同じ世界で一緒に歩こう

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ブレンデッドウィスキー

 
   

 


そろそろ卒業制作に入るから忙しくなる、と高耶さんに言われ、会えなくなる時期が来るのかと思った。
毎年この時期は1年間の集大成である作品を作らなくてはいけないので忙しくしている。
しかも今度は1年間ではなく3年間だ。卒業するのだから。

「だから今週は金、土、日と空けてあるから、二人でのんびりしよう」
「いいですね」

金曜の夜、私たちは待ち合わせてマンションのそばのカジュアルなイタリアンレストランに行った。
以前から二人でたまに入る店で、値段も安くて高耶さんが気に入っているところだ。

そこでピザとパスタと魚料理を頼んで腹八分目まで満たした。
デザートが食べたいという高耶さんにはティラミスを。

「トイレ行ってくる」

ティラミスが来る間に席を立った高耶さんが、戻ってくると渋い顔をした。
そして運ばれてきていたティラミスを元気なさげに食べ始める。

「どうしたんですか?」
「うーん、ちょっとな」

視線を追うと10歳ぐらいと6歳ぐらい男の兄弟がいる席を見ていた。
親子で来ているようなのだが、来店時からどうも子供の行儀が悪い。

「あの兄弟がさ、トイレんとこの通路でオレにぶつかったんだよ。後ろからドンて」
「ああ、さっきからずっと走り回ったりしてますね」
「オレ、子供は好きなんだよ。可愛いじゃん?でもちょっと非常識だなって思って、こういう場所で騒いだらいけないよって注意したんだ」

高耶さんらしい行動だ。

「そしたら『バカ』って言われた……舌打ちもされた……」
「それは……行儀の悪い子たちですね……」
「なんか呆気に取られて反論も出来なかったよ。まさかバカって言われると思ってなかったからさ」

兄弟が騒いでいるのに両親は我関せずで、二人で食事を進めている。
たまに注意をしているようだが、子供はそれを聞く様子はなく、席を離れてウロウロし、人にぶつかったりケーキの入ったショーケースに寄りかかったりしていた。
子供なのだから外出先ではしゃいでしまうのは仕方がないが、目に余る。

「すっげー虚しい」
「たまにはそういうこともありますよ」
「直江だったら自分の子がああやって騒いでたらどーする?」
「容赦せずに叱りますよ。手加減しながらぶったりもするでしょうね。私の両親がそういう人でしたから」

高耶さんは少し複雑そうな顔をした。そういえば高耶さんは小学生、中学生の頃にお父さんに暴力を受けていた。
それを思い出してしまったんだろうか。

「あ、変なこと考えてるだろ?違うからな。そーゆーんじゃないから。オレ殴られて育ったけど……小さい頃は直江んちみたいな感じで手加減してぶたれたりしてたよ。今になって考えるとさ、それはしつけで、暴力じゃなかったじゃん?だから必要な時もあると思ってる。直江が悲しそうな顔しなくてもいいんだよ」

考えていることが見透かされてしまったのか。
勘がいいのは長所でもあるが、たまに困ることもある。

「そろそろ出ようか」
「そうですね」

このままマンションに戻ろうかと思ったのだが、高耶さんの気分が晴れないらしく、これからどこかへ飲みに行こうと言い出した。
たぶん酒を飲みたい気分になったのだろう。モヤモヤしているに違いない。

あまり遠出はしたくないので高耶さんの家の近所の根津へ。最近はこのあたりも洒落た店が増えてきていてあなどれない。
よくわからないのでグルグルと町を歩いていたら、玄関に竹を植えている和洋折衷の小さなバーを発見し、二人の意見も一致したのでそこに入った。

中は薄暗くて、アンビエントの音楽がかかっている落ち着いたバーになっていた。昼間はカフェをやっているらしい。
半個室風の席があったので、そこを希望すると快く案内してくれた。私の顔を見て驚いていたから優遇してくれたのかもしれない。

「静かなところだな」
「ええ、落ち着きますね。何飲みます?」
「えーと、あんまり強くないやつがいいな。甘くて」

高耶さんにはカシスウーロンを薦め、自分にはウィスキーを。
珍しいウィスキーでなかなかお目にかかれない銘柄だ。響30年。値段は一杯で1万円。
値段を知られると怒られるので高耶さんにはメニューを見せないようにしてオーダーした。

「なんかさ……オレって心狭いよな」
「そうですか?どこらへんが?」
「全体的に」

高耶さんの心が狭いのだったら、私などは3畳一間のアパートなみに狭いんじゃないだろうか。
高耶さんのこの落ち込みが、さっきのレストランでの一件のせいだというのは勘でわかった。

