久しぶりに高耶さんと待ち合わせて映画を見ることになっていた。
六本木ヒルズのジョエル・ロブションの外にあるカフェスペースで午後5時待ち合わせ。
店内でテイクアウトのコーヒーを買い、テーブルについて待っていたところに声を掛けられた。
「直江くん?」
10年ぶりぐらいに名字に「くん」を付けられて呼ばれたものだから背中が痒くなった。
今になってみるとタチバナさんと呼ばれた回数の方が多いような気がしなくもない。
直江くんと呼ぶぐらいだから、学生時代か親の知り合いなんじゃないか?
こんな時、他の人はどう思うのだろうか。過去の自分というものは総じて恥ずかしい思い出しかないような気がするのだが。
「はい?」
とりあえず平静を繕って振り返ってみた。
そこにいたのは華やかな雰囲気と、上品な香水と、洗練されたファッションを纏った女性だった。
「……どなたで……あ、もしかしたら」
「やっぱりそうだった♪」
それは私の高校生の時の彼女だった。
あの頃から学校で一番可愛いと噂をされ、頭も良く、八重歯の笑顔が魅力的で、優しくて友達が多くて温厚でセンスが良くて清楚で……と、まあ長所を上げればキリがない女性だった。
その学生時代、私は自分の名前が嫌で嫌でしょうがなかった。
口幅ったいが成績も良く、容姿も恵まれ、性格もそこそこ良かった(自己診断)私を同級生が妬みの対象に絡んでくるネタは名前ぐらいしかなく、そこを言われると改善のしようもないから適当に相手をしていた時に「いい名前なのにそんなふうに言うものじゃないわ」と彼女が言ってくれたおかげで、それ以来、自分の名前が嫌いではなくなった。
それが縁でお付き合いをするようになった相手なのだ。
「亜津子……?」
「ええ、久しぶり」
相変わらず周りを明るくさせる笑顔だった。お邪魔してもいい?と聞かれて私は立ち上がって椅子を引き、どうぞと促した。
隣りの椅子に座った彼女が鈴のようなキレイな声で話し出す。
「何年ぶり?」
「同窓会で会った時からだから、10年ぶりじゃないか?」
「あの頃ってまだそんなにモデル活動も多くなかったわよね?」
「ああ、学生だったからな」
彼女は私の左手を、私は彼女の左手を見た。どちらもリングがはまっている。
「今は?専業主婦?」
「そう。6時に主人と待ち合わせをして食事に行くの。その前にショッピングでもと思ってたら、こんなところに直江くんがいるから」
直江くんと呼ばれるたびに背中が痒くなるが、そこは耐えるしかあるまい。
「相変わらず目立つのね、あなたは」
「そうか?」
そう言われて思い出す。お互いに目立ちすぎた。それが原因で別れた。
誰からも好かれる彼女を誇りに思いながら、心配ばかりしていた。いつか彼女にもっといい相手が現れるのでは、と。
一方、私は彼女ほど好かれるわけではなく、性格も少しばかりきつかったが、外見だけしか見ていない女生徒からしょっちゅう告白をされていた。
それが悪かったのだろう。目立ちすぎて自分の体裁ばかりを気にしていたせいで疲れ、そんな私の生気のなさに彼女も疲れてしまい、結果別れることになった。
「今は幸せ?」
突然そんなことを聞かれて口ごもる。
幸せ?と聞かれれば「もちろん生きてきてこんなに幸せな時期はなかったぐらいだ!」と高耶さんとの愛の日々を叫びたいほどなのだが、そんな大仰に彼女に言えるはずもなく。
「幸せだよ。とても」
私にしてはとても謙虚に答えたつもりだ。文句なかろう。
「あのね、今度また同窓会をしようって話が出てるの。その時は直江くんも出てね?10年間も出席しないなんてみんなに心配かけるわよ?」
「そうだな。今度は出られるようにする。なるべく早めに教えてくれればスケジュールを調整するから」
ジャケットの内ポケットからカード入れを出して、中から自分の名刺を取り出した。
この名刺は事務所から配られたもので写真も印刷されている。
表面はカタカナでタチバナヨシアキ。それと事務所の住所の他にはメールアドレス。裏面はそれがすべて英語で書かれている。
「何か書くものないか?家のパソコンのアドレスを書くから」
彼女はバッグから細めのシルバーボディのボールペンを出して貸してくれた。
名刺にアドレスを書き込み渡した。
「奥様は大丈夫なの?私からメールが来たら怒らない?」
「事情を話せば問題ないだろう。亜津子が心配しなくたっていいよ」
彼女の髪の毛にタンポポの綿毛がついていた。どこかからか飛ばされてきたのだろう。
こんなビル群に囲まれた中にもフワフワと漂って来て、頑張っているなあ、と思う。なぜだか高耶さんを思い出した。
可愛らしい高耶さん、いや、綿毛を何気なく取ってしっかり根付けと願いながら息を吹きかけて飛ばした。
無事に飛んで行ったのを見て、話の続きをしようと彼女を振り返ったら顔を赤らめて私を見ている。
「なんだ?」
「そういうところ、変わってないわね」
「どんなところ?」
「平気で私の髪を触るところ」
気が付いた。こういう仕草は今現在、高耶さんにしかやっていない。
もしかしたら昔の彼女だったという懐かしさや、ないとは思うが未練なのかもしれない。
「じゃあ私そろそろ行くわ。まだ買い物終わってないしね。またね」
「あ、ああ、また」
「メールするから返事書いてよ?」
「わかった。必ずするよ」
