同じ世界で一緒に歩こう 52 |
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「だから今週は金、土、日と空けてあるから、二人でのんびりしよう」 金曜の夜、私たちは待ち合わせてマンションのそばのカジュアルなイタリアンレストランに行った。 そこでピザとパスタと魚料理を頼んで腹八分目まで満たした。 「トイレ行ってくる」 ティラミスが来る間に席を立った高耶さんが、戻ってくると渋い顔をした。 「どうしたんですか?」 視線を追うと10歳ぐらいと6歳ぐらい男の兄弟がいる席を見ていた。 「あの兄弟がさ、トイレんとこの通路でオレにぶつかったんだよ。後ろからドンて」 高耶さんらしい行動だ。 「そしたら『バカ』って言われた……舌打ちもされた……」 兄弟が騒いでいるのに両親は我関せずで、二人で食事を進めている。 「すっげー虚しい」 高耶さんは少し複雑そうな顔をした。そういえば高耶さんは小学生、中学生の頃にお父さんに暴力を受けていた。 「あ、変なこと考えてるだろ?違うからな。そーゆーんじゃないから。オレ殴られて育ったけど……小さい頃は直江んちみたいな感じで手加減してぶたれたりしてたよ。今になって考えるとさ、それはしつけで、暴力じゃなかったじゃん?だから必要な時もあると思ってる。直江が悲しそうな顔しなくてもいいんだよ」 考えていることが見透かされてしまったのか。 「そろそろ出ようか」 このままマンションに戻ろうかと思ったのだが、高耶さんの気分が晴れないらしく、これからどこかへ飲みに行こうと言い出した。 あまり遠出はしたくないので高耶さんの家の近所の根津へ。最近はこのあたりも洒落た店が増えてきていてあなどれない。 中は薄暗くて、アンビエントの音楽がかかっている落ち着いたバーになっていた。昼間はカフェをやっているらしい。 「静かなところだな」 高耶さんにはカシスウーロンを薦め、自分にはウィスキーを。 「なんかさ……オレって心狭いよな」 高耶さんの心が狭いのだったら、私などは3畳一間のアパートなみに狭いんじゃないだろうか。 「さっきのあれですか?」 カクテルとウィスキーが運ばれてきて、話はいったん中断した。 「地元に幼稚園の先生やってるやつがいて」 それは特殊なケースだと思うが、中にはそういう人もいるんだろう。 「で、そいつは親御さんに謝って、幼稚園側も謝罪して、それで終わり」 気の毒な話だ。 「で、オレが思ったのは……そういう子が大きくなったらどうなるんだろうって。無関心な親よりは全然いいけど、だからって過保護になってもどうかと思うんだ。そんで、自分と重ね合わせてみたんだ」 グラスについた水滴をゆっくり指でなぞって、大きな水の粒を作る。そしてコースターに染み込ませてから泣きそうな顔をして言った。 「人間はきっと、親に半分育ててもらって、あとの半分は自分で自分を育てなきゃいけないんだなって」 真理かもしれない。親や他人の影響も必要だが、人間は自分で考えて成長していくものだ。 「オレの場合は苦し紛れにそう思い込もうとしてただけで、これが正しいのかどうかはわからないよ?でもそう思わないと生きていけなかったんだ。オレは生まれてこなきゃ良かったんじゃないかって思ってる時期だったから、親父を殺そうとしたり、自殺しようとしたり、そんなことを一瞬考えるんだけど……でも、自分で自分を育てるって決めたんだろって思えば少し楽になるんだ。多少、歪でもいいから足を踏み外さないようにしっかり立とうって。美弥のためにも」 このごろ、高耶さんはこういった昔の話をよくするようになった。松本へ行ってから増えた気がする。 まだ傷は癒えていないんだろう。話し始めると悲しそうな表情をして、目に涙が浮かぶ。 「だから……今日みたいな子供を見ると……心配になる」 大きな溜息をついてからグラスを傾けて喉に流し込んだ。甘くて清涼感のあるカシスウーロンは込み上げる嗚咽を少しは抑えてくれるのだろうか。 「親は放任のつもりでも、いつか子供が思い出して、あれは放任じゃなく無関心だったんじゃないかって思ったら……それが思春期になった頃とかだったらグレる原因のひとつになるんだよ。オレはそうだったしさ。他人の痛みがわからないまま育ってたらもっと怖いだろ?そーゆーのを考えたから、注意したんだけど……どうなんだろう?」 最近になって気が付いたのは、高耶さんの行動の中心には他人がいない。 「自業自得って言葉の意味を知ってますか?」 おまえは何をわけわからないこと言ってんだ、と小さく呟いた。 「本来の意味は、自分がしたこと……良いことであれ、悪いことであれ、すべて自分のためなんだって意味です」 首を傾げて話の続きを促す。その仕草が可愛らしかったので思わず笑ってしまった。 「例えば、誰かが目の前で溺れている。どうします?」 禅問答のような問いかけにますます疑問符を増やして眉間にシワを寄せている。 「よく考えて。じゃあ溺れている人を放っておくとします。そして死んでしまうとします。その時、あなたの心には何が残りますか?」 突然出た大きな声に店にいた人たちがこちらを見た。高耶さんの声には多少の怒気が混ざっている。 「なんてこと言うんだ、おまえはっ」 しばらくの沈黙の後、高耶さんは話の続きをしろと私を睨みながら言った。 「自分のために行動できない人は、他人のために行動なんか出来ません。いい例があなたですよ」 ハッと気が付いたような顔をした。私を見て驚愕しているようでもある。 「そうでしょう?愛とはそういうものなんです。誰かに優しくしたりするのに理由はいりませんよね?自分がその人を大事だと思うから優しくする。それだけです。例えそれが見ず知らずの人であっても、騒いでいる子供であっても、あなたがその人を大事にしたいと思う心から出る感情です。愛を持って接している、そういうことなんです。自分のため、イコール、他人のためです。自分を基準に考えないで他人に優しくしなくてはいけないなんていう口先だけの教えなんか、ただの偽善ですよ。自分がいて、他人がいる。それを自覚しないで善意だ何だと言うのは傲慢です」 成熟されたウィスキーを一口飲んだ。 「さっきの溺れてる人の例えがなんかわかったかも」 酒を飲むにはちょうどいい話だったかもしれない。真剣に理論で考えるのではなく、酔った頭で感覚だけで心に響かせるような、そんな話。 「あなたの取った行動は間違いではないし、心が狭いわけでもありませんよ。あれは愛から出た行動です」 今更改めて言われると、今まで高耶さんの目に映っていた私はいったいどんな人間だったのだろうかと考えてしまう。 いつの間にか高耶さんのグラスが空になっていた。同じものを頼むか聞いたら、直江と同じものがいいと言われてしまった。 「ウィスキーなんか飲めないでしょう?」 さっきとは打って変わって明るい表情。私が彼のためにしてあげられることはそう多くない。 人間は勝手な生き物だけど、すべてに愛を含ませればその勝手も他人のためになる。不思議なものだ。 高耶さんの前に新しいウィスキーが置かれ、その芳醇な香りを嗅いでから一口舐めるようにして飲んだ。 「……やっぱダメだ。おまえが飲め。すいませーん、カシスウーロンくださーい」 強いアルコールがダメだとわかったら私に押し付けて飲ませる。これは愛か? 「二杯目飲んだら帰ろうな。今日はウチに泊まってけばいいよ。すぐ近くだから」 熟成された30年もののブレンデッドウィスキー。
END
あとがき ガンガン進まないように
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