カイナ


 

※専門用語・隠語などは各ページの最後に解説しています※

 
         
 

自分が、わからない。

 

 

仕事を終えた高耶がベッドから出ることはなかった。
それは直江も千秋も予想していたことであったため特に大きな心配はしていない。
これで高耶も肝が据わるに違いないだろうと千秋は言うが、直江はそう思えなかった。さきほど高耶の部屋に入った時のあの動揺ぶりは見ていても痛々しかった。
巻き込んだのは直江であり、つけこませる隙を作ったのは高耶であるわけだから何も後悔する必要はない。直江はそう思っている。
しかし反面そうではないものも浮かび上がってきている。

今まで自分はヤクザの中でも一番非情なヤクザだったと思い返す。足を洗ってからもヤクザのころと何も変わらずに平気で犯罪に
加担して、しかもヤクザの頃よりも冷徹になった。規制のないぶん狡猾にもなった。
しかしそうなる要因は心中に潜んでいる冷徹とはかけはなれたものだった。

その日直江は仕事に行き、一軒だけ回ってすぐに帰ってきていた。本来ならばアリバイのためにできるだけ人前にいるべきではあるのだが、なんとなく気分が優れずに帰ってきてしまった。
早めにシャワーを浴びて寝室に入った。今夜は勝田が死んだから快適に眠れるだろう、と思い羽毛布団を体にかけた時、向かいの部屋から叫び声が聞こえた。

「…高耶さん…?」

寝室から廊下に出ると、同じく高耶の声に驚いて出てきた千秋が立っていた。ドアからは泣き声がしている。

「おう、直江。やっぱダメだったみたいだな」
「ああ…」
「オレが行ってリラックスさせようかね」
「いや、おまえはダメだ」
「なんで〜?」
「人を殺したことがない人間が今行っても、高耶さんをますます混乱させるだけだからな」
「…そっか…じゃあ、おまえが?」
「仕方がないだろう」

千秋は眠そうにアクビをしながら直江に後を任せて、直江たちとは少しだけ場所が離れている自室へと戻った。
それを完全に見送ってから直江が高耶の部屋のドアを開ける。高耶の部屋には鍵はついていない。

「高耶さん…」

高耶はベッドの上で、羽毛布団にくるまって、咽び泣いていた。慟哭だった。

「高耶さん、大丈夫ですか?」
「うう……ぐ、うう」

いつかこんな泣き声を聞いた覚えがあった。あれは誰だったか。

「高耶さん…」

布団を鎧のように纏っている高耶を抱き起こし、顔を見た。目の焦点はしっかりと直江を捉えているが、何が見えているのかわからないほど恐怖で体を震わせている。
そんな姿を、前に一度だけ見ている。それが誰だったのか、直江には思い出せない。だがその時はどうしたらこの悲しみを癒すことができるのかを考えていたような気がする。そしてその解決方法は抱きしめることだった。
直江はゆっくりと高耶の体を布団ごと抱き寄せて、腕の中に包んだ。どうして自分が高耶にそうしているのかわからなかったがそうしなければいけないという衝動が起こっていた。自分も同じように悲しかったからだ。

「大丈夫です…泣かないでいい」
「う…く…」
「すぐにそんな感情は忘れます。だから、泣かなくてもいいんですよ…」

真っ暗な部屋でしばらく抱いていた。高耶が泣き止むことはなかった。嗚咽していたかと思えば、大声を張り上げて泣く。
何度か直江にデジャヴが起こる。いつかこんな場面があったような気がする。それ以上は思い出したくなくて頭から捨てた。

「待ってて。安定剤を持ってきますから」
「…いく…な…」
「え?」
「いくな…」

高耶が弱々しげに直江に抱きついた。たとえそれが自分を地獄に、こんなことにさせた人間でも、今はそのぬくもりが必要だった。
誰かにすがっていなければ体も心も壊れてしまうような気がした。
直江はそんな高耶を見るのは初めてで戸惑ったし、安定剤で眠らせてしまう方が手っ取り早くて良かったのだがそのままにしておいた。

「もう…戻れない……」
「……高耶さん…」

1時間ほどそうしていただろうか。高耶の涙で直江のガウンがしっとりと濡れて冷たくなったころ、直江の胸の中にある感情が生まれた。親近感、というものだろうか。
高耶の髪を撫でながら、その髪を幼く愛しいと思い、そして震える体を止めたいと思った。

「泣かないで…」

高耶の額に唇をつけた。それがキスなのか、ただのスキンシップなのか、直江にも高耶にもわからなかったが、なぜか高耶の震えは
おさまり、直江の悲しみもおさまった。
そのまま高耶は吸い込まれるようにして眠りについた。高耶を寝かせ、布団を肩までかけて、直江は部屋から出て行った。

 

 

