同じ世界で一緒に歩こう

40

あいたくない人

その2

 
   

 


結局終電が終わるまで兵頭をつき合わせてしまい、泊まってもらうことにした。
少し騒がしいかな、と思ったが、兵頭がどうしてもやりたいと言うのでゲームをして騒いで、少しだけ元気が出てくる。
いつも友達には助けられているな、と心から感謝をした。

それからようやくゲームに飽きた兵頭が先に風呂に入った。そこで見たものは。

「まだ未練タラタラなわけか」

ユニットバスにある歯ブラシは2本。どう考えても高耶のではないだろう香水のビンもある。
こんな小さなものまで捨てることすら出来ない。

風呂上りの兵頭に渡そうと、直江がパジャマ代わりに使っていたTシャツとジャージを出していると、ノックの音がした。
この叩き方は……。

「なおえ……」

薄いドアからテレビの音も漏れているだろうし、ドアの上の明り取りから室内の明かりも漏れている。
居留守を使っても罪にはならないと思うのだが、ドアの向こうに会いたくてたまらない男がいる。
さっきの女は何なんだと聞きたい気持ちもある。でもそんなものを聞く資格は自分にはない。

「高耶さん……」

小さな声がした。あの男の、あの声だ。

兵頭はまだ風呂場だ。だけど玄関に靴がある。誤解される。
でも会いたい。どうして別れなくてはいけないのか聞きたい。
それよりも何よりも、直江が会いにきた。会いにきてくれた。

震えながら、ドアチェーンをかけたまま、開いた。

「……高耶さん……」
「なに、しに、来た」

あの女はどうしたんだ?あのマンションにいるのか?それを言いに?それとも?

「話を……しに……」

緊張で掠れた声を出しているのは直江も高耶も同じだった。

「なんの、話だ……」
「……わかりません……でも、気が付いたら、ここへ……」

しばらく無言で立っていた。お互いに何を話せばいいのか、何から話せばいいのかわからない。

「あの……おん……」

あの女は誰だ。そう言おうとしたら、兵頭がユニットバスから出てきた。

「仰木?」

玄関にいる高耶を不審に思って覗いてみると、少しだけ開けられたドアの向こうに直江がいた。
今更なんだ。こんなに傷つけておきながら。
怒りが込み上げてきて、半裸のまま玄関に向かい、ドアを乱暴に閉めた。

「ひょっ……う……」
「帰れ!おまえになんか用はないとよ!」
「……高耶さん……」
「おまえはもう仰木には必要ないんだ!おまえがそうしたんだろうが!どのツラ下げて……!」

兵頭を部屋へ押し戻して、黙らせた。

「そんなのオレが一番わかってんだ。黙っててくれ。頼むから」
「だけど!」
「頼むから!!」

零れそうになる涙をどうにか零さずに、玄関へ向かった。
ぶつかる鈍い音が小さく何度もドアにしていた。直江が頭をドアにぶつけている音だった。

「あいつの言うとおり、用なんかない……帰ってくれ……二度と、来ないでくれ」

これ以上、傷つくのは嫌だ。おまえを苦しめるのも嫌だ。だったら完全に終わりにしてくれないと、立ち直れない。

「帰れ……」
「……た……」

それ以上、ドアからは何も音がしなくなった。帰ったのだろうと、ドアから離れて兵頭が座っているベッドの前に腰を下ろした。

「自分からあんな真似しときながら……!なんなんだ、あいつは!」
「もういいんだ。あいつ、もう女いるし。そのうちオレのことなんか忘れてくれるよ」
「仰木……だって、おまえは」
「好きだけど、どうしようもないこともあるんだな。いい勉強になった……」
「……バカが……」
「うん……。今日は、おまえにいてもらってよかったよ。きっと直江もそーゆーことかって思っただろうし」

それぐらいはお安い御用だと、呆れ気味に兵頭が笑った。
どうせならこのままそーゆー関係になりたいもんだが、と冗談めかして。

 

 

高耶の部屋のドアから数歩下がって、信じられない気持ちのまま見つめていた。
古くて安物なのがよくわかる木製のドア。しかし直江にとっては何よりも温かなドアだったのに。
中からは小さく笑い声が聞こえている。自分がこの中で高耶と笑っていた時のような静かな笑い声。

