昨夜の一件で精神的に不安定になっていたせいで、今日の横浜入りはタクシーだった。帰りもタクシーで事務所まで行った。
本来なら家に直行で帰ってもいいのだが、事務所には高耶がいる。
なんでもいいから聞かせてもらわなくては。
高耶はどう思っているかわからないが、今現在は自分は高耶の恋人なのだから、何でも受け止めてやらなくては。
「高耶さんは?」
木製の棚の中からファイルを取り出していた一蔵に声をかけた。
「あれ?タチバナさん。帰ったんじゃないんですか?」
「ああ、高耶さんを迎えに来たんだが」
「高耶くんなら今さっき帰りましたけど」
「そうか」
急いで事務所を出て行ってしまった。一蔵が話の続きを棚に向かってしているうちに。
「長秀がメシに誘って出てったんすよ。長秀のことだから深夜まで連れまわすんじゃないですかね〜…あれ?タチバナさん?…いねーし。ま、いいか」
高耶のアパートに到着して外から窓を見上げた。明かりは点いていない。
先に着いてしまったか。高耶さんのことだから電車で帰ったのか。タクシーの方が速いに決まってる。
一応ドアをノックしてみたが、いる気配はない。
どうしたものかと思案して、以前のように道端で待つような怪しい行動は高耶に迷惑をかけると判断し、しばらく近所を歩き回ってから出直すことにした。
そうして何分かおきにアパートへ行ってみるが、帰ってきた様子はなかった。
もう二時間ばかりこうして外にいる。寒くて凍えてきそうだった。耳たぶが冷たくなって奥まで痛い。鼻も赤くなっているかもしれない。
でも、高耶に会わなくてはいけない気持ちが大きくて、帰る気にもなれない。
携帯に電話を入れようとしてみたが、恩着せがましく思われそうでやめた。
帰るのを待つしかない。逃げられたら元も子もないのだ。
「このドアの鍵が、あったらいいのに」
ふとそう洩らして気付いた。
高耶は鍵を欲しがっていたのだ。
自分を拒否するようなアパートのドアを目の前にして、やっと気が付いた。
このドアを自分が開けて、中に入って行けたら。部屋を暖かくして、高耶を出迎えてやれたら。
高耶の好物のケーキを買って、帰ってきたらすぐに紅茶を入れてやれたら。
鍵。
自分と高耶を同じ世界にいられるようにするためのアイテム。
いつも直江が高耶のもので、いつも直江と同じ世界を共有できる唯一の場所がマンションだった。
そのドアが、高耶にとっては大きな障害だったのに、気付いてやれずに数ヶ月付き合った。
もしかしたらずっと、欲しかったのかもしれない。
直江はカバンの中のシステム手帳のページを破り、メッセージを書いて鍵を包んだ。そしてドアの郵便受けから部屋の中に入れた。
「またそうゆう飲み方すんじゃねえよ、高耶!」
「うっせえ!モデルのくせにスタッフに偉そうにすんな!」
逆じゃないか?と思いながら目の前の高耶の飲みっぷりを見ていた。
モデル事務所の近くにある古いビルの地下にある、有名なイタリアンレストランで食事をしようと誘った千秋と食事をし、そのままその店でワインを飲んでいた。
穴倉のような店内。壁には一面客のいたずら書きがしてあって、マフィア映画で出てくる場末のレストランに似ている。
「また直江と何かあったのか?」
「あったけど…別にもういいんだ。直江の方が呆れてるみたいで、もう、駄目かも」
「はあ?!あの直江が?!」
「昨夜も怒ってたし、オレが勝手なことばっかり言って、直江を困らせて、だからもういい」
「んなわけないって。あいつがおまえに呆れるなんてこた、ありゃしねーよ」
「いや、呆れてた。…オレの情けない姿も見られたくないし、バイトがなかったら二度と会いたくないけど…明日は一緒に雑誌の取材に行かなきゃいけない。憂鬱だな〜…」
直江からは「高耶さんに困らせられるのは至福だ」と聞いている千秋は高耶の話を半分も信じない。
呆れるのはこっちだっつーの、と心の中で唾を吐きながらも、あの直江でも高耶に怒るのか、と一瞬感心もした。