次の標的は中国人だった。
ハイセイウー。漢字にすると黒社会。香港から来たヤクザのことだ。その中でも中心的な人物である趙舜洪という人物が直江の次回の標的だった。
中国本土から来ているチャイニーズマフィアと香港からのハイセイウーは以前対立関係にあったが、現在では友好関係を築いてきている。
その趙の調査を黒田という情報屋に調べさせていて、決行日は勝田を殺してすぐが都合良いと言われていた。しかし昨夜の高耶の
様子からしてみたらそれは無理な話だった。
まだ高耶は部屋から一歩も出てこない。用を足しにトイレぐらいは来るかと思ったが、体中の水分はすべて涙に変わってしまったのかもしれない。
高耶の涙を思い出して直江は頭を悩ませる。なぜあんなことをしてしまったのだろうか。子飼いの、しかも男に。

千秋に高耶を監視させ、直江は池袋の店に来ていた。他の店とはシステムを違えて営業している池袋店は、上杉より武田の勢力が強いため現金ではなくチップ制でテーブルも少なく、レートも1万円チップからと低かった。
自分のいた組織の縄張りではない土地で、現金で博打をする場合はヤクザからの監視も厳しく、それにもし警察に立ち入られた時などに賄賂を使って見逃してもらうのも一苦労する。
そのために表では営業許可も取り、チップ制で普通のカジノバーとして営業している。実際のレート(チップ代金)はカジノバーの10倍だが。

他の店にいるよりは多少リラックスして構えていられるため、直江はここ最近の自分の気持ちの変化を考えていた。
昨夜、高耶を抱いたのはなぜだろうか。どうしてそうしなければいけないと思ったのだろうか。以前、ああして泣いていたのは誰だったか。
いくら考えてもわからない。自分の中に優しさの欠片でも残っていたのか。そんな甘い男ではなかったはずだ。

室内の電話が鳴り、それを取ると黒田からだった。

『予定の変更ですが、今度の機会を逃すと次は三週間後になりそうですよ』
「そうか…急いでいるわけではないが…」
『急いだ方がいいですけどね。Kから時間を空ければ空けるほど、状況がヤバくなるのはわかってますよね?』

Kとは勝田のことだ。どこで盗聴されているかわからないため隠語を用いる。直江や黒田のような裏社会に生きる者なら当然のやりかただ。
勝田はしばらくの間、失踪と見なされるだろう。死体は絶対に見つからないように産業廃棄物を捨てる地所を知り合いのヤクザに金を積んで紹介してもらった。まだ廃棄物がない穴だけを開けた底に、勝田の死体を埋めさせた。今日には廃棄物がその上に落とされて永遠に勝田は見つからないだろう。
しかし勝田がいつまでも失踪しているとなれば織田を筆頭に誰もが怪しむ。時間が空けば空くほど。その空気の中でまた新しく趙が失踪すれば、何が起きたか、誰の仕業なのかなどは頭のいい連中には気付かれる。

「しかし手駒が動けないのだから仕方がないだろう」
『他に手駒はないんですか?』
「…ない。最低限の人間が知っていればいいことだからな。おまえと、俺と、手駒一匹だけだ」
『わかりましたよ。こちらで少しの情報操作程度ならできると思いますから、やっておきます』
「すまない。頼んだぞ」

受話器を置き、タバコに火をつける。黒と白で配色されたオーナー室を見回してなんて冷たい場所だろうと思った。
扉の外からは客の興奮した気配がしてくる。カジノの客は競馬場とは違って誰も大声を出さずに自分の戦場を見つめているものだ。
まるで自分のようではないか。
目だけ血走らせて、腹の奥に叫びを隠して、冷静に目の前のテーブルに広がったカードとチップを見る。
ただ違っているのは自分だけは負けないという気概だけだ。俺は負ける気はない。負けないと思っている者だけが負けないのだ。
客はそうではない。勝つか、負けるか、それを考える。
金と言う緩衝材で身を守っている客と、緩衝材なしで絶対に負けられない勝負を裸同然でしている自分とでは違うのだ。

そう思うと客の気配が鬱陶しくてたまらなくなった。身を置いている賭場が違いすぎて不愉快になる。池袋の店のせいだけではない。
たぶん他の店でも同じように客に不快感を持つのだろう。
直江は黒いカシミヤのコートを着て、セキュリティの男と車に乗り込んで帰宅した。

 

 

マンションでは千秋が高耶の部屋の前に座り込んでいた。

「どうだ?」
「んー、たまに泣いてるみたいだけど、昨日よりは落ち着いたらしい。さっき食事持ってきたんだけど、返事なくてさ。生きてるからいいんだけど、あいつがこうして引き篭もっちまうと寂しいなって思うんだよな。なんでだろな」
「さあな」

