受けられるだけ受けようと決めて、いくつか面接を受けている間にも高耶にはバイトが入っていた。
まだ半年間、東京で暮らさなくてはいけないのだ。生活費を稼ぐためにもバイトは抜けられない。
「なあ、今日の帰り、ヒマか?」
一緒に働いている兵頭が声をかけてきた。帰りに夕飯を一緒に食べようという誘いだった。
「いいけど、あんま高いものは食えないぞ。ラーメンとかでいい?」
「俺だって貧乏人なんだよ……おまえの彼氏と違ってな」
兵頭の言葉に高耶が大きく反応した。肩をビクッと揺らして首筋を強張らせて。
「なんだ?」
「……別に。やっぱ、今日は帰る」
別れを告げられてから1週間。まだ直江のなの字も、タチバナのたの字も聞きたくない。
聞けばその時点で涙が溢れそうになってくる。
かといって高耶に恋慕している兵頭に「直江と別れた」と正直に言うのは嫌だった。気を持たせるつもりもないし、慰めてほしいとも思わない。
「なんか最近、態度おかしくねえ?学校も休んでたしさ」
「あ、ああ、それは松本に面接に帰ってたから……授業もそんなに重要じゃなかったし、長めの帰省だっての」
「ふうん……まあ、いいけどさ。なんかあったら相談しろよ。シケたツラばっかしてないでさ」
兵頭は高耶が「シケたツラ」になっているのは就職先が決まっていないからだろうと思っている。
その兵頭は今現在働いているこのバイカーズショップへの就職が決まっていた。
デザイン部門へ正規の面接を受けて、実力で勝ち取った就職先だ。
「最終手段でタチバナのコネ使ってもいいんだしさ」
「そのつもりはない……」
「そっか。おまえらしいつったらおまえらしいな。俺も色々さがしてやるから、気長にいけよ」
「……うん……」
店内の商品を整理しながら、高耶は直江が来ないかと神経を尖らせて背後のエレベーターや階段に気を向ける。
いつものように優しい声をかけて、入ってくるんじゃないかと。来るはずもないのに。
「あ、そーだ。仰木、来週矢崎と一緒に森美術館に行くんだけど、おまえも来るか?」
「……何やんの?」
「うちの卒業生がシンポジウムみたいのに出るんだって。アートと服飾に関してのナントカつってた」
「……行こうかな……ヒマだし……」
「じゃあ3人分、申し込んでおくぞ。いいな?」
「うん」
そういえばこのまえ、直江と一緒にヒルズへ行ったな、と思い出す。
高校生のころの彼女の話を少しだけ聞いた。あの頃から直江は付き合っていてもいつも不安を感じていたと言っていた。
自分よりももっといい相手が現れるんじゃないか、と。
いつもいつも、そんな不安を持っている男に対して、高耶は離れると言ってしまったのだ。
直江が先に別れると言い出すのは当然だったのではないだろうか。
いつのまにか閉店の時間になり、タイムカードを押して店を出る。
手を振って兵頭と別れ、地下鉄に乗った。
もうバイト帰りに山手線に乗ることはないんだな、と高架を見上げながら。
千秋が驚いたのは直江の行動だった。
高耶と別れてから2週間しか経っていないのに、もう女を作っている。
どの程度の付き合いなのかはわからないが、事務所の一階にあるカフェで待ち合わせをしていた。
千秋が打ち合わせの日、休憩時間にカフェで綾子と軽く夕飯を食べていると、そこに他の事務所の女モデルがいた。
モデルとは言うが、直江のようなコレクションに出るようなファッションモデルではなく、主に雑誌やCMで活躍しているスタイルよりも顔の可愛さが売りのモデルだ。
そのモデルに見蕩れていると、ドアを開けて直江が入ってきた。
声をかけようとしたが直江の向かっているテーブルがそのモデルのテーブルだったので、かけそびれた。
「……直江、なんであの子のとこ行ってんの……?知り合い?」
「つーか……オンナ?じゃねえの?」
「え?!高耶くんは?!」
「別れたんだと」
ふたりから見えるテーブルで、直江は昔のような偽者の甘い笑顔で彼女の手を握っている。
「別れたって……嘘でしょ?!」
「嘘じゃねーよ。俺から高耶にも電話して聞いたんだ。マジだってさ」
千秋は大いに気にいらない。あの直江が更生してようやく一人の相手だけをしはじめて、表面上では意地悪も言っていたが、千秋としては直江が高耶によって誠実な男になっていくのが嬉しかった。
そんな直江と話すのも、幸せそうな姿を見るのも、自分まで幸せになっていけるような気がして好きだった。
それは綾子も同じで、直江の女たらしな性格にイライラしたり、面倒な処理を押し付けられることから逃れられたと思っていた上、綾子が高耶を可愛がっていたのもあって直江と付き合っているのは異存もないどころか喜ばしいことだと思っていたのに。
「それっていつ?」
「二週間ぐらい前」
「あいつ……!たった二週間であんなに好きだった子を忘れて遊びまわってるっていうわけ?」
「あんなに好きだったから、遊びまわってんだろ。面倒な性格してるよな」
