の親分の舎弟で、ヤクザの世界で言えば俺と
直江は伯父、甥なわけ。で、俺は直江の兄貴分が懲役に行ってる間に豆泥棒をしちまったんだな」
「やりかねないな、あんたなら」
「うるせえよ。で、それがバレて、殺されそうになったところを直江が救ってくれたんだよ。その兄貴分と直江は以前から仲が悪くて、
直江が何かと目をかけてくれてた俺を消そうとしてるってゆーのを教えてくれてさ、仲介って言えばいいかな。とにかくエンコも詰めなくて済むように金で解決してくれたんだ」
「最近のヤクザは小指なんか欲しがらねえってからな。小指、いくらしたんだ?」
「100万てとこ。小指なんざ使い道ねえもんな。だったら金を貰った方がいいってんで、100万。それを直江が肩代わりしてくれて、しかも上杉から二人揃って破門て形で手打ちになったわけ。だから俺にとって直江は兄貴で、伯父貴で、恩人なんだな。どんなに汚い仕事してても、俺にとっちゃあの時の直江が本物ってことさ」
どう考えてもあの直江がそんな他人を救うなんてことをしたのは信じられない。何か魂胆があってやったことかもしれない。
例えば、組をやめたがっていた時期に千秋がヘタを打って、これ幸いにと仲介を買って出て、金で解決させて、兄貴分の直江への
感情を利用して、破門に導くような計画を立てたのかもしれない。
「千秋、おまえも来い」
その時、廊下から直江が顔を出した。スーツでもバスローブでもなく、一見そこらへんのお兄さん風なポロシャツとスラックスだった。
たぶん高級品だろうが。
「運転と高耶さんのウェアを選ぶのを手伝ってくれ。それと監視だ」
「へいへい」
いくらか腹に食い物が溜まった高耶が寝室で着替え、リビングで待っていた直江と千秋の前に姿を現した。
無表情の直江が立ち上がり、その後を千秋が追い、それをまた高耶が追う。マンションの外は明るい冬の日差しで満たされていた。
地下駐車場から車を出した千秋が二人を乗せる。いったいこの閑静な住宅街はどこなのだろうか。そう思いながら電信柱を見てみたが難しい漢字で高耶には読めなかった。
車はほんの2分程度でビルの駐車場に入った。
「え?ここ?」
「おう、そうだぜ。降りな」
「ここ、どこ?」
「渋谷。松涛ってとこ」
「しょうとう…?」
そんな地名聞いたことすらない。直江のマンションは松涛で、その松涛は渋谷にあるのか。
受付に行き、いつのまに作ったのか高耶の偽造免許証を使って入会させた。
それから受付の脇にあるショップで高耶のウェアを千秋と選ぶ。
「たぶんおまえは1ヶ月間通うことになるから、少なくても3着は必要だな。お、これなんかどうだ?今日はとりあえずな」
千秋が選んだ赤と黒のウェアを受け取り、二人でロッカールームに入った。直江は先に入っていたようで入り口ですれ違った。白いTシャツに、黒いナイロンのトレーニングパンツ姿だった。シャツの上からでも逞しい筋肉が盛り上がっている。
「あいつが自分で殺した方が早いんじゃねーのかな?」
「だろうけど、直江が手を出すわけにはいかないんだ。事情ってのがあるんだよ」
そりゃそうだろう。事情がなければ人は殺人など犯さない。
2時間ほどマシンで汗を流し、高耶は直江に連れられてホールに向かった。そこではちょうどカンフーの講習が始まる直前だった。
インストラクターは直江が入ってきた時点ですぐに近付いてきて挨拶をした。
「こんにちは。彼は高耶さんといって、今日から毎日お世話になります。カンフーと空手を少しだけ習うんですが、見てやってくれますか?」
「ええ、もちろんです。どうぞ」
高耶の他には生徒が3人ばかり。平日の昼だったらこれが妥当なところだろう。
厳しく仕込んでください、と言って直江はホールを出た。どれもこれも、何もかも、直江の手の中だ。
悔しい思いをぶつけるように、高耶はホールでこれでもかというほど体を動かした。
帰り間際のロッカールームで高耶が見た直江の体に刺青はなかったものの、傷跡が多く残っていた。
ひどいのは背中と左胸で、左胸は至近距離から撃たれたらしくケロイドになっていた。背中の傷はその貫通痕と切り傷だった。
元々はヤクザだったのだから抗争で怪我でもしたのだろう。それに嫌気がさして組を抜けるチャンスを伺っていたところ、千秋の件があったのだろうか。
そう予想していた高耶がマンションに戻って直江の胸や背中を凝視してしまうのは当然のことだった。
「なんですか?」
「あ、いや、傷があったな、って思って」
「それが何か?」
自分のことはおまえには関係ないと言われたような気がして高耶はムッとして顔に出した。
「詮索されるのが嫌いなんです。仕事に必要な情報だったらいくらでも提供しますが、そうでない場合は言うつもりはまったくありませんから」
「あ、そ。オレだってあんたに今以上関わりあいたくなんかないね」
「そうもいきませんけどね。さてと、あなたにひとつ、渡しておきたいものがあります。千秋」
「はいよ」
直江はリビングのソファに座ったまま千秋に指示をだして、直江の書斎であろう奥の部屋から白いシャツにくるまったものを持って来させた。
ローテーブルにそれを置かせて、直江自身の手でシャツを取り払った。中から出てきたものは。
「ピストル…」
黒いオートマチックの拳銃だった。グリップには星のマークとCCCPという文字が入っている。
「トカレフ。相場は11万ですが、そこまで価値のある銃ではありません。サイレンサーも付きませんし、安全装置も欠如しています。扱いにくい銃ですけど護身用として持っていてください」
「マカロフがあればそっちが小さくていいんだけどな、今はマカロフが手に入らなくて」
「ええ、ですからこれもだいぶ前に手に入れたものです。メンテナンスは済んでますから暴発の危険はありませんよ。安心して使ってください」
「安心て…」
目の前に置かれた初めて見る本物の拳銃。法治国家日本にもこんなものが存在する驚愕と恐怖で身がすくんだ。
「持ってみて」
直江に向かって本気なのかと目で訴えた。本気だ。
右手を伸ばしてそれを慎重に持ち上げ、左手で支えながらグリップを握る。トリガーに指をかけると足元から頭まで震えが走った。
「まだ弾は入ってませんよ。カートリッジがありますから、それと銃弾を後で渡します」
その物体は、オレには重すぎた。
つづく
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