着替えもせずにリビングでブランデーを出した。千秋も戻ってきてグラスを持ち出した。

「昨夜、どうやって落ち着かせたんだ?」
「別に。何もしていない」

それが嘘であることは千秋にもわかったが、直江が嘘をついたところで千秋には詮索するほど感心はない。そうか、と返事をして
一口でグラスを開けた。

「どうでもいいけど、あんまりあいつに深入りし過ぎないことだな。ただの手駒ってだけで、どうせ後で放り出すんだから。同情なんかしてもいいことねえぜ。…まあ、それは俺にも言えることだけどさ」

千秋と高耶が今までどんな接し方をしていたか直江は知らない。だが千秋がそうなるのはわかった。
高耶という青年はどういうわけか相手を引き込む力があるようだった。過去のサマ師としての経験でも相手を自分に夢中にさせて勝負を降りられなくしていたのだろう。サマ師とはそんな素質も必要なのだ。
自分も引き込まれかけているのかと直江は思う。あの、研ぎ澄ました刃で心を抉られてから。
それではこれから以降の仕事に支障をきたす。

「出てくる」
「へ?どこへ?」
「銀座だ」

千秋にタクシーを呼ばせて直江は麻衣子が働く銀座のクラブへ出かけた。車中で電話を入れて今から行くと伝える。
到着すると麻衣子が迎えに出てきていてテーブルまで案内された。最高級のシャンパンを注文して麻衣子と差し向かいで飲んだ。

「久しぶりね。仕事忙しかったの?」
「そんなところだ」
「今日はうちに寄ってくれる?」
「…考えておく」

高耶に引き込まれないために女に会いに来た直江だったが、麻衣子の顔を見ていれば見ているうちに、高耶を思い出してしまう。
麻衣子の仕草のひとつひとつが媚びているようで不快感を伴う。他の女たちにも同じように。水商売なのだから媚を売るのは当然なのだが、それが今の直江にはおおいに気に入らない。

あのひとは、媚など気配すら見せないのに。

その媚を売らない高耶が昨夜は直江に縋り付いて泣いていた。きっと今も泣いているのだろう。
グラスに浮かぶ泡を見て、ひとつひとつ弾けていくたび昨夜の光景を思い出す。
縋る腕を、震える体を、声にならない叫びを、喉から押し出す嗚咽を、暗闇で輝く涙を。

溜息を大きくついた直江を麻衣子が咎めた。

「どうして私の前でそんな溜息が出るのよ」
「すまない。ちょっとした心配事があってな」
「仕事?」
「それもあるが…おまえには関係ないことだ」
「でも今は忘れて楽しんで?せっかく久しぶりに出てきたんだから」

数時間ほど店に留まり、その後はふたりタクシーに乗り込み麻衣子のマンションへ向かった。
マンションにつくとすぐにシャワーを勧められ浴室に入る。ぬるめの湯で体を温めながら心臓近くの傷を触った。
この傷を醜く思ったことは一度もない。これは自分ではない誰かを守ろうとしてついた栄誉の傷だった。それが疼いた。
また雪か嵐が来るのかと思ったが、そうではない。高耶が言った一言のせいだった。

『いまさら許しなんか乞うんじゃねえよ』

そうだとしても許されたい。なぜ今更。

浴室から出た直江はベッドを整えていた麻衣子の横で服を着た。

「どうしたの?帰るの?」
「ああ、気分じゃなくなった」
「最近どうしたのよ。あたしのことはどうでも良くなったってわけ?」
「……そうらしい」

脇でがなりたてる麻衣子を無視してコートを着込む。直江の気持ちはすでに自宅マンションまで飛んでいたが、麻衣子の声がそれを邪魔するようでうるさい。

「少しは黙ったらどうだ。おまえにもう少しプライドがあれば可愛がってやれたのに。二度と会いたくない」

凍りついた麻衣子をよそに直江はマンションを出た。大通りまで歩いて行ってタクシーを探す。
その時、背後から銃声がして直江の腕を弾が掠めた。
状況を悟り機敏に振り向き、隠し持っていた銃を向けた。しかし狙撃してきた人物の姿はすでになく、街灯に照らされた深夜の道があるだけだった。
このまま留まっていては銃声だと気付いた人間が出てくるだろう。一発では車のバックファイヤーとしか思われないのはわかっているが、用心に越したことはない。
大通りに出てすぐに見つけたタクシーに乗り込み、中でコートを脱いだ。血が車内につかないよう慎重に脱ぎ、ハンカチを出して出血している腕をしばる。もう一度コートを着て自宅マンションまで保った。

タクシーの窓から見える深夜の街灯と、新しく出来た傷と、疼く心臓の傷がなぜか記憶の中の高耶を呼び起こした。
あのひとに会いたい。会って、この体で抱きしめたい。許しを乞うように。


自分がわからない。

 

 

つづく

 
         
 
ちょっとだけ直江がいい人になりました。なんだかな・・・
 
         
 

サマ師 ・・・イカサマ師の略語

 
         
   

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