金曜の夜、夕飯を食べながら話してみた。
「靴?」
「ええ。必要になるでしょう?」
「でも茶色いのを直江に買ってもらったし」
モトハルのスーツに似合うのを去年の秋に買ってあげたばかりだった。しかし今回のは就職活動用だ。
「それにデザイナーの就職活動って普通の会社と違ってリクルートスーツなんか着ないぞ」
「そうなんですか?」
「うん。まあ最終面接とかだったらスーツなんだろうけど、それはモトハルさんとこのスーツで行くつもりだったからあの茶色いのでいいんだ」
せっかく購買意欲が湧いてきたというのに……というか高耶さんには何でも買ってあげたい。
「あ、オレは靴いらないけど、デザイン画のために女物の靴を見たいって思ってたんだ。ひとりじゃ行かれないしちょうどいいから女物の靴を見に行こうぜ」
「私とですか?」
「直江だったら女物の売り場にいたっておかしくないじゃん」
おかしいような気もしますが……まあいい。私の靴を買うという名目で高耶さんを靴屋につれて行こう。
そして欲しそうな顔をしたら先日のように買ってあげればいいのだ。
「直江」
「はい?」
「これから半年間は色々忙しくてあんまり会えなくなるけど、たまにこうして泊まりに来るし、時間が空いたら夕飯も作りに来るし、ええと……だから」
「だから?」
「浮気すんなよ」
「はいッ」
浮気なんかするはずがない!命を賭けてもいい!
高耶さん以上に魅力的な人間はこの世にはいないのだから!
「エッチも少なくなるけど本当に浮気しないな?」
「しませんとも!」
「……じゃ、いいや」
そんなわけでその日のハッピーラブラブタイムは濃厚でちょっぴり開放的で、高耶さんにしては珍しく私の要求を多く叶えてくれた。
土曜は最近忙しい高耶さんのために昼まで眠って、それから近所のカフェにランチを食べに行った。
ランチの帰りにケーキを買ってマンションに戻り、音楽を聴きながら語らい、何度かキスをしたりして過ごした。
ケーキは3時のオヤツでバルコニーのテーブルで高耶さんの好きな紅茶と供に食べる。
「今日あったかくて気持ちいいな」
「南風で陽もたくさんあたって、高耶さんと過ごせるこういう日が毎日続けば、って思います」
「あと1年だから。卒業して働き出したらここに住むんだからさ」
「ええ、待ってますよ」
1年。短いようで長い。欲しいものを手に入れるための1年間のガマンというのはなんと長いことだろう。
もうすでに「一緒に住もう」と約束してから1年半も経っている。
その1年半が私には無限に感じられるほど長かった。それがまだ続くなんて気が遠くなる。
しかし1年。昼と夜を365回繰り返せばいい。365回、今までの人生で過ごしてきた11315回の昼と夜に比べたら短いものだ……と、思い込もう。
「夕飯の買い物、そろそろ行くか?」
「いえ、今日は残り物で済ませましょう。せっかく高耶さんがそばにいてくれるなら、二人きりでいられる時間を長く取りたいんです。高耶さんはどう?」
「オレも、その方がいいな……」
椅子から立ち上がって私の背中に抱きついて首に頬ずりする。本当にこの間から猫みたいだ。
振り向いて艶やかな髪を撫で、すべらかな頬を撫で、ふんわりした唇にキスをする。
「高耶さん」
「ん?」
「愛してますよ」
「うん……」
どんなに探したってあなた以上にキレイな人はいません。
あなたが造形も造作も美しいのはきっと内面から滲み出てくる美しさなんでしょうね。
正直で飾らなくていつでも一生懸命でまっすぐに誰もを信じようとする心が、美しいから。
それが出来ない私のために、あなたがここにいるのでしょう。
約束の日曜、昼食を作ってもらって食べてから、BEAMSで買ったガーゼ生地のシャツを着た高耶さんとタクシーで上野の森まで行き、目的の美術館に入った。
さすがに日曜日なだけあって混んでいたがまったく見られないほどの混雑ではない。
黙って絵を見る高耶さんの後ろについて歩く。入ってから一枚目の絵を見てから、ずっと高耶さんは黙って見ている。
一枚一枚をゆっくりと観察し、細部まで自分の網膜に焼き付けているのかもしれない。
絵の中のドレスを襞を、ディテールを、髪飾りを、靴を、ブローチやネックレスや指輪を。
