同じ世界で一緒に歩こう 40 |
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それからようやくゲームに飽きた兵頭が先に風呂に入った。そこで見たものは。 「まだ未練タラタラなわけか」 ユニットバスにある歯ブラシは2本。どう考えても高耶のではないだろう香水のビンもある。 風呂上りの兵頭に渡そうと、直江がパジャマ代わりに使っていたTシャツとジャージを出していると、ノックの音がした。 「なおえ……」 薄いドアからテレビの音も漏れているだろうし、ドアの上の明り取りから室内の明かりも漏れている。 「高耶さん……」 小さな声がした。あの男の、あの声だ。 兵頭はまだ風呂場だ。だけど玄関に靴がある。誤解される。 震えながら、ドアチェーンをかけたまま、開いた。 「……高耶さん……」 あの女はどうしたんだ?あのマンションにいるのか?それを言いに?それとも? 「話を……しに……」 緊張で掠れた声を出しているのは直江も高耶も同じだった。 「なんの、話だ……」 しばらく無言で立っていた。お互いに何を話せばいいのか、何から話せばいいのかわからない。 「あの……おん……」 あの女は誰だ。そう言おうとしたら、兵頭がユニットバスから出てきた。 「仰木?」 玄関にいる高耶を不審に思って覗いてみると、少しだけ開けられたドアの向こうに直江がいた。 「ひょっ……う……」 兵頭を部屋へ押し戻して、黙らせた。 「そんなのオレが一番わかってんだ。黙っててくれ。頼むから」 零れそうになる涙をどうにか零さずに、玄関へ向かった。 「あいつの言うとおり、用なんかない……帰ってくれ……二度と、来ないでくれ」 これ以上、傷つくのは嫌だ。おまえを苦しめるのも嫌だ。だったら完全に終わりにしてくれないと、立ち直れない。 「帰れ……」 それ以上、ドアからは何も音がしなくなった。帰ったのだろうと、ドアから離れて兵頭が座っているベッドの前に腰を下ろした。 「自分からあんな真似しときながら……!なんなんだ、あいつは!」 それぐらいはお安い御用だと、呆れ気味に兵頭が笑った。
高耶の部屋のドアから数歩下がって、信じられない気持ちのまま見つめていた。 「……そうだよな」 自分に女がいるように、高耶に新しい恋人がいたっておかしくはない。 音を立てないように階段を降りて地面に立つといきなりそこが奈落になった。 帰りはどうなるのだろうか、と考えたがそれも一瞬で掻き消える。 知らない、こんな所。 こんな場所も知らない、この坂もわからない、地面に着いているのは足なのだろうか、頭の上で光っているのは月ではないのではないか、こんなふうに考えている自分が誰だかわからない。 「俺は俺じゃないんだろうか」 わかるのはあの人の名前だけ。思い出すのは笑顔だけ。 「高耶さん……」 一歩一歩ゆっくりと歩き出す。知らない道を迷いながら。 気が付くとマンションに戻っていた。いくら傷付いたってこれが人間なのだろう。家に帰ることは忘れない。 味気ない部屋だった。ここも自分の知らない部屋。 「もう、ダメかもしれない……」 朝日が部屋の中を照らしても、直江の目には闇しか見えない。 泣いて。
すまない、今日は行かれない。 昨日の服装のまま床に寝転がっていると、マンションのインターフォンが鳴った。 「た……」 高耶かもしれないと急いで受話器を取り上げると、小さなモニターに写ったのは綾子の姿だった。 『開けなさい』 綾子の怒りを含んだ声に諦めの溜息をついてエントランスを開けた。数分してから綾子が部屋にやってきた。 「自業自得なんじゃないの?」 いきなり突きつけられた言葉に直江は息を飲む。 「あんたが病気で仕事を休むなんて珍しいことだからってみんなは許してるけど、あたしは知ってるのよ。