「でもよ〜、直江から別れるって聞かされたわけじゃないんだろ。だったらいいじゃねえか。まだ別れるって決まったわけじゃないんだしさ〜」
「オレが言い出したんだ。しばらく考えさせろって」
「じゃあもっと変だ。好きなヤツと別れたくないくせに、別れるなんて」
「だって、直江はあんなで、オレはこんなで。釣り合い取れてない。直江を知るたびに、距離を感じる」
「…あのな。直江はそりゃ立派なトップモデルかもしんねーよ。けどよ、俺様とおまえがこうして一緒に飯を食ってる。俺様だってメジャーなモデルさんなわけ。この俺様と、おまえが、同じ席で飯を食おうが、酒を飲もうが、誰も咎めないだろ?だったらおまえと直江が一緒にいたって誰も咎めないに決まってるじゃねーか」
「オレが、咎める」
「じゃあ何か?!俺様とは咎めないくせに、直江だったら咎めるってのは、俺が直江に全部負けてるってことか?!」
「負けてるじゃんか。全部。直江はおまえと違って優しいし、売れてるし、モテるし、かっこいいし、オレなんかと一緒にいられるような人間じゃないんだよ」
ノロケながらひどいことを言うやつだ、と千秋は思ったが黙っていた。
こうもハッキリと他人の口から直江に負けていると聞かされたのは初めてだ。多少のショックもあり、高耶の気持ちもわからなくもないな、と思った。
「まあ、もっとちゃんと直江と話せよ。あいつ、絶対におまえから言ってくれるのを待ってるはずだから。無神経なやつじゃないし、話せば理解するよ。もっとワガママ言ってもいいんじゃないか?」
「オレが勝手だから怒ったのに?」
「たぶん、そうじゃない。おまえが話さないから怒ったんだろうよ。おまえに頼って欲しかったのに自分の胸に押し込んじまったからじゃないかな」
「ちあき…おまえ、いいヤツだな…直江より勝ってるぞ、そこだけは」
そこだけはは余計だ。
「じゃあ、このボトル飲んだら帰れよ。そんで明日は直江と話し合え」
「うん…話してみる」
少し遠回りだが高耶をアパートまでタクシーで送ることにした。
いつも自分は高耶の介抱ばかりしているな、と思いながら、根津を回って池袋に行ってくれと運転手に告げた。
「おまえんちは?どっちだ?」
「そこの路地の、ボロアパート。直江のマンションのリビングより狭いワンルーム」
高耶がここだ、と言ったアパートを見上げた。確かに直江のマンションと比べたら虫かごみたいな高耶の部屋。
「じゃあ、俺はもう帰るけど、部屋まで一人で行けるか?」
「そこまで酔ってない。だいぶ醒めたし」
「そうか。じゃあ明日な。事務所、いったん来るんだろ?」
「うん。わざわざすまなかった」
「…いいけどさ。じゃあな」
直江も高耶も、どっちもお互いを大事にしすぎているんじゃないか、と思いながら千秋は家路についた。
高耶が玄関のドアを開けて入ると、何か金属が入った紙がスニーカーに当たった。
なんだろう?と思って明かりを点けたら白いメモ用紙のようなものが丸まって転がっていた。もしかしたら新手の犯罪かもしれない。最近はこのあたりもピッキングが多いみたいだし…。
恐る恐る拾い上げようとしたら、紙から何かが落ちた。
キンと音を立てて、玄関のコンクリートに銀色のものが跳ねる。
「鍵…?」
自分のアパートのだろうか?だが合鍵は自分と大家しか持っていないはず…。
紙に書かれた達筆な字を見て、頭が冴えた。直江だ。
『今日はあなたには会えませんでしたが、これを置いて帰ります。いつでもいらしてください』
見覚えがある。一蔵が持ってた。直江も持ってた。
直江のマンションの鍵。
直江のことだ。何時間も待ったに違いない。
そうして最後にこれを置いて帰った。
オレが欲しかったの、わかってたんだ。
「なおえ〜ぇ…」
床に突っ伏して泣いた。鍵はここにあるのに、直江はいない。
直江の優しさがここにあったって、本人がいなんじゃ寂しいだけだ。