「……そうだよな」

自分に女がいるように、高耶に新しい恋人がいたっておかしくはない。
それに相手は前々から高耶に恋慕していた兵頭だ。直江がいない寂しさを紛らわすために、手近なところにいた兵頭を誘って、慰めてもらっていてもおかしくはない。

音を立てないように階段を降りて地面に立つといきなりそこが奈落になった。
このまま地の底まで落ちてしまいそうな感覚で眩暈がする。
どうやってここまで来たのか、歩いたことだけは覚えているが道順を覚えていない。来るだけでも相当な時間がかかった。

帰りはどうなるのだろうか、と考えたがそれも一瞬で掻き消える。
病人のような足取りで直江は歩き出す。何度も来た道が今はまったく知らない道にしか見えず、いつも見ている風景が知らない町に見える。

知らない、こんな所。

こんな場所も知らない、この坂もわからない、地面に着いているのは足なのだろうか、頭の上で光っているのは月ではないのではないか、こんなふうに考えている自分が誰だかわからない。

「俺は俺じゃないんだろうか」

わかるのはあの人の名前だけ。思い出すのは笑顔だけ。

「高耶さん……」

一歩一歩ゆっくりと歩き出す。知らない道を迷いながら。

気が付くとマンションに戻っていた。いくら傷付いたってこれが人間なのだろう。家に帰ることは忘れない。
エントランスで新しい鍵を出して開錠する。エレベーターに乗って最上階のボタンを押して部屋に入る。

味気ない部屋だった。ここも自分の知らない部屋。
しんとしていて音もなく、温かさもなく、匂いもしない。
今まで自分は高耶がいなくてどうやって過ごしてきていたのだろう。もうわからない。

「もう、ダメかもしれない……」

朝日が部屋の中を照らしても、直江の目には闇しか見えない。
床に寝転がって背中を丸める。背中に朝日が当たっても温度を感じない。たぶん俺は死人なんだ。

泣いて。
顔を両手で覆って。
死人はむせび泣く。

 

 

すまない、今日は行かれない。
そう一蔵に電話してデパートで開催される小さなファッションショーをすっぽかした。代理で他のモデルが行くことになったとさきほど一蔵から直江の携帯に連絡が入った。

昨日の服装のまま床に寝転がっていると、マンションのインターフォンが鳴った。

「た……」

高耶かもしれないと急いで受話器を取り上げると、小さなモニターに写ったのは綾子の姿だった。

『開けなさい』
「…………」
『いいから開けなさい』

綾子の怒りを含んだ声に諦めの溜息をついてエントランスを開けた。数分してから綾子が部屋にやってきた。

「自業自得なんじゃないの?」

いきなり突きつけられた言葉に直江は息を飲む。

「あんたが病気で仕事を休むなんて珍しいことだからってみんなは許してるけど、あたしは知ってるのよ。どうせ高耶くんのことでウジウジしてるだけだってことぐらいね」
「長秀に聞いたのか……口の軽いやつだ」
「あんたを心配してるからでしょ。昨夜、何があったの?」
「……どうして」

なぜ綾子がそんなことを知っているのか不思議に思ったが、誰にでもわかるほど直江の顔は悲惨だった。

「その腫れぼったい目見ればわかるわよ。あの女の子と出かけて振られたって感じじゃないわね。高耶くんに会ったの?」
「ああ……」
「それで?」
「……あの人とはもうやり直せないことを実感したんだ」

玄関先だというのに直江の目からほろほろと涙が落ちた。
その姿に驚いた綾子は部屋の中に入るように促し、後ろをついて行って部屋をみて驚いた。
いつも直江の部屋は整理整頓されていた。本人の癖で片付いていないと落ち着かないのを知っていた綾子はその散らかりように驚いたのだ。

「なにこれ……」

ソファの上には脱ぎ捨てた服が数着。床にもあった。さらに郵送で届いたらしき雑誌の入った封筒がそのまま放り出されていて、空き缶や酒瓶まで床に置いてある。
キッチンのシンクも洗われていない食器が散乱している。