順路で絵画のない廊下に出たときに、高耶さんがようやく私を見た。
「さっき、絵の中にトンボのブローチあったの見た?」
「ええ。エメラルドのでしょう?」
「そうそう。なんで昆虫をアクセサリーにしたんだろうな。直江、わかる?」
「昆虫もそうですけど、不完全な生き物はいないでしょう?どの生き物もちゃんと自然にうまく溶け込んで暮らしてますよね。だからじゃないですか?」
「ん?」
「完全な美、ということだと思います」
「ふーん……よくわかんないけど」
「人間は考える生き物だから、どうしても自分を不完全だと思ってしまう。それだから昆虫などの完全に機能する無駄のない生き物に憧れて、無駄のない造形を美しいと思ったんじゃないでしょうか。私がアクセサリーデザイナーだったらそういう根拠のもとに昆虫をモチーフにしますよ」
納得がいかない顔でじっと私を見ていた。
「なんです?」
「じゃあ直江は自分を不完全だと思ってるってことか」
「ええ。私は不完全どころか半分も完成してない未熟者ですから」
「そうかな〜?オレからしたらそうは見えないんだけどな〜」
私にはあなたの方がずっと完全に近いのに。
あなたが自分を完全に近いと気付かないのは、自分を知らないからですよ。
だけど私は学んでいるので知っています。完全な美は自分を知らないからこそ完全なんです。
トンボは自分がトンボだとは知りません。
花は自分が花だとは知りません。
ただ忠実に、自然に忠実に生きているだけです。あなたのように。
また黙って展示を見始めた高耶さんのつむじを見ていた。頭頂にある丸い渦巻きのつむじ。
そこから世界が生まれているような、そんな円。あなたが形作る私の世界。
またもや惚けてしまった高耶さんを現実に引き戻すため、美術館の建物を出てすぐにある自販機でコーヒーを買ってベンチに座らせた。
「熱いですからね。気をつけて飲むんですよ?」
「うん……」
ダメだ。まだ惚けている。これじゃ熱いコーヒーでヤケドする。
どうしたものか。
「高耶さん」
「あ〜?」
「キスしていいですか?」
「ああ、うん」
本当にダメだ。いつもだったら「ふざけんな、バカ!!」と叫ぶのに。
私としては本当にキスしたっていいのだが、この状態でキスしたら絶対にあの必殺リバーブローが飛んでくる。
「高耶さんてば!」
「ん?あ、何?」
「悪い癖ですよ。そうやって頭の中を勉強で一杯にするのは。危なっかしい」
「うん、ごめん」
「人攫いに連れていかれちゃいます」
「ガキじゃねーんだから」
ようやく元に戻ってコーヒーを冷ましながら飲んだ。もう大丈夫だろう。
こうやって勉強で頭が一杯になっている時はきっと私のことも忘れているんだろうな。寂しいが仕方ないのか。
それでこそ高耶さんなのだし。
「あ、靴見に行くんだっけ」
「私の靴を選ぶの、付き合ってくださいね」
「うん」
駅前からタクシーに乗って銀座へ出た。
たまに高耶さんの意識はまた洋服や勉強に飛んで行ってしまうが、話しかければ戻ってくる。
造形が整っていて美しい靴を選りすぐって売っている店が新橋寄りにある。そこまでタクシーで乗りつけた。
茶色い靴を高耶さんに買ってあげたのもこの店だ。
「いつもここで買ってるんだ?」
「ええ、日本で買う時は」
「日本で買う時は……?」
「いつもはジョン・ロブかマンニーナで買ってます。足型も保存してもらってますし」
「じょんろぶ?まんにーな?」
「ジョン・ロブはイギリスの靴屋さんです。マンニーナはイタリア。どちらもオーダーなんですよ。ほら、足が大きいでしょう?日本で見つけるのが結構苦労するんです」
ジーンズも靴も結局海外で買うことの方が多い。日本サイズでは合うジーンズも靴も少ない。
「そっか〜。無駄遣いしてるわけじゃなかったんだ」
「してませんよ」
中に入り、今度のショーで使えそうなトラッド系のウィングチップを買うつもりだった。
大きなショーでは靴も貸し出すが、基本的に小さいショーでは靴はモデルが用意をするのが通例だ。
そのためにいくつもの種類の靴を用意しておかなければならない。
ウィングチップも持っていたが古くなってきていたので買い替えようかと思っていたところだ。
店内に入り目的の靴を探す。オーダー以外ならリーガル、ジョンストン&マーフィー、マレリーの靴が好きだ。