どうせ高耶くんのことでウジウジしてるだけだってことぐらいね」 なぜ綾子がそんなことを知っているのか不思議に思ったが、誰にでもわかるほど直江の顔は悲惨だった。 「その腫れぼったい目見ればわかるわよ。あの女の子と出かけて振られたって感じじゃないわね。高耶くんに会ったの?」 玄関先だというのに直江の目からほろほろと涙が落ちた。 「なにこれ……」 ソファの上には脱ぎ捨てた服が数着。床にもあった。さらに郵送で届いたらしき雑誌の入った封筒がそのまま放り出されていて、空き缶や酒瓶まで床に置いてある。 「あんたね!こんなになるぐらいだったら別れなきゃ良かったでしょ!何考えてんのよ!」 普段穏やかな直江に怒鳴られてたじろいだ。しかしここで引いては社会人としての立場を失う。 「部屋の中なんかどうでもいいわ!仕事よ!あんた仕事して食ってるんでしょう?!こんな生活しておいてまともに仕事できると思ってんの?!思ってないでしょうね!今日すっぽかしたんだから!」 仕事のことを言われてしまうと直江には反論できなくなる。確かに今日はすっぽかした。 「……もう今日のことはいいわ。そんな顔でショーに出られたらクライアントにも迷惑かけるから。明日はちゃんとしなさいよ」 片手で目の上に庇を作るようにして、直江が小さな声で吐き出した。 「今、入ってるスケジュールが終わったら……辞めたい」 モデルを続けていれば嫌でも高耶を思い出す。思い出して泣くだろう。 「やめるって、本気で言ってるの?」 ここまで直江が思い詰めているとなると話が違ってくる。綾子にとっては仕事よりも直江という友人の今後が心配だった。 「二度と会えない……もう嫌なんだ……自分が自分じゃないのに、モデルなど続けていかれない……」 しかし綾子もわかっている。思い出したくないと言うくせに、直江の頭の中は高耶でいっぱいで、心の中も高耶でいっぱいで、会いたくないのは会いたくてたまらないという意味なことを。 「そんなの、あの子は許さないわよ……?逃げるなんて」 初めて見た直江の涙は熱そうだと綾子は思った。熱くて冷めない熱を涙にして流しているのだと思った。 「あんたがそう思ってるなら、モデルを続けろとは言えないのよ、事務所の人間としては……でも、個人的には辞めてほしくない。あんたはショーモデルやってる時が一番生き生きしてるから」 何もかもを放棄した直江をこのまま続けさせるのはあまりにも残酷なのだろう。 「ねえ……あんたさ、まだ好きなんだよね?」 ずっと泣いている直江が心配なのと、明日の仕事に支障をきたさないようにしたいのとで直江を一夜面倒見ることにした。 「もしもし?あのね、ちょっと直江が心配だからこのままマンションに残るわ。明日は大丈夫だと思うけど」 事務所には病気ということにしておいてやろう。あまりにも哀れだ。 「明日はあたしが現場に行くから、一蔵くんは事務所にいてって伝えておいてね」 電話を切って鮎川の携帯にかけ直した。 「門脇です。今、直江のマンションにいるんですけど、明日は行かせます。それとちょっとお話が」 電話の向こうで鮎川が真剣に聞いているのがわかる。鮎川は直江が学生のころからモデルとして活動してきたのを支えていた人間で、綾子よりも先に鮎川に相談があって然りな話を先にされてしまったことを気に病むかもしれない、そう思って直江がモデルを辞めたがっている話をした。 「いえ、今回はその……気まぐれとかじゃなくて、本気らしくて……」 鮎川の返事も綾子が考えていたことと同じだった。惜しいが本人の意思を尊重しなければならない、と。 「じゃあ、そのような方向でスケジュールを調整していきます……」 寝室のドアに目をやって綾子は大きな溜息と、同情の言葉を漏らした。 「バカね……」
END
あとがき まだまだ続くのでまた切りました。
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