それは悪という名の後悔だったのかもしれない。
千秋がトカレフのカートリッジと弾を持ってきて高耶に渡したのは直江がカジノへ出かけた後だった。
高耶の部屋に入り、ベッドの上に広げてカートリッジの交換方法を教えた。
「千秋も撃ったことあるか?」
「あるぜ。でも誰も死んでない。ヤクザっつってもそうしょっちゅう抗争があるわけじゃないからな。俺が撃ったのは脅しでだ。『ぼーりょくだん、でていけー』て言ってた近所の連中の代表をな、飲み屋の帰りに攫って山奥に連れて行くんだよ。そんで目隠しして木にくくりつけて、何発も何発も当たらないように撃つんだ。そーすっとションベン漏らして『殺さないでくれ』って懇願してよ。目隠しされてっからいつどこに弾が当たるかわかんねーじゃん?それってメチャクチャ怖いんだぜ」
「だろうな。ひでえ話だ」
「そりゃな、ヤクザだからな。ヤクザ相手にそんな反対運動なんかする馬鹿が悪いんだ。相手は人間じゃねえ、ヤクザだ。けど今そんな物騒な話とは無縁だぜ。直江のガードだけやってりゃ食っていけるし、上納金のために一般人に脅しをかけたり、ガキどもにシャブ売ったり、追い込みかけなくても済んでる。だいぶ更生したんだぜ、俺だって」
「けどオレに人殺しをさせようとしてる奴の片棒担いでんじゃねえかよ」
「直江の命令だけは聞かないわけにはいかないんだよ」
高耶のように脅されてというわけではなく、本心から直江に感謝しているようだった。直江が黒を白だと言えば、千秋も白だと答える。本当の信頼関係とはそういったものなのか。それともヤクザ同士の信頼関係がそうなのか。
「射撃はやったことあるか?」
「ねえよ」
「そうだろうな。俺みたく山奥で練習できるわけじゃねーから、一発目から実践になるとは思うけど……。まー、ビビッて撃てなくて、そんで殺されたって直江にも俺にも何の損もねーか。がんばれや」
誰が頑張るんだ、こんなこと。これ以上千秋とも話したくなくなって押し黙った。そんな高耶を見て千秋も部屋から出て行く。
手の中の重たい銃には弾が入っている。たぶん、これで、誰かが死ぬんだろう。
翌朝起きたのは午前10時だった。眠れずに羽毛の布団にくるまって震えたり、吐き気を抑えたり、かと思えば起き上がって部屋の中をうろつき、窓を開けて夜空を見上げ涙を零したり。
高耶は自分の中にこんなに弱い感情があることを生まれて初めて知った。
小さな物音で目が覚めたのが午前10時。起きてしまうとしばらく眠れないためその音に釣られるようにして部屋のドアを開けた。
リビングへと続く廊下を進むとそこに直江がいた。シルクのガウンを羽織って新聞を読んでいる。経済新聞だった。
「おはようございます」
「…おう」
直江が読んでいる所は株価の記事だった。どうやら直江は株もやっているようだ。
「そんなに儲けてどうすんだ?自分の国でも買うつもりか?」
「……まさか。保身のためですよ。ねえ、高耶さん」
「ん?」
「ちょっとクイズをしましょうか」
「クイズ?」
この冷徹な男からクイズなどというお気楽な単語が出てくるとは思っていなかった高耶は目を丸くして問い返した。
しかし直江は本気だった。経済新聞を見ている自分が、どのページを開けていて、その意図まで察した高耶の頭脳を知りたかった。
「簡単な問題ですよ。今千秋が朝食を用意していますから、その間だけ」
「いいけど…」
「では質問です。今の日本で一番儲かっているのは誰でしょう」
「ああ?」
「ヒントははっきりした数字が出ているわけではないとでも言いましょうか」
まず高耶に浮かんだのはニュースなどに取り上げられている金融関係の人間だったが、直江が出したヒントはそうではないということらしい。
しばらく頭を回転させて答えに行き着いた。
「政治の、黒幕だ」
「正解」
日本にもフィクサーと呼ばれる人物がいることを知っていた。例えば、表では交通機関を経営していたり、公共事業を運営していたり
する。その影で金にものを言わせて政界を操っている人間が何人かいる。その上、政治的派閥を超えて金を撒いておきながらちゃっかりと見返りも得る。その見返りとは毎年莫大な額になるであろう金だ。
ヤクザとの繋がりがあるどころか、そのもの、ヤクザだったりもする。
「黒幕になるつもり…なんかねえよな。あるならもっと手っ取り早い方法を選んでるはずだ」
「そんなもの興味ありませんよ」