不快なものを見たと言って綾子は席を立った。
仕方なく千秋も半分しか食べていないBLTサンドを残して席を立った。
その後、直江は夕飯へと彼女を誘い、六本木の街を歩いた。
直江に何が食べたいかと聞かれた彼女は、大きな瞳を上目遣いにして言った。
「タチバナさんのよく行くお店がいいです」
「じゃあ、美味しいフレンチがあるから、そこにしよう」
ヒルズを突っ切ってけやき坂へ出ると、彼女が見たい店があるから、と言ってエスカーダへ入った。
彼女の外見とは少し違って大人っぽい服が置いてあるエスカーダは、直江も好きな店だった。
今までの女はこういった服装をしてたな、と思い出す。
似合いそうな服を選んでやり、金を惜しまずに買い与える。それでこの女の機嫌が取れるなら安いものだ。
礼を言う彼女に笑顔で言いたくもないお世辞を言い、ショップの袋を持ってやる。
ごく自然に彼女が腕を組んできたので、直江も黙っていた。
信号を渡ってからけやき坂を下ろうとした時、見覚えのあるカバンが見えた。肩掛けのそのカバンはいつも見ていたもの。
J−WAVEのDJブース、けやき坂スタジオの前に小さな人だかりができていた。ガラス張りのスタジオの中で
最近話題になっているバンドがいるようだ。
それを見上げる人たちの中に、会いたくて会いたくて、世界で一番会いたくない高耶がいた。
心臓が鷲掴みにされる。
喉を鳴らして唾を飲み込むと、高耶の隣りに立っている、高耶よりも少しだけ背が高い男が見えた。
兵頭だった。
高耶は兵頭の肩に手を置いて、背伸びをしてブースの中を覗き込んでいる。顔を近づけて話している。
炎のような嫉妬心と、底なし沼のような絶望感が襲う。
「あのバンド、私も好きなの」
少し見たい、と彼女が言ったが、直江には聞こえていない。
「タチバナさん?」
その声に高耶が反応しないはずがない。タチバナ、どころか、タチ、だけでもギクリとなる高耶が。
振り向くな、それ以上は振り向かないでくれ。
そう念じてみたが、無駄だった。
高耶の目が直江を捉えた。
大きく目を瞠って、直江を見ている。
やりきれなさから直江は視線を外して足を速めた。高耶とすれ違う瞬間に眉を寄せてチラリと見ると、高耶は怒りと驚愕に満ちた目で直江を睨んでいた。侮蔑とも取れる視線だった。
振り切って歩くと、一歩足を出すごとに背中を焼かれるような気がした。
高耶がこっちを見ているような気がして。
「こっちでいいの?タチバナさん」
「あ、ああ。坂を下って……麻布十番の方へ」
その時、直江を支配していたのは後悔だった。
どうして兵頭とふたりで……。まさか、考えたくもないが、まさか。
自分がしていることを基準に考えて、胸をかきむしりたい衝動にかられた。
「どうしたよ、仰木」
少し離れて立っていた矢崎が高耶の様子がおかしいことに気付いたが、高耶はなんでもないと平静に答えた。
横に立っていた兵頭には気付かれたらしい。どうなっているんだという目で高耶を見ている。
「なんか食って帰る?」
「あー、オレはいいや。ちょっと節約したいから」
「そうか、兵頭は?」
「用があるから帰る」
けやき坂を登って六本木通りに出て、矢崎は渋谷行きのバスに乗った。高耶と兵頭は地下鉄の駅へ。
「少し……話せるか?」
兵頭には誤魔化しきれないと思い頷いた。
「どっか店、入るか?俺がおごってやる」
「いや……たぶん、泣くから……うち来る?」
「ああ……その方が良さそうだ」
公衆の面前で泣かれたらたまらない。ましてや泣かせているのは自分ではなく、その場にいない男なのだから。
そんな男のせいで泣かせたと非難の視線を浴びるのなど冗談じゃない。
高耶のアパートに着いてじっくり話を聞いた。松本へ就職の面接に行っただけで別れると言った直江に腹が立った。
「仕方ないってわかるだろうに。なんてやつだ」
「でもさ……オレもわかってたんだよな。離れて暮らすなんて、あいつにとっては別れるってことと同じなんだってこと」
目を赤くして鼻をかみながら、高耶がすべてを話した。
自分だったら高耶をこんなふうに泣かせはしないのにと思う。
「こんな時になんだけど……俺、まだフリーだから」
「冗談やめてくれ」
「冗談じゃなく、マジで。別に今すぐってわけじゃないんだ。しばらく考えてもらっていい」
「だから、オレはおまえと違って本物のホモじゃないんだってば。今度は可愛い女の子と……付き合う」
「それでも、だ。おまえが俺を必要だって思ったら、いつだって待ってる。タチバナと同じぐらい大事にする自信あるし、タチバナよりもおまえを好きになる自信もある。金じゃあいつに追いつかないけど、美味いものも食わせてやるしだな」
「餌付けか」
少しだけ高耶が笑った。それだけでも安心する。
「餌付けでもなんでもするさ」
「アホらしい」
ツヅク
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