柔らかそうな巻き毛を弾ませて彼女はビルの中に消えて行った。年齢を重ねても可愛らしい女性だ。
懐かしさからそれをずっと目で追っていた時。
「女ッタラシ」
「え?!」
その声は愛する高耶さんだった。私の背後のテーブルにカップを置いて座っていた。
「なーにが『亜津子が心配しなくたっていいよ』だ。誰にでも言ってんじゃねえの?ああ?直江くん」
「たっ、高耶さん!いつから聞いてたんですか?!」
「同窓会がうんたらかんたらってあたり。あの人、直江の同級生なんだな」
「ええそうですただの同級生ですあなたが誤解するような相手では決して」
自分がいるテーブルから高耶さんのテーブルに移って腰をできるだけ低くして謝った。
ロブションでこんなに謝る男は過去から今まで私の他にはいるまい、というぐらいに平謝りだ。
「……なんで謝ってんの?悪いことしたわけじゃないだろ?」
「悪いことをしましたよ」
「……何?」
「あなたが来ているのに、気付かなかったから。あなたのことなら何でも一番に気が付かないといけないのに」
カーッと頬も耳も赤くして高耶さんが俯いてしまった。
「なんで!なんでそーゆー言葉が平気で出るんだよ!!やっぱおまえ女ッタラシだ!」
「あなたにしか言いませんよ」
「うっせぇ!もう行くぞ!映画始まっちまう!」
テーブルを立ってスタスタと歩き出してしまった。
いったい何がそんなに恥ずかしがらせたのだろうか?さっぱりわからん。
「待ってくださいよ!」
高耶さんの後を追って並んで歩こうとしたら、さらに速度を速めた。
「なんなんですか。怒ってるわけじゃないんでしょう?」
「怒ってないけど怒ってる」
「なんですか、それ」
映画館に向かう階段を一段飛ばしで登っていく。可愛い人。
「待ってくださいって、高耶さん!」
「待たない!」
そうは言っても私が予約をして席を取っているのだから、私のキャッシュカードがなければ入れない。
チケットディスペンサーの前で憮然として待っている。
「まだ時間はありますね。チケット出したら少しだけ散歩しましょうか」
「……いいけど」
「けど?」
「………………」
俯いて黙ってしまったので頭をクシャクシャ撫でてからディスペンサーにキャッシュカードを入れ、予約番号を打ち込んでチケットを出した。
それから高耶さんの背中を押し、また外へ。初夏の気持ちいい風がビルをすり抜けるように流れていく。
「さっきの、昔の彼女だろ」
「え?」
階段を降りきった時、唐突に言われた。こちらを見てじっと視線を絡ませて。
この目をされたら嘘も誤魔化しもきかない。
「ええ、そうです。高校生の時のね。もう15年ぐらい前になりますけど」
話しながらヒルズの喫煙所であるバルコニー風の一角へ行った。ここは景色も良く、風通しも良いのだが何しろ喫煙所なものだから人が少ない。
一本、タバコを出して高耶さんの風下に立って火をつけた。
「あの人のこと好きだった?」
「……ええ、まだお互い子供でしたけど、好きでしたよ。とても」
高耶さんに嘘をついてはいけない。すぐにバレるか、あとで嘘だと発覚した時の信用問題になる。
「何か不安なんですか?」
「不安……なわけじゃないけど。向こうも旦那さんがいて、直江にはオレがいて、だから心配してるんじゃないんだけど……なんつーか、あの人にもオレにするようなことしてたのかな、って思って」
「高耶さんにするような、とは?」
「さっきのさ、髪の毛触ったりとか。あと耳触ったりとか……優しくチューしたりとか、膝の上に乗っけたりとか」
只今、高耶さんがだいぶ爆弾発言をしているところです、みなさん。
こんなことを膨れっ面でヤキモチ妬きながら言ったりなんて、屋外ではめったにしない高耶さんが!
「……したんだ?」
「い、いえ。ええと」
「黙るぐらいなんだからしてたんだろ?別にいいんだよ。昔の話なんだから」
「あー……してたこともありますけど」
「なんだ?」
「なにしろ高校生でしたから。私だって高校生のころはウブでしたよ。耳を触ったり、膝の上に乗せるなんて考えもしませんよ」
それでも疑わしげに見てくる。本当なのに。
「おまえって何でも自然にやるからさ、てっきりやってきたもんだと思ってた」
「それはあなたを好きになったからですよ。あなたにしたい思うことが自然に出るんです」
そうだな。たぶん、彼女の髪から綿毛を取ったのも、あの綿毛が高耶さんに見えたからだ。
彼女の髪に触りたいと思ったからでも、彼女の髪が美しいと思ったわけでもなく、都会の綿毛が高耶さんのように頑張っていたから、空を飛ぶ手伝いをしたいと思ったんだろう。
「どうやら私は自分で思っているよりも、あなたのすべてを大事にしているみたいです」
「へ?」
「今ここでキスできないのが残念でなりません」
「……なにソレ……」
「あとでたくさんキスさせて?」
「……う、うん……」
ほんの数歩だけ、喫煙所を出るほんの数歩、高耶さんの手を取って歩いた。
いつもだったら嫌がる彼も、キュッと握り返してくれた。
その時、ふと何かの味を思い出した。なんだったろうか?優しくて甘い味。
「直江?」
「あ、はい。行きましょうか」
それからヒルズの周りを一周して、少しだけ店を覗いたりしてから映画館に入った。
ツヅク
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