「じゃあ何になるつもりなんだ?」
「別に。クイズはあなたの頭の回転を試しただけですよ」
「ふん、金の亡者になるつもりだと思ってたけどな」
「金の亡者ですよ、私は」
「そんでヤクザを辞めたってわけか。千秋を利用して」
今度は直江が目を丸くした番だった。千秋が高耶にヤクザをやめた経緯を話したのは知っていたが、まさか千秋を利用してうまく話を丸めたことを直江以外の人間が知るはずもないのに。まさかここまでとは思わなかった直江は素直に驚いた。
「よくわかりましたね…」
「そんぐらい余裕でわかる。だいいち不自然だ。100万で手打ちになったのに、どうして破門の条件なんか受け入れなきゃいけないんだ?金で解決できるんだろう?それにおまえは上杉会長の舎弟だったんだろ。おまえのミスじゃないのに会長がそんなの許すはずねえよ」
「……ええ、そうです。兄貴分に破門を言い出すように仕向けました。もうヤクザの世界の義理だの仁義だの、バカバカしくなったんですよ。あなたも知っているとは思いますがね、義理だの仁義だのはヤクザ社会でだけの話です。仁侠映画に出てくるようなものは一切ありません。要はヤクザ同士の金の取り合いと面子の張り合いだ。弱きを助け、強きをくじくなんてヤクザがいたら俺だってお目にかかりたいですよ」
皮肉っぽく笑う直江に対して高耶は不快感を持った。そのヤクザ社会から抜け出したのに、やっていることはヤクザと同じか、それ
以上に汚いではないか。
「てめえだって何も変わらねえじゃねえかよ。オレに人殺しさせて、自分の都合のいいように周囲を変える気なんだろ。オレや美弥が解放されるってのも怪しいもんだぜ」
「あなたたちは本当に自由にしてあげますよ。私はね、もうヤクザを辞めたんだ。あいつらだったらあなたの妹さんを今すぐにでもソープどころか香港に売り飛ばしてます。ヘロイン漬けにしてね。そしてあなたの一生を縛るでしょうね。私はそんな下衆な奴らと一緒にされたくなんかありません」
ローテーブルの上の銀のシガレットケースからタバコを取り出して、金色のライターで火をつけ不機嫌そうに吸う。
直江の表情を見る限りは嘘はついていないようだった。
高耶は半分申し訳ない気持ちと、半分は自分たち兄妹の自由を拘束している苛立ちでどう反応していいものかわからず、下を向いて
沈黙した。
そこに千秋から声がかかった。ダイニングに朝食が用意されたらしい。
「高耶さん、朝食できましたって」
「ああ」
直江の後に続き、高耶はダイニングテーブルについた。その日の朝食では千秋だけがベラベラとよく喋り、直江と高耶は黙々と食べ物を胃に収めていった。
そんな生活が数週間続いた。直江は午前10時に起きてから夕方までジムに行くか、どこかへ出かけていることが多い。仕事へは
夜9時過ぎに出かけて行って数箇所を回り、明け方5時から6時までの間に戻ってくる。したがって眠る時間は3時間から4時間だった。
一度高耶が睡眠不足にならないのかと聞いたが、直江は眠る時間が少なくても平気な体なのだと説明した。高耶は体力作りをしているために最低でも7時間は眠らなくては調子が悪いというのに。それでも直江はあの体型を維持していて、しかも深夜に働いているのだ。持ち前の体力なのだろう。
ある雨の日、出かけたと思っていた直江が深夜に戻ってきた。どうしたのかと聞けば体調が悪いのだと言って部屋に篭ってしまった。
鉄人かと思いきや、人間らしい一面もやはりある。直江は機械ではないのだ。
その日は千秋が直江の用事で出かけていて、高耶しか残っていなかった。直江に脅されてこうして飼われているとはいえ、生活面で
は何から何まで直江に頼っている。美弥に送る金も直江が出してくれていて、それが当座の給料という形になっていた。
人でなしだと思っていたが、そこまで最低ではなかったらしい。
高耶が眠りに入ろうとウトウトした時に、大きな音がした。向かいの部屋かららしく、そこは直江の部屋だった。
体調が悪いと言っていた直江だから、もしかしたら大変な病気かもしれないと一瞬心配になったが、よくよく考えれば直江が病気になって死んでしまえばこの束縛から逃れられると思い直して再びベッドに潜り込んだ。
しかし高耶としても気になって眠れなくなってしまった。やはり少しは労わった方がいいのだろうかと足音を忍ばせて直江の部屋の前に立った。