「さっきのあれですか?」
「うん、まあ……他にも色々あるけど……」

カクテルとウィスキーが運ばれてきて、話はいったん中断した。
お互いにチビチビと口をつけて飲んで、高耶さんからの言葉を待った。

「地元に幼稚園の先生やってるやつがいて」
「はい」
「男の先生だから園児には珍しいらしいんだ。だから慕われるんだって。でも中にははしゃぎすぎて勢い良くそいつに飛びついてくる子がいて、やっぱ先生だから子供を守ることを優先したら腕を骨折しちゃったんだって。そんでそいつは先生って立場から怪我なんか関係なく叱ったんだ。いきなり飛びついたら危ないぞって。そしたら親が怒鳴り込んできたんだ」
「先生に怪我をさせたのに?」
「そう。親は関係ないんだよ、先生の怪我なんか。自分の子供が叱られたって泣いて帰ればそんなの見えなくなる」

それは特殊なケースだと思うが、中にはそういう人もいるんだろう。

「で、そいつは親御さんに謝って、幼稚園側も謝罪して、それで終わり」
「……先生の怪我に対しては何もなかったんですか?」
「ないよ」

気の毒な話だ。

「で、オレが思ったのは……そういう子が大きくなったらどうなるんだろうって。無関心な親よりは全然いいけど、だからって過保護になってもどうかと思うんだ。そんで、自分と重ね合わせてみたんだ」
「高耶さんと?」
「うん。そしたら色々と思い出してきて……小さい頃はウチも普通の家庭だったから、とりあえず基本的な常識ってのは叩きこまれてるだろ?挨拶とかさ。……そんで親父が荒れ始めて……中学生の頃が一番ひどくて、オレ……子供ながらに気が付いたんだ」

グラスについた水滴をゆっくり指でなぞって、大きな水の粒を作る。そしてコースターに染み込ませてから泣きそうな顔をして言った。

「人間はきっと、親に半分育ててもらって、あとの半分は自分で自分を育てなきゃいけないんだなって」

真理かもしれない。親や他人の影響も必要だが、人間は自分で考えて成長していくものだ。

「オレの場合は苦し紛れにそう思い込もうとしてただけで、これが正しいのかどうかはわからないよ?でもそう思わないと生きていけなかったんだ。オレは生まれてこなきゃ良かったんじゃないかって思ってる時期だったから、親父を殺そうとしたり、自殺しようとしたり、そんなことを一瞬考えるんだけど……でも、自分で自分を育てるって決めたんだろって思えば少し楽になるんだ。多少、歪でもいいから足を踏み外さないようにしっかり立とうって。美弥のためにも」

このごろ、高耶さんはこういった昔の話をよくするようになった。松本へ行ってから増えた気がする。
それは今後の将来、私と暮らしていくにあたって知っていて欲しいんだとばかりに。

まだ傷は癒えていないんだろう。話し始めると悲しそうな表情をして、目に涙が浮かぶ。

「だから……今日みたいな子供を見ると……心配になる」

大きな溜息をついてからグラスを傾けて喉に流し込んだ。甘くて清涼感のあるカシスウーロンは込み上げる嗚咽を少しは抑えてくれるのだろうか。

「親は放任のつもりでも、いつか子供が思い出して、あれは放任じゃなく無関心だったんじゃないかって思ったら……それが思春期になった頃とかだったらグレる原因のひとつになるんだよ。オレはそうだったしさ。他人の痛みがわからないまま育ってたらもっと怖いだろ?そーゆーのを考えたから、注意したんだけど……どうなんだろう?」

最近になって気が付いたのは、高耶さんの行動の中心には他人がいない。
常に自分が中心になって物事を考える。
それを「自己中心的」と呼ばれるものだと錯覚してしまう人もいるだろうが、そうではない。

「自業自得って言葉の意味を知ってますか?」
「知ってるよ。自分が悪いことしたら自分に返ってくるって意味だろ?」
「残念ながら違います。これは仏教用語なんですよ。厳密な意味は自分のしたことは必ず自分に返ってくるってことなんですけど」
「オレが言ったのと同じじゃねえの?」

おまえは何をわけわからないこと言ってんだ、と小さく呟いた。

「本来の意味は、自分がしたこと……良いことであれ、悪いことであれ、すべて自分のためなんだって意味です」
「…………?」

首を傾げて話の続きを促す。その仕草が可愛らしかったので思わず笑ってしまった。

「例えば、誰かが目の前で溺れている。どうします?」
「助けるよ」
「どうして?」
「だって溺れてるのに放っておけないじゃん」
「それは誰のため?」
「溺れてる人のため」