「あんたね!こんなになるぐらいだったら別れなきゃ良かったでしょ!何考えてんのよ!」
「やかましい!」

普段穏やかな直江に怒鳴られてたじろいだ。しかしここで引いては社会人としての立場を失う。

「部屋の中なんかどうでもいいわ!仕事よ!あんた仕事して食ってるんでしょう?!こんな生活しておいてまともに仕事できると思ってんの?!思ってないでしょうね!今日すっぽかしたんだから!」

仕事のことを言われてしまうと直江には反論できなくなる。確かに今日はすっぽかした。
たとえそれがどんな仕事であろうが直江には責任があったのだ。

「……もう今日のことはいいわ。そんな顔でショーに出られたらクライアントにも迷惑かけるから。明日はちゃんとしなさいよ」
「綾子……そのことなんだが」

片手で目の上に庇を作るようにして、直江が小さな声で吐き出した。

「今、入ってるスケジュールが終わったら……辞めたい」
「え?!」
「もうこんな仕事、やめさせてくれ……」

モデルを続けていれば嫌でも高耶を思い出す。思い出して泣くだろう。
もしも高耶がデザイナーとして売れれば、その時は顔を合わせることもあるだろう。
それは今の直江には耐えられない。

「やめるって、本気で言ってるの?」
「ああ」
「いいの?あの子と本当に縁が切れちゃうわよ?」

ここまで直江が思い詰めているとなると話が違ってくる。綾子にとっては仕事よりも直江という友人の今後が心配だった。

「二度と会えない……もう嫌なんだ……自分が自分じゃないのに、モデルなど続けていかれない……」
「あんた……」
「高耶さんと会いたくない……。少しでも思い出したくないんだ」

しかし綾子もわかっている。思い出したくないと言うくせに、直江の頭の中は高耶でいっぱいで、心の中も高耶でいっぱいで、会いたくないのは会いたくてたまらないという意味なことを。

「そんなの、あの子は許さないわよ……?逃げるなんて」
「逃がして欲しいんだ。もう高耶さんを思って生きるのは辛い」

初めて見た直江の涙は熱そうだと綾子は思った。熱くて冷めない熱を涙にして流しているのだと思った。

「あんたがそう思ってるなら、モデルを続けろとは言えないのよ、事務所の人間としては……でも、個人的には辞めてほしくない。あんたはショーモデルやってる時が一番生き生きしてるから」
「もう無理だ……」
「……そうみたいね……」

何もかもを放棄した直江をこのまま続けさせるのはあまりにも残酷なのだろう。
しかし惜しいと感じる自分がいるから、綾子は少しだけ考えなさいと言ってその話を終わらせた。

「ねえ……あんたさ、まだ好きなんだよね?」
「いくら好きでも終わったものは終わったんだ……」
「諦めるの?」
「諦めるしかないだろう……あの人は、俺なんかが幸せにできるような人じゃないんだ。もっとおおらかで、優しい人間しか、幸せにしてやれない」

ずっと泣いている直江が心配なのと、明日の仕事に支障をきたさないようにしたいのとで直江を一夜面倒見ることにした。
部屋を片付け、風呂に入らせ、寝かせて、綾子は事務所に電話をかけた。

「もしもし?あのね、ちょっと直江が心配だからこのままマンションに残るわ。明日は大丈夫だと思うけど」

事務所には病気ということにしておいてやろう。あまりにも哀れだ。

「明日はあたしが現場に行くから、一蔵くんは事務所にいてって伝えておいてね」

電話を切って鮎川の携帯にかけ直した。

「門脇です。今、直江のマンションにいるんですけど、明日は行かせます。それとちょっとお話が」

電話の向こうで鮎川が真剣に聞いているのがわかる。鮎川は直江が学生のころからモデルとして活動してきたのを支えていた人間で、綾子よりも先に鮎川に相談があって然りな話を先にされてしまったことを気に病むかもしれない、そう思って直江がモデルを辞めたがっている話をした。

「いえ、今回はその……気まぐれとかじゃなくて、本気らしくて……」

鮎川の返事も綾子が考えていたことと同じだった。惜しいが本人の意思を尊重しなければならない、と。

「じゃあ、そのような方向でスケジュールを調整していきます……」

寝室のドアに目をやって綾子は大きな溜息と、同情の言葉を漏らした。

「バカね……」


 

END



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あとがき

まだまだ続くのでまた切りました。