聞き耳を立ててみると中で直江が苦しむ声が聞こえた。もしも、ここで自分が放っておいて直江を死なせたら?そう考えて至った答えは高耶も美弥も消されるかもしれないという不安だった。
気は進まないが直江の部屋のドアをノックした。
「大丈夫か?」
「……高耶さん、ですか…?」
「入るぞ」
ドアを開けて入ると直江は真っ暗な部屋のベッド脇で蹲っていた。ベッドから落ちたのだろう。胸のあたりを押さえている。
「どうしたんだ?」
「傷が、うずいて」
よく見れば胸にある銃弾で受けた傷を押さえて痛みを逃がしているようだった。外の街灯からの白い明かりが直江の背中だけを照らしている。胸が痛いなら背中も痛いだろうに。
「雪や台風の日はこうなるんです…」
雨はいつのまにか雪に変わっていた。雪は外部の音を吸収して部屋の中をいつもより静かにさせていた。
額に汗を滲ませて耐えている姿を見て、直江も大変な人生を歩んできた人間だということが高耶にわかった。自分が自堕落な生活を
している間に、直江は修羅場をいくつもくぐり抜けてきたのかもしれない。いや、きっとそうだ。
「痛み止めとか持ってないのか?」
「ええ、これは後遺症ですからね……痛み止めはありません…神経が圧迫されてるんです…」
「それでも何か…待ってろ」
先日千秋が包丁で指を切った時に救急箱を出していたのを思い出し、リビングの棚を開けて出した。中に入っていた頭痛薬を取り出し、水をコップに汲んで持って行く。
「飲め。多少はマシになるはずだ」
「……大丈夫ですよ…そんなもの、効きはしない」
「いいから飲め!おまえが唸ってる声がして眠れねえんだよ」
「…わかりました」
直江が薬を受け取ってそれを水で流し込む。水がグラスからなくなるまで飲み、床に置くと崩れ落ちた。
「出て行ってください」
「そうもいかないだろ」
直江に肩を貸してベッドに寝かせる。上等な羽毛布団をかける時に気が付いた。全裸だった。たぶんこの男は全裸で寝るタイプの
人間なのだろう。高耶は着て寝ないと落ち着かないタイプだ。
「何か着たら?裸でなんか寝てるから冷えてますます痛いんだ」
「そこの棚にシャツがあります…それを」
直江が指差した棚を開けて、中にある引き出しを引いた。木綿のTシャツが整理されて入っていた。それと下着を出して直江に渡す。
ベッドの上で衣服を着ると布団を胸までかけて枕に沈んだ。どうやらだいぶ落ち着いてきたようだった。
「あんたも人間だったってことだな」
「そうですよ。なんだと思ってたんですか?」
「機械」
それきり出て行こうとした高耶を呼び止めて、直江はひとつの質問をした。
「あなたは…必要悪って言葉を知ってますか?」
「ひつようあく?」
なぜそんな質問を投げかけられるのかわからない高耶は立ち止まってドアを開けて聞いてた。
「今の若い人たちは知らないかもしれないですね。…どうしても必要な、悪です。今の若者はそんなものを必要としない生活の中で暮らしてる…または悪に染まりきって、程度というものを知らない」
「オレのことかよ」
「いいえ。あなたはそれを知ってるはずだ。妹さんの学費をバクチで稼ぐ、足りなくなったらイカサマをする。それが必要悪の根本的なものです。それとはまた少し違った意味で…どうしても殺さなくてはならない相手がいるとしたら…もしそれが世の中の、誰かのためだったとしたら、ある意味許されると思いませんか?」
高耶にはそれが何を指すのかわからない。急に弱くなったような姿の直江は痛々しいほど憔悴している。その口から出た「許される」
という言葉には。
「それはオレが誰かを殺すのが、必要悪だって言いたいのか?誰を殺すのかは知らないけど、そんなものが必要悪だったとしても許されるわけがねえだろ。オレはきっと一生を殺人者として後悔して過ごす。あんたは万々歳だろうが、オレと言う人間がおまえのために一生を後悔して生きることになるんだ。妹に会わせる顔もなくなる。あいつが無事ならオレはそれでいいさ。だがな、すでにおまえは他人を地獄に落として生きてるんだ。どのツラ下げて言ってるんだ?いまさら許しなんか乞うんじゃねえよ」
「…高耶さん…」
「その傷を付けた奴に感謝したいぐらい、オレはあんたを憎んでるんだ。ちょっと優しくされたからっていい気になるな」
「……そうですね……」
高耶は冷たくドアを閉めた。
それは悪という名の後悔だったのかもしれない。
つづく
|