「なんかさ〜……女物の靴より男物の靴の方が……形がいいよな」
「それは私もそう思います。でも女性物の靴もいいものはすごくキレイな形をしてるんですよ。しかも履きやすくて上品で」
最近は流行のデザインばかりが目立つが、本当にいい品は高価だが質も造形もいい。そんな靴が減っているような気がする。
「この間、高耶さんに買ったのはオックスフォードという種類のストレートチップ、というものです。で、これがウィングチップ」
「へー」
「メーカーによって個性がありますから同じストレートチップでも違いがでます。リーガルは真面目そうでしょう?いかにも優等生と言った感じですね。ジョンストン&マーフィーは洗練されたビジネスマン風だし、マレリーは野暮ったいように見えますけど服を見せるにはちょうどいい自己主張をします。どれもいい靴であることには変わりませんけどね」
「……なるほどね……」
そう言って高耶さんは靴を見るのに夢中になってしまった。
欲しいものはありますか?と聞いたら即答で「ない」だった。欲しいと思う気持ちすら考えなくなるほど夢中だ。
美術館と靴屋では趣旨がまったく違うが、高耶さんは自分が気になるものを見つけると常にこうだ。
いくら声をかけても無駄だと思った私は目当ての品を買い、その袋を提げたまま高耶さんの後姿をまたじっと見ていた。何度見ても、いつ見てもキレイな人だ。
高耶さんは私にとって芸術作品のようなもの。刺激も癒しも道徳も背徳も兼ね備えている。
店の人に買いもしないのにずーっと見ている高耶さんが不審がられだした。これはちょっとまずい。
腕を掴んで強引に連れ出した。
「もー」
「お店の人に迷惑でしょう。さ、行きますよ」
「あ、もういいんだ。レディースの靴、見ない」
「どうして?」
「んー、ちょっとデザインが思い浮かんできたから」
そうなのか……。
「帰ろうぜ」
「え、ええ……」
ここでもうタクシーに乗って、根津の高耶さんのアパートまで送って、私は靴屋の紙袋を提げてひとりマンションへ帰る……こういうことか?
楽しい週末は午後5時で終わりなのだろうか。
「電車で帰ろう。日比谷まで散歩して、地下鉄で」
地下鉄だと高耶さんは千代田線、私は三田線。駅でお別れだ。
「タクシーで送りますよ」
「ううん。地下鉄」
「だったら駅まで送ります。私はタクシーで……」
「何言ってんの?直江んちに帰るに決まってるだろ」
私のマンションに?
「でも勉強があるんでしょう?デザイン画も描くって言ってたじゃないですか」
「……そんなに帰したいのか?」
少し傷付いた表情で私を見上げてきた。いつもの小悪魔的な芝居ではなくて、本気で。
「そうじゃありませんけど……」
「直江んちに帰るんだ」
「ですが」
「うるさい」
私の持っていた紙袋を奪って先に歩き出した。怒らせたか。
ズンズンと先を行ってしまう彼の後について歩いた。どうしていいのかわからない。
高耶さんが家に来てくれるならそれはとても嬉しいのだが、私のせいで勉強がはかどらないのは良くない。
「高耶さん」
日曜なのに新橋寄りのこの道は人通りが少ない。普段はオフィス街だからだろう。
その道で高耶さんは立ち止まって振り向いて、下唇を突き出して泣きそうな顔をしている。
「なんか、予定とか、あんの?」
「ありませんよ」
「会わない間にオレがいない方が気楽だって、思ったりしたとか?」
「まさか」
「やっぱウチに帰る」
紙袋を突き返された。そして走り出してしまった。
まずい。泣かせた。
「待ってください、高耶さん!」
絶対に追いつかないといけない。久しぶりに全力疾走した。
さすがに若いだけあり、しかも運動神経がいい高耶さんに追いつくのは時間がかかったが、私だって伊達にスポーツクラブへ通っているわけではない。青信号を高耶さんが渡ってしまう前に追いついた。
「なんですか、急に!」
「だって直江が帰れって言うから!」
「言ってません!」
「言った!」
こんな道のど真ん中で痴話喧嘩もみっともない。人も見ている。
「とにかくちゃんと話しましょう。誤解なんですから」
「う〜」
「泣かないで」
往来で泣き出すような人ではないのに。どうしたんだろう?