すでにベッドに入って寝ていた直江の枕元にあった携帯電話が鳴った。
こんな夜中に誰だ、高耶さんが起きるじゃないか。そう思ったが、隣りには誰もいない。
じゃあ、この電話は。この着信音は。
飛び起きて携帯の通話ボタンを押した。
「高耶さん?!」
電話の向こうは高耶らしい。が、返事はなく、何かの音がずっとしているだけだった。
雑音みたいな音。聞き覚えがある。
「高耶さん。泣かないでください。ちゃんと、聞いていますから」
しゃくりあげて、鼻をすすって、声にならない声がする。
「見つけてくれたんですね。それが私の本心です」
しばらく高耶の泣き声を聞いていた。だがまったく止む様子はなく、少し不安になってきたときに、
「今から迎えに来い」
ハッキリとは聞き取れなかったが、そう言った。
「すぐ、行きます」
「電話は切るな…っ」
「わかりました。このまま行きますから」
携帯電話を耳に当てたまま簡単に着替えて、マンションを出てタクシーを拾った。タクシーの中にいる間も、高耶はずっと泣き続けで、それを聞きながら、たまに言葉を発する高耶に返事をして、根津へ。
今、着きました。アパートの階段を登っていますから。もうすぐです。
泣いている高耶に向かって、ひとりで話している。
ドアの鍵を、開けてください。
「開いてる」
高耶の言葉は携帯と、ドアからとシンクロして聞こえた。
携帯を耳に当てながらドアを開けると、玄関に高耶が蹲って泣いていた。携帯を切って高耶の横にしゃがみこむ。
「あなたはいつも、床に座り込むんですね」
「…なおえ…」
高耶の手には鍵が握られている。お揃いのキーホルダーが手からこぼれて見えていた。
「もう、大丈夫ですよ。泣かないで」
抱き寄せて、泣かせた。泣かないでと言いながら、高耶が泣いているのが嬉しかった。
自分を求めて泣いていた。
「今度はあなたの鍵も私にください。いつでも、会いに来ますから」
「もう、絶対に返さないからなっ…」
「ええ、そうしてください。返す必要はありません。あなたのものです」
ようやく泣き止んだ高耶にキスをしたら、塩からい味がした。
微笑ましいそのキスをもう一度、もう一度と、何度もして、ずっと抱いて座っていた。
「なおえ…」
「どうします?その鍵でうちに来ますか?それとも高耶さんの部屋に、私を迎え入れてくれますか?」
ここが玄関だったことに気付いた高耶は慌てて立ち上がろうとしたが、直江に阻まれた。
「今夜は高耶さんの部屋にいさせてください。あなたの部屋に、私の居場所を作ってください」
「うん…」
直江に抱えられて立ち上がり、部屋の奥に連れて行った。
直江の家とは違って、一間にベッドもテレビも机も全部置いてある狭い部屋。
「ここなら、あなたが寝ていても、何をしていても、いつも見ていられるんですね。いつも、本当にそばにいられるんですね。この部屋は、私も好きですよ。あなたの匂いがする。あなたの暖かさが感じられる。ねえ、高耶さん。しばらく、ここに住んでもいいですか?」
「駄目」
「どうして?」
「直江の分の合鍵、作ってから」
「そうですか」
まだ泣き止まない高耶に何度もキスをした。
「やっぱり、高耶さんの部屋に住みたくなりました」
「なんで?」
「ベッドが狭くて、くっついて寝るしかないでしょう?私のベッドだとあなたは毎朝端っこで丸くなって寝てますから」
「………………恥ずかしいヤツ…」
「それに壁が薄くて、声を殺すあなたも可愛らしいし」
「やっぱ直江には合鍵は作らない!」
「ええ!そんな!」
その後、高耶に数日間しつこく何かをねだり続ける直江を何人もの人間が見ていたとさ。
END
あとがき
バイト日記から続くような感じで『合鍵』です。
高耶さんの部屋の合鍵はもらえるのでしょうか?
高耶&千秋が行った六本木のイタリアンは
『シシリア』という店です。
譲と下町ツアーは今度別口で書く予定ですが
取材しなきゃ…駄目かも。