禅問答のような問いかけにますます疑問符を増やして眉間にシワを寄せている。

「よく考えて。じゃあ溺れている人を放っておくとします。そして死んでしまうとします。その時、あなたの心には何が残りますか?」
「……後悔」
「嫌な気持ちになる?」
「なるよ、当たり前じゃん」
「あなたは、その嫌な気持ちを味わいたくないから、人を助けるんですよ」
「はあ?!」

突然出た大きな声に店にいた人たちがこちらを見た。高耶さんの声には多少の怒気が混ざっている。

「なんてこと言うんだ、おまえはっ」
「人間とはそういう生き物なんですよ。すべて自分のためです。それが自業自得の本来の意味です。すべては自分のため。善意、善行とは自分のために出る行動であり、他人のためではありません」
「納得できねえ!直江がそーゆー考えの持ち主だったなんてショックだ」
「まだ話は終わってませんけど、先を聞きたくないですか?」

しばらくの沈黙の後、高耶さんは話の続きをしろと私を睨みながら言った。

「自分のために行動できない人は、他人のために行動なんか出来ません。いい例があなたですよ」
「オレ?」
「高耶さんが私に優しくしたり、大事にしてくれるのは、どうしてですか?」
「……直江が大事だから」
「それは誰のため?」
「……自分のため……」

ハッと気が付いたような顔をした。私を見て驚愕しているようでもある。

「そうでしょう?愛とはそういうものなんです。誰かに優しくしたりするのに理由はいりませんよね?自分がその人を大事だと思うから優しくする。それだけです。例えそれが見ず知らずの人であっても、騒いでいる子供であっても、あなたがその人を大事にしたいと思う心から出る感情です。愛を持って接している、そういうことなんです。自分のため、イコール、他人のためです。自分を基準に考えないで他人に優しくしなくてはいけないなんていう口先だけの教えなんか、ただの偽善ですよ。自分がいて、他人がいる。それを自覚しないで善意だ何だと言うのは傲慢です」

成熟されたウィスキーを一口飲んだ。
心地よいフルーティーな苦味がすっと広がって、まるで人生を飲んでいるようだった。

「さっきの溺れてる人の例えがなんかわかったかも」
「そう?」
「自分が不快になるから他人を助けるって言い方は、やっぱり好きにはなれないけど。確かに一回自覚しちまえばそうだよな。自分のためにしか人間は行動できないよ。けどそれって形や結果を求めてじゃなくて、自分で自分を突き動かす何かによって、だ」
「その何かが、本当の意味での善意ってやつでしょうね」

酒を飲むにはちょうどいい話だったかもしれない。真剣に理論で考えるのではなく、酔った頭で感覚だけで心に響かせるような、そんな話。

「あなたの取った行動は間違いではないし、心が狭いわけでもありませんよ。あれは愛から出た行動です」
「……うーん、そう言われると安心するなぁ」
「自分を基準に、自己中心的に考えるのは当然のことです。というか、そうじゃないといけないんですよ」
「直江って……ホントに坊さんの修行してたんだな……」

今更改めて言われると、今まで高耶さんの目に映っていた私はいったいどんな人間だったのだろうかと考えてしまう。
もしかしたら本当の、正真正銘のバカだと思われていたのだろうか。

いつの間にか高耶さんのグラスが空になっていた。同じものを頼むか聞いたら、直江と同じものがいいと言われてしまった。

「ウィスキーなんか飲めないでしょう?」
「チャレンジだよ、チャレンジ」

さっきとは打って変わって明るい表情。私が彼のためにしてあげられることはそう多くない。
よく考えたら今の話だって自分自身のためだ。高耶さんという人を守ってあげたいという、自分の意思だ。

人間は勝手な生き物だけど、すべてに愛を含ませればその勝手も他人のためになる。不思議なものだ。

高耶さんの前に新しいウィスキーが置かれ、その芳醇な香りを嗅いでから一口舐めるようにして飲んだ。

「……やっぱダメだ。おまえが飲め。すいませーん、カシスウーロンくださーい」

強いアルコールがダメだとわかったら私に押し付けて飲ませる。これは愛か?

「二杯目飲んだら帰ろうな。今日はウチに泊まってけばいいよ。すぐ近くだから」
「ええ、そうします」
「んーと、これは自分のためか、直江のためか……」
「二人のため、で、いいじゃないんですか?」
「だな」

熟成された30年もののブレンデッドウィスキー。
いつか私とあなたもこんな芳しさを出すのだろうか。人生のようなウィスキーは甘くて苦かった。

 

 

END



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あとがき

ガンガン進まないように
小休止です。
つまんねー話ですがこーゆーの
好きなんですよ。