とにかくこの顔を他人に見られるのは私も嫌だ。私だけが見ていいものなのに。
タクシーを止めて乗り込み、マンションに戻った。
タクシーの中で高耶さんはベソをかきながらも私の手をずっと握っていた。
運転手さんが泣いている高耶さんを心配してバックミラーでチラチラと見ていた。普通は怪訝な顔をするだろうに、なぜだか知らないが心配そうだったのだ。
高耶さんの魅力はこういうところにも現れる。誰をも魅了する。
マンションの前に着き、まだ涙の乾かない高耶さんの手を引いてタクシーを出た。
エントランスに入るとさすがに恥ずかしくなったのか手を離したが、私がそれをさせなかった。
腕を掴んでエレベーターまで連れて行く。
「乗って」
開いたエレベーターのドアの前で躊躇したから今度は肩を抱いて乗せた。そして最上階に着く間に抱き寄せた。
密室に二人きりという状態がまた高耶さんを泣かせた。
「大丈夫ですよ」
安心させるために髪に頬ずりしてやるともっと泣いた。もう30分以上も泣きっぱなしだ。
だから玄関に入ってすぐにキスをした。
「本当に、どうしたんですか?」
「帰りたくなかったんだよ……直江といたかったのに、あんなふうに帰れって言われて」
「だから帰れなんて言ってませんよ。課題や勉強の心配をしただけで」
「この前だって今日だってマンション行くつったら変な顔するし、昨日も優しかったけどなんか距離感あったし、外じゃいっつもオレの後ろにいるし。……なんで隣りにいないんだよ」
意識はしてなかったがそうかもしれない。
高耶さんの勉強の邪魔をしないように、隣りに立ってどういう組み合わせかと周りに不審がられないようにしていたかもしれない。
だからか。
だからタクシーで手を繋いでいたのか。
「直江がオレを好きだってのはわかってる。でもちゃんと隣りにいなきゃ嫌だ」
そうだな。高耶さんは美術品ではない。人間だ。
私が眺めているだけではいけなかった。触って、話して、抱いて、キスをして、隣りにいてやらなくてはいけなかった。
いくら絵画やドレスに夢中になっていたとしても、だ。
「すいませんでした」
ゆっくり抱きしめて頭を撫でた。これだけじゃダメなんですよね?もっとですよね?
「キスしましょう?」
「うん」
「今日は帰らないでください」
「……帰らない」
「明日の学校もサボってください」
「……直江の仕事は?」
「明日も休みです」
「じゃあ、サボる」
きっと高耶さんがする初めてのズル休みだ。私のためのズル休み。
「明日は何して欲しいですか?」
「明日はずっと隣りにいろ」
「はい」
「……それから」
「それから?」
「オレはおまえに冷たくされたりすんのが嫌いだ。だからワガママもたくさん聞け」
どうしてこんなに可愛いのか。どうして私にだけには素直な一面を見せてくれるのか。
これじゃあどんなワガママだって聞かないわけにはいかないですよ。
「いっぱいワガママ言ってください。全部聞きますし、全部叶えてあげますよ。なんたって愛する高耶さんなんですから」
「……覚悟しろよ」
「ええ、覚悟します」
ズル休みをした高耶さんのワガママは半端なものではなかった。
携帯にメールが来ても見るな。
かっぱえびせん買って来い。
巣鴨の地蔵通りの『うなむすび』が食べたいからダッシュで行って来い。
さっきCMをやっていたゲームがやりたい。
雑誌に出ていたDVDが見たい。他。
もっとこう……隣りを離れずにベッタリだとか、たくさんキスして欲しいだとか、一日中寝室で……とか、そういうのを期待していたんだが。
「ちょっとワガママ過ぎませんか?」
「だから覚悟しろって言ったじゃん。それにオレにズル休みさせたのはおまえなんだからな」
「…………」
まあ、いいか。
愛されているのには変わりないんだ。
「なーなー、愛してるからメチャクチャうまいコーヒー作って」
「はいはい」
お安い御用です。あなたのためならね。
「そんで隣りに座って一緒に飲もう?」
「はい」
END
その1にもどる / 同じ世界35もどうぞ
あとがき
最近高耶さんが泣きすぎるのは
直江と会える日が少なくなって
きてるからです。
色々不満なんでしょう。
つーか私が高耶さんを
泣かせたいだけだったりして。